南山大学大学院人間文化研究科 教育ファシリテーション専攻

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大学院での学び

●「大学院で学ぶ」といっても、多くの方はあまり具体的なイメージがわかないと思います。そこで本専攻の修了生に「大学院での学び」について、特に研究することとか、修士論文を書くことについて実際に体験したこと、考えた・感じたことを文章にまとめていただきました。

 

研究ことはじめ ―私の経験から―

T.S.  

 修士課程を修了して7年ほど過ぎました。入学前は質的研究・量的研究といった区別も意識しないまま安易に「研究」という言葉を使っていたように思います。それまでに自分が書いたものは「実践報告」というカテゴリーに入るもので、明らかに「研究」ではありませんでした。私が関わっている場(中学・高等学校)では「授業研究」という用語が「授業実践報告」とほぼ同義で使われていました。そのような状況からいったん離れ、「研究」に取り組んでみたいと思ったことが大学院を志望した理由の1つです。
 研究に取り組むうえで私が心がけたことが2つあります。まず、自分の考えや経験にこだわりすぎないこと。自分の考えやこだわりがゼロでは何も始めることができませんが、それと同じくらい危険(?)なことはこだわりすぎることです。先行研究や文献を読めば読むほど自分の偏狭な考えに気づかされます。研究指導の場では、当初は先生方や院生仲間からのコメントに対して自分の「研究」をディフェンスするような応答しかできなかったのですが、批評に対して開かれた姿勢を持つことがなければ先に進むことはできません。
 もうひとつ心がけたことは、伝える言葉を獲得することです。読む量が増えればそれだけ頭の中にストックされる言葉が増えていきます。言葉(あるいは概念)を貯めこみ寝かせてから、いよいよそれらを関連づけながら自分の考えを論理的に構築していくというプロセス(=修論を書くこと)で痛感したことは、「言葉がみつからない」ということでした。これを解決するには論文に特有の言い回しに慣れて、自分の専門分野に関する用語をうまく使えるようにしておくとよいと思います。たとえば教育の分野では「高める」「思い」といった言葉がしばしば登場しますが、自分なりの定義や説明ができなければ指摘される場合があります。さらに研究方法についても、自分の研究を語るための手段として、早い段階からある程度知っておく必要があると思います。院生同士が場を共にしてディスカッションすることも、伝える言葉を鍛える上でとても重要です。研究する分野は異なっていても(あるいは異なっているからこそ)、触発されます。
 修士課程を終えて、ようやく研究というものがわかってきました。以来、いつも研究の種について考えています。たとえそれが論文という形をとることがなくても、研究者マインドを持ち続けたいと思っています。

 

 

大学院で学ぶこと、修論を書くということ

おせっかいな修了生  

 私が本大学院を修了した後,新しく大学院生になられた方々を歓迎するパーティーで「大学院は修論さえなければ,楽しいところです」と挨拶したことがありましたが,それを聞いた先生方から間髪入れず「それじゃあ,大学院じゃないよ」という総突っ込みが入ったことを覚えています。つまり,大学院=研究する(自分の問題意識を明らかにし,それを論文にまとめる)ところであって,もし単に知識を得たいとか,学んでいることが好きだからといった類で大学院に通うのであれば,とりあえずは科目等履修生として興味ある授業だけ受講した方が良いのではないかと思います。
 平成15年(2003年)に高度専門職業人の養成を目的とした専門職大学院が設立されて以降,各大学院では社会人を対象としたカリキュラムの開発が盛んになり,その後平成19年度・20年度には「社会人の学び直しニーズ対応教育推進プログラム」といった施策も講じられるようになって,ますます社会人になってからの学び直そうといった人々が増えていると言われています。しかし,私はこの学び直し(大学院への入学)の意識やご本人のニーズが,実は大学院本来のあり方とずれているのではないかと感じています。私の周囲にも大学院進学を目指される方がいて,その目的をお聞きすると,大学院が用意してくれること(与えてくれることと言っても良いかもしれませんが)と,ご本人の期待するものが違うのです。今以上の学歴がほしいからとか,学ぶことが好きだからとか,何となく気持ちは分かるのですが,それではまず入学試験でお断りされる(不合格)でしょうし,運良く合格しても修了するまでに,かなり苦しまれると思います。それは,大学院とは決して“ものを教えて(与えて)くれる場所”ではなく,“自分の問題意識を明らかにすべく研究するところ”であり,研究の成果が論文という成果物(結果)にならなければ,いかに授業を皆勤賞で出席しても(先生方はそれを労ってくださいますが)修了証書はいただけないのです。その代わりに,研究することにおいては間違いなく多くの知識を与えてくれます(とはいえ,自らほしい知識を取りに行く姿勢でなければ、それも得られませんが)。
 さて,私は修論を書き終えてかれこれ4年ほど経ちますが,(今さらながらに)改めて振り返って思うこと,それは「論文や研究はある意味,道に譬えられるではないか」ということです。因みに,この場合の道は「どう」と読み,例えば華道や茶道,または書道や武道といった道を指します。私自身,これらに精通している訳ではありませんが,道にはそれぞれに流派があり,その流派の中でそれぞれに決まり事(作法)があると聞きます。論文を書くというのも,その感覚と似ているのではないかと思うのです。いずれも道とつくものに取り組むためには,そこでの決まり事を真似(学び),そこで求められる型を身につけて体現しています。私が知る先生の中には自らの大学院時代の恩師を指して“お師匠さん”と呼んでいることから考えても,また道に師匠と弟子のような関係があることからも,そのように考えて良いのではないかと思います。
 さて,先ほど流派と書きましたが,論文にもよく似たようなことがあり,学問分野によって脚注のつけ方や形式なども違うし,どうやらパターン(型)もあるようだということにも書き始めてだいぶ後になってから気づかされました。そもそも論文とは自分の書きたいことを書きたいように書くものではないということです。例えば,どんなに力を注いで書いたものであっても,型にはまっていなければ決して美しいとはいえないし,論文として認めてもらえないといって良いかも知れません。根拠が明確でなければいけないし,それが正しいということを証明していかねばなりません。そのために,先行研究を数多くあたることや実験や分析を通して結論付けていかなければならないのです。“私はこう思う。だって何となくそう言われているし,(読んでいるあなただって)そう思うでしょ”といった内容のことをいくら書き連ねても,論文の体を成していない(型にはまっていない)ということです。
 こんなことを書いている私ですが,実は学部生時代に国文学を専攻してきました。お世辞にも出来の良い学生だったとは言えませんが,それでも文章を書くことは決して嫌いではありませんし,大学卒業後にはプライベートや仕事でもちょっとした文章や報告書の類を幾度となく書いてきましたが,はっきり言って論文はいずれのものとも違います。それが分からなかった(頭では分かったつもりでいても体現できなかった)頃の研究指導で,せっかく指導教授からいただいたアドバイスに「私がやりたいのは,こういうことではないんです」と抵抗(反抗?)したことがありました。そんなことを言ってしまった手前,それなら自分がやりたい研究は何だろう?書きたいことは何だろう?と,それを明らかにして,その教授に「私が書きたいのはこういうことです」と明確な回答を突きつけたくて,その後も真剣に自身に問うてはみたものの,結局(研究や論文のいろはも知らない)自分には全く形(言葉)にすることができないまま時間は過ぎ,行き詰る一方だったこともあって,結局のところはちゃっかりとひとまずいただいたアドバイスに乗ってみることにしました。するとどうでしょう。そのアドバイスをよく聞いていくと,私の論文であるにもかかわらず,既に指導教授のしっかりとした構成ができあがっていたのです。問題意識がどこにあり,そのために実験を行ない,分析したところ,こういう結果になったから,このような結論が言える…といった具合に,美しい論文の体を成していました。
 恐らく,論文における細かい部分(表現や言葉の使い方,どういった先行研究を引っ張ってくるか 等)はどれだけ多くの論文にあたって,どれだけ自分のものにしたかということや力量ではないかと思うのですが,書くということに関していえば,研究や論文の未経験者は構成(=型)をしっかりと組み立てられるようになることがキモなのではないか…と思っています。道でそれを例えるなら,その道の玄人が花と花卉(器),活ける空間を見た時点で頭の中で既に構図(活け方)が決まったり,筆を持って紙に向かった瞬間に文字の配置や大きさといったバランスが見えたりするようなことではないかと思うのです。であるならば,やはりそれは素人にはなかなか真似のできない職人技のようなものではないでしょうか。
 社会人大学院生には社会人としての経験がある分,現実社会において自身の研究がどのように有効であるかをつなげたり,広げたりしながら考えることができますが,経験があるが故に,時々そのことが研究や論文を書く上で,邪魔してしまうこともあるのではないかと感じています。それは,“社会人としての経験≠研究や論文の経験”(全く違う経験である)にも関わらず,社会人としての経験から得た自信が自己流に突っ走らせてしまう。そのことによって方向性(型)を見失い,挙句に先に進めなくしてしまっているのではないかと思うのです(今だから分かるのですが,少なくとも自分はそうでした)。
 初めて論文を書く(研究する)上で大事なのは,まずは謙虚になって多くの論文に触れて型を真似ぶ(学ぶ)ことではないかと考えています。もう一度やり直せるなら,自分は最初からそうしたいと思うくらいです。しかし,残念ながら1回書き終えてみて,ようやく何かが見えてくる(要は,書き終えてみないとわからない)ものでもあります。また,修論は確かに大学院の集大成(修了するための条件)ではありますが,一方で始まりでもあるのです。発想は豊かにしつつも,大学院に居られる期限内で書けることを研究や論文という型にはめて書かなければなりません。書き終えてみて初めて,本当に研究したいことや書きたいことが見えてきたりもします。そうしたら,何も修論に固執せずにその後もその研究や書くということを続けていけば良いのです。恐らく,皆さんも大学院にいるうちに自分の興味や関心ある学会に入るでしょうから,発表する場はいくらでも作れます。もし,ここまで読んでみて自身に問題意識があって,それを明らかにしたいと思ったら,まず一歩踏み出してはいかがでしょうか?
 “大学院とはどういうところなのか,また修論とは何たるか”を私なりに説明するとしたら,それも含めてここに書いたことなのではないかと思います。

 

 

修士論文を書くという体験学習

N.F.  

 私は、大学院で、ともに学ぶ仲間とのディスカッションや、体験学習を通してファシリテーションを学ぶことはとても楽しかったのですが、こと修士論文を書くことに関しては、思ったより難しく苦しい体験でした。
 私は、短大卒で調査系の卒論は書いておらず、大学院で論文というものを初めて書きました。また、今まで論文を読んだことがありませんでしたし、報告書のような論理的でわかりやすい文章も、ほとんど書いたことがありません。そうした経験や能力がない点でも、修士論文を書くのには努力が必要だったと思われます。そして、大変だと感じていた要因には、私が人に教えてもらうことを期待し、先生にマイルストーンをおいてもらって、承認を得ながら進めるものだと思い込んでいたところにもあると思います。
 教育ファシリテーション専攻での指導は、学生が自分のやりたいことを自分で考え、心理学や教育学領域の論文の形式に則って自分の手で仕上げ、書き終わった時には、学生が達成感と納得感がもてるように援助されていると思います。ですから、ゼミでは自分が主体的に動いてデータを集め、そのデータを眺め、自分はどのように考えているかを聞いてもらい、先生や他のゼミ生からの質問にこたえたり、別の見方や考えをきくことでヒントを得ます。そして、そのヒントをどのように活かしていくかは、自分で考えなければなりません。私は自分の考えにあまり自信が持てなかったので、これでいいのだろうかといつも不安に思っていました。
 「研究指導I」では、自分の関心事を明確にし、リサーチ・クエスチョンを鍛える時間なのだと思いました。その時間は、私にとっては今までの自分の思考回路とは違う思考をする必要があると感じました。また、先生たちからの問いかけの意味がよくわからず、毎回ドキドキしながら過ごしました。しかしその時間を過ごすことで、自分のやりたいこと、やれることをはっきりさせ、それに即したデータ収集方法と、分析方法を考えることができました。
 データの収集方法や分析方法のおおまかなことは「教育ファシリテーション評価研究」で教えてもらえますが、私は全く知識がなかったので、そこで教えてもらったことだけでは不十分で、より詳しく自分で調べる必要がありました。また。研究方法には大きく量的な研究と質的な研究があるということも大学院に入って初めて知りました。量的な研究は数値での調査です。仮説を実証するのに適しています。質的な研究は定性データ(インタビューなどの語りや、文章など記述されたもの)を扱い、実証するというより仮説生成の研究です。なんとなく数字が苦手だから量的研究はやめておこうかなという考えが頭をもたげたり、どっちが楽かなと考えたりしますが、自分は何をしたいか、そのために適切な方法はなにかということで選ぶ必要があります。私は質的研究でKJ法を使ってやりました。KJ法のやり方は、自分で探した外部の講習会に行って学びました。M-GTAなどで分析されている方も、外部の研究会に参加して勉強しておられるようです。
 また、私は、分析の結果を考察し論文に仕上げる過程がよくわからず、ここでも試行錯誤しました。その時、先生から「あなたは自分の論文を誰に読んでもらいたいですか。その人たちにこの分析結果から何がわかったと伝えたいですか」と問われ、はっとしました。それを考えることで、考察を書き進めることができました。また、質的研究はひとりよがりになりがちで、ついリサーチ・クエスチョンを忘れたり、目的からずれそうになります。そこは常に自分に言い聞かせる必要があると思いました。
 自分のゼミの先生はいつもよく話を聞いてくださっているので、自分の研究をよく理解していただけていますが、時には他の先生にも話を聞いてもらって、素朴な疑問を発してもらうのも大切だと思いました。別の角度から見たときの疑問に対し、しっかり説明できている論文にしていけば、説得力をますことができると思いました。
 私は、卒業することができて、やっと、達成感と納得感がもてました。教育ファシリテーション専攻の研究指導のありかたからもファシリテーションを考えることができたと思います。

 

 

教育ファシリテーション専攻で研究に取り組んで思うこと

水野美華  

 私が大学院への入学を考えたきっかけの一つには、研究疑問やテーマがありそれらを明らかしたいという思いがあったと記憶しています。それまで、自身の領域である看護の臨床研究の経験はありましたが、院での研究は“ずぶの素人”としてのチャレンジでした。自身の研究疑問や研究テーマが、本当に研究を行う意義があるのか、抽象的あるいは漠然としていないかなどが、院で学ぶことで解決していきます。先生方や院生の皆さまから、他覚的な意見をいただくことで、本当に自身がやりたいことにたどり着くことができたと思っています。
 日頃の臨床現場で、こういう時はどうしたら良いのだろう?どう考えれば良いのだろうと思った時に、理論に基づいた看護を提供するための足がかりとなるものが、研究から導き出された“理論”であると思っています。経験則で通じる部分や、経験が勝る部分もありますが、これまで当たり前のように引き継がれ、慣習として行われてきた看護やケアが正しくないことも珍しくありません。
 研究に取り組む際には、“自分が何を明らかにしたいのか”を問いかける時間は、一番大切な時間であり、その時間をより充実させるのが大学院であり、院生の皆さまとの関わりであると実感しています。
 自分自身や周囲の人々を見ても、社会人経験が長いと思い込みであったり、観念が強い傾向がある気がします。(何の理論にも基づいた見解ではありませんが・・・)
 南山大学 教育ファシリテーション専攻に入学した折には、これまでの知識と経験を生かしながら、先生方や院生の皆さまからの意見を99%受け入れるつもりで望まれると、自身の人としてあるいは専門家としての幅が広がると思います。
 研究の進め方としては、まずは自身のテーマを明確にするために、ゼミや先生方からのアドバイスにくわえ、関連文献を検索し、読み込むことで、これまで行われていない研究テーマなのか、これまで行われてきた研究とは何が違うのかなどが、少しずつ見えてきます。そして、まずはそれが伝わるように、“文章化”することが大事だと思います。自身も先生方や院生の皆さまからアドバイスをいただいたら、その日か翌日までには文章化や修正ができるよう心掛けて取り組みました。仕事をしながら限られた時間の中で、これらの作業を続けることは、気合が必要です。ただ、仲間である院生の皆さまが、遠方から通学しているなど、自身より厳しい状況で取り組まれている姿を間近に見ることや、お世話になった石田先生をはじめ、先生方が必要に応じて、お尻を叩き??背中を押してくださいますので、頑張ることができます。そして、教育ファシリテーション専攻の先生方や院生の方々は、仕事で疲れていても会いに行きたくなる雰囲気を作ってくださる方ばかりでした。
 是非、教育ファシリテーション専攻で、楽しく・やりがいを持って研究に取り組んでいただきたいと思います。そして“生涯つながる仲間”に出会っていただきたいと願っています。

 

 

リアルな人間関係の学びの場

稲村 厚  

 私の修士論文の謝辞の中に、以下の文章があります。

 私は、自らのフィールドで「人の支援」とはほど遠い法律専門家のクライアントへの対応を実感し、それを批判し改善させるための提言を論文で表したいと考えていました。その思いの中で、私自身は、クライアントに向き合い理想的な対応をしていると勝手な自負をしていたのだと思います。
 そういう私が、一人ひとりと向き合い関わり合うということは、どういうことなのかを体験的に学ぶことができたのは、共に学ぶことができた同期のメンバーや先輩後輩の皆さまのおかげです。今までの自分が、表面的にはコミュニケーションを保ちながらも、人に大切にかかわっていなかったことに気づかせてもらえたのです。このような学びができることが教育ファシリテーション専攻の偉大な力だと思います。そして、この学びが、論文においても主張の柱になりました。論文を書き終えた今、私は論文を書くために大学院に入ったのではなく、人とかかわることを学ぶために大学院に通っていたのだと胸を張って言いたいと思っています。

 講義や書籍、研究では得られない、生の人間関係をリアルで学べる場は、ここにしかないと修了後、今でも確信しています。日常生活で迷った時、苦しい時に思い出して自分を支えてくれる関係性がここにはありました。今でも感謝しています。

 

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