Nanzan Journal of Theological Studies
在名古屋教皇庁認可神学部・南山大学人文学部キリスト教学科編・発行
ISSN: 0387-3730
Janusz KUCICKI | The Pharisee and the Tax Collector in Lk 18:9-14 -- Sociological and Theological Interpretations | 1-23 |
ヘラ,マリアヌス パレ | イエスとニコデモ(ヨハ3:1-21)--「キリスト論と弟子理解」の二重構造とその物語機能 | 25-56 |
井上 淳 | 「人間において,理性的魂と感覚的魂と自育的魂は一つの実体であるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第11問題について | 59-91 |
松根 伸治 | 七つの罪源の系譜とトマス・アクィナス | 93-142 |
アンジェリーナ・ヴォルペ | 地中海と中東における平和のための尊者ジョルジョ・ラ・ピーラの活動 -- 第1回「平和とキリスト教文明のための会議」(1952年)から第1回「地中海コロキウム」(1958年)の発端まで | 147-180 |
田中 昇 | カトリック教会の秘跡的生活における信仰の役割 -- 教会生活の課題解決に関する一考察 | 183-253 |
南 翔一朗 | カントの宗教哲学における神義論批判と神に対する誠実な抗議の道徳的価値 | 257-275 |
ハンス ユーゲン・マルクス | カルケドン公会議による教理宣言 | 1-21 |
ヤヌシュ・クチツキ | アリマタヤのヨセフ -- 4つの福音書における文学的提示 | 25-43 |
岡嵜 隆哲 | アウグスティヌスの「告白」における探求 --『告白』第10巻1-5章 | 45-62 |
井上 淳 | 「魂は身体全体の内に存在し,かつそのどの部分の内にも存在しているのであるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第10問題について | 65-93 |
田中 昇 | カトリック教会の祓魔式 | 97-210 |
Rejimon VARGHESE | 書評:Reza Aslan, Zealot: The Life and Times of Jesus of Nazareth, Westbourne Grove, London: The Westbourne Press, 2014, pp. i-xxxiv and 1-318. | 213-220 |
加藤 久美子 | 「知恵文学」の概念に関する近年の議論 -- 主要な論点と箴言研究に対する意義 | 1-34 |
柊 暁生 | マルタとマリア -- ルカ10章38-42節の文学的考察(前半) | 35-52 |
Janusz KUCICKI | Portraits of Pilate According to the Christian Canonical Writings and Jewish Historical Works -- Part Five: Pilate in the Narrative of John's Gospel | 53-67 |
井上 淳 | 「天使と魂は種において異なるのであるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第7問題について | 69-98 |
西脇 良 | 児童学者・関寛之の生涯 -- 宗教性発達研究の先駆者の生涯 | 99-124 |
アンジェリーナ・ヴォルペ | 教育とミッション -- ジョヴァンニ・リヴァによるキリスト教的教育 | 125-151 |
吉田 文 | 教会音楽を通した福音告知の一提案 -- 待降節・降誕節における会衆の行動的参加型集会の実践経験より | 153-187 |
ヤコブ・ライチャーニ | 研究ノート:男女の違い -- 人間の尊厳の視点から | 189-209 |
Jakub RAJČÁNI | 書評:N. MESSER, Theological Neuroethics: Christian Ethics Meets the Science of the Human Brain, Bloomsbury T & T Clark: London, 2017, 215 pp. | 211-214 |
柊 暁生 | なぜヨセフへの告知は夢によるのか -- マタイ福音書における夢の実現と預言の成就 | 1-20 |
Janusz KUCICKI | PORTRAITS OF PILATE ACCORDING TO CHRISTIAN CANONICAL WRITINGS AND JEWISH HISTORICAL WORKS -- Part three: Pilate According to the Author of Mark's Gospel | 21-45 |
Marianus Pale HERA | From Christology to Discipleship -- Reading John 13:1-20 (The Footwashing) as a Literary Unity | 47-79 |
井上 淳 | 「能動知性は単一であり離在しているのであるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第5問題について | 81-111 |
三好 千春 | カトリック伝道士・細渕重教とその時代 | 113-144 |
Jakub RAJČÁNI | Guardini's Christ and Buddha: Buddhism in the eyes of a Catholic theologian now and then | 145-179 |
田中 昇 | J. J. Conn『選ばれる小教区』-- 翻訳と注解 | 181-229 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 「三章論争へのプレリュード」-- エフェソス公会議後の新たな抗争の第一期 | 1-55 |
Janusz KUCICKI | THE MESSIAH IN THE TRINITARIAN HYMN OF THE LETTER TO EPHESIANS -- Theological Analysis of the Eulogy in Eph 1, 3-14 | 57-77 |
浅井 太郎 | ego animus -- アウグスティヌスにおける魂 animus の特質 | 79-127 |
井上 淳 | 「能動知性を措定することは必要であるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第4問題について | 129-152 |
Tibur HELI | St. John of the Cross' teaching on Contemplation | 153-176 |
鳥巣 義文 | 日常的な聖霊の経験の再考 -- ラーナーの論考を手掛かりに | 177-190 |
ヤコブ・ライチャーニ | 徳の主体は誰なのか?-- キリスト教の徳論に関する一考察 | 191-215 |
Rejimon VARGHESE | "CARNIS RESURRECTIONEM" -- Origins and Implications | 217-228 |
Marianus Pale HERA | Who Are the Bad Guys? -- Psalm 82 and the Movie Of Gods and Men | 229-238 |
ヤコブ・ライチャーニ | 自然本性が倫理的な当為の根源なのか?-- 公理 agere sequitur esse の意味をめぐって | 1-17 |
アンジェリーナ・ヴォルペ | オペラ・ディ・ナザレ -- 十字架につけられたアガペ | 19-46 |
Janusz KUCICKI | Judea after Herod the Great -- Herodian Dynasty (4 BC-67 AD) according to the writings of Josephus Flavius | 47-110 |
Rejimon VARGHESE | Sacramental Participation -- The Church's Pneumatological, Christological Engagement | 111-158 |
Tibur HELI | Encountering God in the Face of the Poor According to Gustavo Gutierrez | 159-179 |
井上 淳 | 「可能知性もしくは知性的な魂は全ての人に一つであるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第3問題について | 181-223 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 「神の母」-- エフェソス公会議(431年)の決議と調停への最初の試み | 225-281 |
西脇 純 | 「たゞひとゑに御大切にわもやうされ」--「こんちりさんのおらしよ」の系譜(1) | 283-321 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 「死者の中から最初に生まれた方」-- カロリング朝時代における養子論争の終息 | 1-47 |
Janusz KUCICKI | The Last Years of Herod the Great -- The Life of Herod the Great according to the writings of Flavius Josephus (18-4 B.C.) | 49-83 |
市瀬 英昭 | アンティオキアのイグナティオスにおける殉教理解 -- その聖餐観へ接近するために | 85-108 |
松根 伸治 | 枢要徳はなぜ四つか -- トマス・アクィナスによる理論化 | 109-143 |
井上 淳 | 「人間の魂は存在的に身体から分離しているのであるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第2問題について | 145-187 |
佐藤 啓介 | 無神論論争とキリスト教哲学論争 -- 戦間期フランス知識人における「世俗化」の一断面 | 189-206 |
Tibur HELI | THE DIVINE ROMANCE: The Trinity in a Poem of St. John of the Cross and its Relevance for SVD Formation in Japan | 207-228 |
清水 美佐 | 閉ざされた門がひらく -- コーラ修道院葬礼用礼拝堂の「閉ざされた門」解釈 | 229-261 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 「死者の中から最初に生まれた方」-- カロリング朝時代における養子論争の展開 | 1-27 |
Janusz KUCICKI | Herod, the King of Judaea -- A life of Herod the Great according to writings of Flavius Josephus (37-18 B.C.) | 29-64 |
Tibur HELI | A Spirituality of Reconciliation | 65-83 |
井上 淳 | 「分離した魂は物体的な火によって罰を受けることができるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第21問題解説,翻訳と註 | 85-116 |
アンジェリーナ・ヴォルペ | プリモ・マッツォラーリ神父(1890-1959)と平和 -- 平和は十字架に架けられている | 117-148 |
レジモン・ヴァルギース | 『典礼憲章』の「行動的参加」の神学について | 149-168 |
Seung Chul KIM | 10 Theses on Decentering Theology: Asian Christian Theology in Dialogue with Religion and Science | 1-27 |
浜口 吉隆 | エピケイアの徳の再評価 -- 人間的行為の倫理判断と司牧的実践に向けて | 29-52 |
Tibur HELI | Union with God According to St. John of the Cross | 53-78 |
西脇 純 | グレゴリオ聖歌研究(5)--「主の降誕 日中のミサ」の入祭唱「Puer natus est」の理解に寄せて | 79-100 |
柊 曉生 | エジプト入国のイスラエルの子ら -- 出エジプト記1章1-7節 | 101-133 |
Janusz KUCICKI | Places and People in Luke's Narrative of the Mission Journey of Saul. Socio-narrative interpretation of Ac 13-14 | 135-162 |
井上 淳 | 「分離した魂は個々のものを認識するか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第20問題翻訳と註 | 163-189 |
松根 伸治 | トマスは主知主義者か -- 知性と意志の関係 | 191-216 |
渡邉 学 | オウム真理教事件をめぐる省察 -- 元幹部の手記を中心に | 1-29 |
Janusz KUCICKI | To be Led by the Spirit of God. Structural Analysis of Rom 8, 1-39 | 31-57 |
大森 正樹 | 神の場とエネルゲイア -- パラマス問題解決の試み | 59-83 |
井上 淳 | 「感覚的能力は分離した魂の内に存続するか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第19問題解説,翻訳と註 | 85-110 |
西脇 純 | グレゴリオ聖歌研究(4) | 111-133 |
西脇 良 | 関寛之の宗教性発達理論について | 135-156 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 「キリストの母」-- ネストリオスの問題提起の文脈と真意 | 1-36 |
浜口 吉隆 | 「現代世界憲章」の人権教説 -- 聖書神学の背景を探る | 37-62 |
井上 淳 | 「分離した魂は全ての自然的なるものを知性認識することができるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第十八問題 翻訳と註 | 63-91 |
Walter DUNPHY | Rufinus of Aquileia in the Middle Ages: The Evidence of Manuscripts | 93-141 |
Janusz KUCICKI | Saul of Tarsus, the Man who became the Apostle Paul | 143-192 |
アンジェリーナ・ヴォルペ | シャルル・ド・フコーによる「普遍的な兄弟愛」 | 193-228 |
西脇 純 | グレゴリオ聖歌研究(3) | 229-253 |
江川 憲 | 「福音としての神の言葉」再考 | 255-274 |
<在名古屋教皇庁認可神学部設置25周年記念号> | ||
ハンス ユーゲン・マルクス | 巻頭言 | |
柊 曉生 | レビの娘・モーセ・ファラオの娘 -- 出エジプト記2章1-10節 | 1-33 |
柳澤 田実 | カリス=借金帳消しのリアリズム -- 福音書への生態心理学的アプローチ | 35-60 |
江川 憲 | 共観福音書問題に関する一考察 -- Mt 22, 34-40 とその並行箇所の比較検討 | 61-74 |
Janusz KUCICKI | Dualism as a Basic Motif of Eschatology: A comparative analysis of "The Treatise of the Two Spirits" and 1 & 2 Thessalonians | 75-109 |
大森 正樹 | ディオニュシオス『神名論』における「テアルキア」について | 111-133 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 「死者の中から最初に生まれた方」-- カロリング朝時代における養子論争開始の経緯 | 135-163 |
井上 淳 | トマス・アクィナスにおける,人間の魂の離在的諸実体の認識について | 165-192 |
松根 伸治 | トマスにおける《高邁》magnanimitas の位置づけ | 193-212 |
松村 良祐 | トマス・アクィナスにおける愛について | 213-235 |
西脇 純 | グレゴリオ聖歌研究(2) | 237-258 |
大橋 真砂子 | 中世初期イングランドの司牧をめぐって -- ベーダ『教会史』を中心に | 259-275 |
宮本 久雄 | 講演録:身体を張る愚かな,愚かなパウロ | 1-30 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 「一つにして同じ方」-- 古代キリスト論に対するラテン教父の貢献 | 31-70 |
井上 淳 | 「分離した魂は離在的諸実体を知性認識することができるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第十七問題およびその平行箇所,『対異教徒大全』第三巻第四十五章と『任意討論』第三討論 第九問題第一項 翻訳と註 | 71-102 |
三好 千春 | 1960年代の青少年労働者とカトリック教会 | 103-124 |
柳澤 田実 | 宗教的経験と行為の動機づけ -- 経験科学に基づく宗教研究の可能性 | 125-148 |
アンジェリーナ・ヴォルペ | キリスト者としての地上のミッション -- Servus Dei アルチーデ・デ・ガスペリ(1881-1954年)の生涯 | 149-182 |
Janusz KUCICKI | Eschatology of 2 Thess. as a proof in a polemic concerning authenticity of Thessalonians Correspondence | 183-208 |
西脇 純 | グレゴリオ聖歌研究(1) | 209-228 |
浜口 吉隆 | 罪と回心 -- B. ヘーリンクの倫理神学を中心に | 1-40 |
井上 淳 | 「人間の魂は,身体と結合している時,離在的諸実体を知性認識することができるか」-- トマス・アクィナス『定期討論集 魂について』第十六問題 翻訳と註 | 41-64 |
アンジェリーナ・ヴォルペ | ジョルジョ・ラ・ピーラのイザヤの道 -- 平和のための仕事 | 65-97 |
石橋 泰助 | 洗礼の秘跡を受けずに死去した幼児に関する見解 | 99-115 |
鳥巣 義文 | パウロの第一回福音宣教の旅(使徒言行録13・1-14・28) | 117-139 |
西脇 純 | 高田三郎と典礼聖歌(2) | 141-159 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 文明の対話 -- 新しい世界政治と教皇ベネディクト16世 | 1-25 |
Walter DUNPHY | Unexplored Paths: Relating to the Outbreak of the Pelagian Debate | 27-54 |
大森 正樹 | パキメレースによる擬ディオニュシオス解釈 -- ビザンティン的テキスト解釈の一例 | 55-75 |
井上 淳 | トマス・アクィナスにおける分離した魂の認識(2)--『定期討論集デ・アニマ』第十五問題「身体から分離した魂は知性認識することができるか」解題,翻訳と註 | 77-121 |
アンジェリーナ・ヴォルペ | ジョルジョ・ラ・ピーラによるキリスト教人間学 | 123-149 |
鳥巣 義文 | 「命を与えるイエス」について(ヨハネ11章1-57節) | 151-171 |
西脇 純 | 高田三郎と典礼聖歌(1) | 173-191 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 悪魔の権限 -- アウグスティヌスの贖罪論の一側面 | 1-43 |
浜口 吉隆 | 倫理神学における「根本的選択・決断」 | 45-70 |
江川 憲 | Mt 21, 23-22, 46の構成について | 71-93 |
大森 正樹 | 神の本質の把握不可能性について -- 東方教父とトマス・アクィナスの解釈 | 1-23 |
井上 淳 | トマス・アクィナスにおける分離した魂の認識 --『定期討論集 デ・アニマ』第十四問題「人間の魂の不死性について」翻訳と注解 | 25-53 |
Angelina VOLPE | Christianity and the Catholic Church in Japanese High School Textbooks | 55-106 |
鳥巣 義文 | イエスと共にあり,学ぶこと -- ルカ10, 38-11, 36をめぐって | 107-128 |
浜口 吉隆 | 学会報告:教皇庁健康司牧ケア協議会の第十九回国際会議 | 129-144 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 正しい戦争はあるか -- 歴史の答え | 1-43 |
鳥巣 義文 | 模範であるイエス -- キリスト者とムスリムの相互理解に向けて | 45-67 |
浜口 吉隆 | 要理教育におけるキリスト教倫理 -- 新要理書『カトリック教会の教え』の出版に寄せて | 69-112 |
Angelina VOLPE | Education and mission in Japan in the Modern Age | 113-142 |
鳥巣 義文 | 新しい兄弟姉妹の共同体 -- イエスとその対人関係の吟味 | 143-158 |
西脇 純 | 古代西方教会における「ルミナチオ」 | 159-171 |
吉田 聖 | 神のしもべ 聖ヨゼフ・フライナーデメッツ師著『新約の至聖なる犠牲』-- ミサ聖祭解説の霊的講話 つづき(後半部分) 付録:「ミサ聖祭前後の都合のよい時に司祭が唱える種々の祈り」(ラテン語和訳と注解) | 173-220 |
鳥巣 義文 | 聖霊の経験 -- 聖書の描く神の躍動性について | 1-31 |
ドミンゴス・スザ | 罪と悪の問題 -- キェルケゴールと親鸞の比較考察 | 33-56 |
吉田 聖 | 神のしもべ ヨゼフ・フライナーデメッツ師著『新約の至聖なる犠牲』-- ミサ聖祭解説の霊的講話 | 57-164 |
<創刊25号記念号> | ||
江川 憲 | 『南山神学』第25号刊行と教皇庁認可神学部 | |
鳥巣 義文 | 『南山神学』第25号刊行に寄せて | |
江川 憲 | Mt 19, 1-25, 46の構成に関する一考察 | 1-13 |
西脇 純 | 古代教会における「病者の塗油」 | 15-47 |
井上 淳 | 胚種の中にある「形成の力」(virtus formativa)-- トマス・アクィナスにおける人間の産出理論 | 49-66 |
大森 正樹 | 祈りの方法論 --『フィロカリア』における伝「新神学者シメオン」と二つの不詳の著者による論攷を中心に | 67-90 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 近代の逆説的象徴 -- ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ | 91-126 |
鳥巣 義文 | 三位一体と多元主義 | 127-152 |
Angela VOLPE | I laici sono la chiesa: Riflessioni sulla vocazione e missione dei laici | 153-179 |
吉田 聖 | 中世ラテン語写本 "HORAE" --『時禱書』即ち『小聖務日課』(名古屋・古川美術館所蔵)の解読研究「資料(その2)」 | 181-207 |
南山神学総目次・南山神学テーマ別総目次(第1号~第25号) | 223-245 |
江川 憲 | 「もうひとつのたとえを聞きなさい」-- マタイ21, 33-41について | 1-44 |
鳥巣 義文 | 神と人々との我々 -- 三位一体の神による救いの現実についての一考察 | 45-76 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 自立主体の発見 -- 古代キリスト教の遺産 | 77-114 |
浜口 吉隆 | 生命をめぐる倫理原則 | 115-142 |
久松 英二 | ビザンツのヨーガ行者 --『ヨーガ・スートラ』と「イエスの祈り」 | 143-180 |
吉田 聖 | キュプリアヌス著『ドナートゥスに送る -- 神の恵みと回心について』CYPRIANUS, AD DONATUM 解説と翻訳と注解 | 189-207 |
<南山大学創立50周年記念論文集> | ||
ハンス ユーゲン・マルクス | 南山大学創立50周年記念号に寄せて | |
小池 英光 | 創立50周年記念号と南山学会 | |
江川 憲 | 『招かれるものは多いが選ばれるものは少ない -- Mt 22, 1-14について | 1-77 |
鳥巣 義文 | 神の救済史的啓示 -- エイレナイオス『使途的宣教の証明』を中心にして | 79-112 |
石橋 泰助 | 古代教会における再洗礼論争について -- キュプリアヌスの見解を中心として | 113-141 |
久松 英二 | 「神そのもの」と「神の働き」-- グレゴリオス・パラマスによる東方神学的基礎づけ | 143-163 |
Osvaldo CAVALLAR | The Guardian of the Text: Humanistic Philology and Authority in Bellarmino | 165-220 |
浜口 吉隆 | カトリック医療施設における医療倫理 -- 延命医療と生命の終焉を中心に | 221-257 |
ハンス ユーゲン・マルクス | 「人間の尊厳」-- ルネサンスの貢献 | 259-296 |
吉田 聖 | キュプリアヌス著『デメトリアーヌスに送る -- キリスト教弁明の書』CYPRIANUS AD DEMETRlANUM; APOLOGETICUS 翻訳と注解 | 297-329 |
江川 憲 | 「あなたがたは聖書のうちに読んだことがないのか」-- マタイ21, 42-44について | 1-29 |
鳥巣 義文 | 救済論の二相 -- 反宇宙的理解と親宇宙的理解の衝突 | 31-51 |
山田 望 | 古代教会における幼児洗礼とその神学的根拠 | 53-88 |
西脇 純 | まことのささげもの -- ローマ奉献文中の一節 Quam oblationem の理解に寄せて | 89-136 |
久松 英二 | いわゆる「マカリオス文書集」における霊性 | 137-162 |
アンジェラ・ヴォルペ | ジョヴァンニ・リヴァ講演記録『小さなキリスト教人間学』(2) | 163-196 |
江川 憲 | 断食問答(Mk. 2, 18-22)について(2) | 1-22 |
熊木 建郎 | 預言者エレミヤとエルサレム神殿 | 23-39 |
ハンス=ユーゲン・マルクス | 中世キリスト論の底流 -- 定説確立への歩み | 41-79 |
鳥巣 義文 | 『三と言うな』-- コーランのキリスト教的神理解批判について | 81-96 |
久松 英二 | 『砂漠の師父の言葉』における修道精神 | 97-114 |
吉田 聖 | ラテン教父の総合研究(8)キュプリアヌス著『フォルトゥナトゥスに与う -- 殉教のすすめについて』CYPRIANUS, AD FORTUNATUM, DE EXHORTATIONE MARTYRII 翻訳と注解 | 115-158 |
浜口 吉隆 | イタリア司教委員会の公文書『離婚・再婚した者及び不法と困難な結婚事情にある者の司牧』(1979年4月26日) | 159-184 |
アンジェラ・ヴォルペ | ジョヴァンニ・リヴァ講演記録『小さなキリスト教人間学』(1) | 185-216 |
鳥巣 義文 | 書評:Tony MCALEAVY, Life in a Medieval Abbey | 217-218 |
鳥巣 義文 | 書評:滝澤武人『人間イエス』 | 218-220 |
石橋 泰助 | 古代教会における悔悛の神学 -- テルトゥリアーヌスをめぐって | 1-24 |
鳥巣 義文 | コーランのイエス像 | 25-41 |
Angela VOLPE | Gli Europei incontrano l'Asia orientale: i colonizzatori, i mercanti, i missionari | 43-68 |
石脇 慶總 | 神道の神学への序説(3)-- 諸宗教の神学のための一試論 | 69-124 |
ウォルター・ダンフィー,大橋 真砂子 | ヒエロニュムス『ドムニオ宛書簡』(Ep. 50)-- 翻訳と注解 | 125-143 |
吉田 聖 | ラテン教父の総合研究(7)キュプリアヌス著『おとめの身だしなみについて』CYPRIANUS, DE HABITU VIRGINUM 翻訳と注解 | 145-181 |
浜口 吉隆 | 書評:澤田愛子著『末期医療からみたいのち -- 死と希望の人間学』 | 183-186 |
江川 憲 | 断食問答(Mk. 2, 18-22)について(1) | 1-34 |
石橋 泰助 | サクラメントのキリストによる制定について -- その歴史的意味と現代的理解に関する一考察 | 35-114 |
石脇 慶總 | 『共同体善徳試論』-- W. フェリー神父の思想に触発されて | 115-150 |
鳥巣 義文 | 修道会についての一考察 | 151-163 |
吉田 聖 | Q:ラテン語写本 "HORAE" とは? A:『時禱書』即ち『小聖務日課』!-- 日本唯一の「中世ラテン語写本 "HORAE"(古川美術館所蔵)の解読研究 | 165-196 |
浜口 吉隆 | 教理省 -- 離婚して再婚した信者の聖体拝領(カトリック教会の司教たちへの手紙) | 197-206 |
浜口 吉隆 | 書評:石井誠士著『癒しの原理 -- ホモ・クーランスの哲学』 | 207-209 |
石橋 泰助 | 書評:石脇慶總著『神秘との合一を求めて -- J. マリタンにおける神実在の認識に関する研究』 | 210-213 |
石脇 慶總 | 書評:オットー・ゼンメルロート著・石橋泰助訳『原サクラメントである教会』 | 214-219 |
吉田 聖 | 新口語訳「主の祈り」について -- 比較言語的並びに教父神学的観点からの一考察 | 1-43 |
石脇 慶總 | 聖母マリアの霊的母性 | 45-76 |
青山 玄 | 日本文化史におけるキリシタン信仰の意義 | 77-97 |
江川 憲 | ダビデの子問答(Mt 22, 41-46)について | 99-130 |
久松 英二 | 東方修道制におけるアパテイア | 1-21 |
石脇 慶總 | 試論:マリアの無原罪の御宿りの特権について | 23-57 |
アンジェラ・ヴォルペ | 隠れキリシタン(4)--「隠れ」について | 59-90 |
長倉 久子 | 神より神へ -- ボナヴェントゥラの神秘思想 | 91-109 |
鳥巣 義文 | 万人の救いと教会 --「教会の外に救いはない」という命題の成立及び解釈史 | 1-39 |
宮坂 朋 | 「ヨルダン」という名前の子羊について -- 聖ピエトロ・エ・マルチェリーノ・カタコンベ墓室3の天井画をめぐる研究 | 41-81 |
アンジェラ・ヴォルペ | 隠れキリシタン(3)-- 隠れの伝統と習慣 | 83-114 |
青山 玄 | 神秘家宗教詩人シレジウスの被造物観 | 115-126 |
Eiji HISAMATSU | Hesychastische Gebetsmethode bei Pseudo-Symeon und Nikephoros | 127-175 |
江川 憲 | 復活問答(Mt 22, 23-33)について | 1-26 |
石脇 慶總 | 神学序説 -- 諸宗教の神学のために | 27-80 |
アンジェラ・ヴォルペ | 隠れキリシタン(2)-- はたして離れたのか | 81-99 |
青山 玄 | 書評:植田重雄著『守護聖者』 | 101-108 |
枝村 茂 | インスティトゥトゥム・セクラーレ -- その神学的意義及び教会法上の性格 | 1-21 |
吉田 聖 | 大学におけるラテン語教育 | 23-55 |
アンジェラ・ヴォルペ | 隠れキリシタン -- 回顧と展望(1) | 57-82 |
江川 憲 | 納税問答(Mt 22: 15-22)について | 83-124 |
青山 玄 | 書評:門脇佳吉著『道の形而上学 -- 芭蕉・道元・イエス』 | 125-129 |
ハンス・ユルゲン・マルクス | 死の彼方 -- フィレンツェ公会議による教理決議の前史 | 1-80 |
吉田 聖 | ラテン教父の総合研究 -- アフリカの司教殉教者キプリアヌス(6)『死を免れないことについて』翻訳と注釈 Cyprianus, De Mortalitate | 81-103 |
長倉 久子 | 魂の歴程(7)-- Bonaventura, Itinerarium mentis in Deum 第7章 翻訳と註解 | 105-115 |
枝村 茂 | 新教会法典における「十全な交わり」および破門制裁 | 117-136 |
石脇 慶總 | 神道の神学への序説(2)-- 諸宗教の神学のための一試論 | 137-163 |
吉田 聖 | ラテン教父の総合研究 -- アフリカの司教殉教者キプリアヌス(5)『善行と施しについて』翻訳と注解 Cyprianus, De Opere et Eleemosynis | 1-32 |
枝村 茂 | 福音的勧告の宣誓による聖別の特性 | 33-54 |
長倉 久子 | 魂の歴程(6)-- Bonaventura, Itinerarium mentis in Deum 第6章 翻訳と註解 | 55-67 |
ヤン・ポミコル | 共同体としての教会像 | 69-87 |
石脇 慶總 | 神道の神学への序説(1)-- 諸宗教の神学のための一試論 | 89-142 |
吉田 聖 | ラテン教父の総合研究 -- アフリカの司教殉教者キプリアヌス(4)『主の祈りについて』翻訳と注解 Cyprianus, De Dominica oratione | 1-41 |
枝村 茂 | 新教会法典における自由裁量権 | 43-57 |
長倉 久子 | 魂の歴程(5)-- Bonaventura, Itinerarium mentis in Deum 第5章翻訳と註解 | 59-68 |
浜口 吉隆 | 自殺の倫理 -- カトリック倫理神学における自殺観の再検討 | 69-99 |
青山 玄 | 明治から昭和初期にかけてのカトリック司祭像 | 101-120 |
石橋 泰助 | アウグスチヌス "De Baptismo, contra Donatistas" に表われた洗礼論上の諸問題について(8) | 1-27 |
吉田 聖 | ラテン教父の総合研究 -- アフリカの司教殉教者キプリアヌス(3)『背教者について』Cyprianus, De Lapsis | 29-64 |
久松 英二 | アタナシオスの説教『イエス・キリストの受難および裁きの恐怖について』-- 翻訳と注解 | 65-104 |
浜口 吉隆 | すべての人に開かれた愛の道 --『現代世界憲章』の成立過程におけるキリスト教的な愛の考察(4) | 105-140 |
アルフォンソ・M・ファウゾーネ | 初期キリスト教建築様式成立プロセスに対する考察 | 141-175 |
青山 玄 | 明治・大正・昭和初期カトリック信徒の宣教活動 | 177-196 |
ハンス・ユーゲン・マルクス | 聖体と聖霊 -- 東方典礼におけるエピクレーシスの教理史的背景 | 197-263 |
岡崎 才蔵 | LXX エゼキエル32, 1-16の一考察 | 1-22 |
Ken EGAWA | Secular Covenant in the Old Testament: A Brief Examination of the Common Spirit | 23-55 |
石橋 泰助 | アウグスチヌス "De Baptismo, contra Donatistas" に表われた洗礼論上の諸問題について(7) | 57-83 |
吉田 聖 | ラテン教父の総合研究 -- アフリカの司教殉教者キプリアヌス(2) | 85-113 |
長倉 久子 | 魂の歴程(4)-- Bonaventura, Itinerarium mentis in Deum 第3・4章翻訳と註解 | 115-137 |
浜口 吉隆 | すべての人に開かれた愛の道 --『現代世界憲章』の成立過程におけるキリスト教的な愛の考察(3) | 139-170 |
岡崎 才蔵 | LXX 詩篇28について | 1-14 |
石橋 泰助 | アウグスチヌス "De Baptismo, contra Donatistas" に表われた洗礼論上の諸問題について(6) | 15-38 |
長倉 久子 | 魂の歴程(3)-- Bonaventura, Itinerarium mentis in Deum 第2章註解 | 39-56 |
アルフォンソ・M・ファウゾーネ | ヴィア・ラティナ・カタコンベのフレスコ画をめぐる論究 -- 意見は十人十色:Quot homines, tot sententiae ... | 57-111 |
吉田 聖 | キプリアヌス『カトリック教会の一致について』Cyprianus, De Ecclesiae Catholicae Unitate (1) | 113-136 |
ハンス・ユルゲン・マルクス | 貧しい人々との連帯 -- カトリック教会における新しい問題意識の覚醒(下) | 137-164 |
ハンス・ユルゲン・マルクス | 古代キリスト論の歩み | 1-32 |
石橋 泰助 | アウグスチヌス "De Baptismo, contra Donatistas" に表われた洗礼論上の諸問題について(5) | 33-49 |
鳥巣 義文 | みことばの受肉と人類の神化 -- エイレナイオスの「かたち」と「類似性」の概念をめぐって | 51-66 |
浜口 吉隆 | すべての人に開かれた愛の道 --『現代世界憲章』の成立過程におけるキリスト教的な愛の考察(2) | 67-110 |
長倉 久子 | 魂の歴程 -- Bonaventura, Itinerarium mentis in Deum 第1章註解 | 111-132 |
西津 照雄 | アモス4: 4-5 -- 後バビロン捕囚改訂節 | 1-21 |
ハンス・ユルゲン・マルクス | 貧しい人々との連帯 -- カトリック教会における新しい問題意識の覚醒 | 23-47 |
石橋 泰助 | アウグスチヌス "De Baptismo, contra Donatistas" に表われた洗礼論上の諸問題について(4) | 49-62 |
鳥巣 義文 | アナケファライオーシス -- エイレナイオスの救済論における意味の検討 | 63-104 |
浜口 吉隆 | すべての人に開かれた愛の道 --『現代世界憲章』の成立過程におけるキリスト教的な愛の考察(1) | 105-169 |
アルフォンソ・ファウゾーネ | 人間教育の立場から見た芸術史 | 171-192 |
三好 迪 | 2世紀の十四日派によるキリスト教過越祭と殉教日について | 1-22 |
Michi MIYOSHI | Jungfrauengeburt in Mt 1 als Verzicht auf die Bindung des Heils an das jüdische Volk und als Einigung der Völkergemeinschaft im Heiligen Geiste | 23-40 |
浜口 吉隆 | 倫理神学における「キリストに従うこと」の意義 -- F. ティルマンから今日までのその解釈と発展 | 41-75 |
長倉 久子 | 魂の歴程 -- Bonaventura, Itinerarium mentis in Deum 序文註解 | 77-92 |
岡崎 才蔵 | 詩編第40編について -- その分類をめぐって | 1-20 |
ハンス・ユルゲン・マルクス | 死と復活 | 21-55 |
アルフォンゾ・ファウゾーネ | 初代キリスト教美術の解釈学的諸問題 | 57-68 |
石橋 泰助 | アウグスチヌス "De Baptismo, contra Donatistas" に表われた洗礼論上の諸問題について(3) | 69-90 |
浜口 吉隆 | キリストを中心とする隣人愛 -- 第二バチカン公会議までのキリスト教倫理神学の刷新において | 91-116 |
石橋 泰助 | アウグスチヌス "De Baptismo, contra Donatistas" に表われた洗礼論上の諸問題について(2) | 1-24 |
岡崎 才蔵 | ゲネシス・ラバー55章について | 25-41 |
H-J. マルクス | 中世に於ける東西両教会間の核心問題(下) | 43-80 |
Karl NEUMANN | Kirche der freiwillig Glaubenden: Karl Rahner und die Diskussion um die Zukunft der Volkskirche | 81-108 |
石橋 泰助 | アウグスチヌス "De Baptismo, contra Donatistas" に表われた洗礼論上の諸問題について(1) | 1-25 |
岡崎 才蔵 | 聖ヒエロニムスのイザヤ7, 14のエンマヌエル預言理解の一考察 -- イザヤ7, 17の "cum rege Assyriorum" の翻訳に注目して | 27-41 |
H-J. マルクス | 中世に於ける東西両教会間の核心問題(上) | 43-94 |
青山 玄 | 教皇ピウス9世の生い立ちと公会議招集までの歩み | 95-132 |
アルトゥール・ラング | 創刊の辞 | |
H-J. マルクス | フィレンツェ公会議における三位一体論 -- 教理の多様性のモデルか | 1-55 |
岡崎 才蔵 | マテオ 12, 11の疑問詞 οὐχί の一考察 | 57-81 |
長倉 久子 | ボナヴェントゥラにおける創造の問題 | 83-134 |
Last modified : 2024/06/03|このページの上部に戻る|著者別インデックス|学科トップページに戻る