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「脱コメンテーター」のすすめ

2010.11.29 浦上

 過日,とある友人と話をしていた際にでてきたのが,ニュース番組のコメンテーターについての話題。その友人いわく,「コメンテーターなどいらいない」と。公共性の高いニュース番組で自説を流してどうする,とか,それを聞いた人がそれを「正しい」と思ったらどうするとか…。ここには到底書けないような楽しい個人的感想も入った会話だったのだが,基本的に「コメンテーター不要論」には私も賛成である。

 メディアを通して流れてくるニュースは,その過程に携わる人々によってさまざまに加工された,いわば「製品」である(今どき,こう思っていない人は少ないと思うので蛇足かもしれないが)。それでも,ニュース番組には真実をありのままに伝えてほしいという希望,そうであるはずという信念は多くの人の間にあるのではないだろうか。

 その希望や信念をひどく邪魔するのがコメンテーターという存在だと思う。解説者ではないから,自分の視点から自説を述べることができ,出来事に対する個人的感想を述べることができる立場であろう。もちろん,視聴者(視聴率?)や番組スポンサーへの配慮もかかせないはずである。真実をありのままに伝えることをサポートするという役割はもともと持っていない。ニュースという「製品」をより魅力的に演出するための役割がコメンテーターに求められる(もちろん,求めるのは情報の受け手ではなく,その発信者である)といえるはず。

 そうなると,情報の受け手はコメンテーターの言葉とどう付き合うかが問題になる。もちろん,真に受けるべきものでもないが,無視すべきものでもないだろう。そのコメントを適当かどうか詳細に検討することは,いい頭の体操にもなるはずである。情報の受け手にとってのコメンテーターの存在価値は,脱コメンテーターを目指して自分の思考力を鍛えようという気にさせてくれるところにあるのかもしれない。

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