2004年1月の雑記




≪1月1日≫

みなさま、あけましておめでとうございます。ことしもどうぞよろしくおねがいいたします。

★今日は元旦ということで、お雑煮のお話しを。

私はお正月にはぜひお雑煮を作ってザビエルハウスの皆に食べさせてあげたいと、かねてから願っていた。日本の伝統的なお正月の味を知ってもらいたいのである。そこで私は年の暮れにわざわざ買い物に出て、お雑煮の具となるべき食材を手に入れておいた。

ところがしかし・・・さあ作るかという段になって、はたと手が止まってしまった。どうも自信が無いのだ。ホントに自分にはお雑煮が作れるのだろうか。(作ったことは無論まだ無い)。台所の吉原さんはお休みなので助けてもらえない。ザビエルの皆が、

「おお、これが噂に聞くお雑煮か。なんておいしいのでしょう。いいなぁお正月。すてきだなぁ日本」

と、日本の正しいお正月をしみじみ味わってもらえるかどうかは、ただひとえに私の料理にかかっているのである。(ちょっと違うかも知れないが・・・)。なんにしろ失敗は許されないのだ。

「やっぱりカレーが無難だよなー」

私は心の中でそうつぶやいた。カレーなら少なくとも作ったことがあるのである。(板チョコ・カレーの在庫もちゃんとある)。しかし・・・問題は食材なのだ・・・。

冷蔵庫を開ける。長ネギ、カブラ、しめじ、豆腐、モチ菜、京ニンジン、しらたき、油揚げ・・・これらは明らかにカレーの具ではない。もろにお雑煮(あるいはナベ)の食材である。うう・・ああ・・おお。(天に両手を突き上げ)、いったい私はどうしたらよいのだー!

と、約7秒ばかり深く悩んだ末、私はこれらのお雑煮食材でカレーを作ることをさっさと決めた。私にはカレーをおいて他にレパートリーはないのである。冷蔵庫に残っていたキャベツ、たまねぎ、じゃがいもも、ついでに入れることにした。

約2時間後にカレーは出来上がった。見た目は・・・普通にカレーである。味も・・・普通にカレーである。な〜んだ。普通のカレーではないか。しかしながら具に目を留めるなら、輪切りにされた長ネギがごろごろ浮いているし、京ニンジンの赤い色も鮮やか。こりゃやはりお雑煮であろう。おモチも焼いて中に入れてみた。味がしみてなかなかおいしい。おおそうか、これはカレーでありながら、それでいてかつ、お雑煮でもあるのだ。うーむ、そーかそーか。

2004年春、私はこれを、「ザビエルハウス風、カレー雑煮」と名づけることにする。おいしかば〜い!よかったよかった。


・・・しかるに。また量をたくさん作りすぎてしまったのだった。昼に食べることができたのは約4分の1くらい。さっき夕食に食べたが、まだ半分くらい残っている。明日の昼もこりゃカレーだな。(お正月からまたカレーかよ・・・)



≪1月2日≫

★昨年の暮れ12月26日〜30日にかけて、ザビエルハウスの隔年恒例行事である『長崎訪問』を行った。神学生6名、アシスタントのアイリーンさん、そして私の計8名。宿泊させてもらったのは、長崎南山高校の敷地内にある聖ルドビコ神学院。私の出身校である。長崎の観光名所である浦上天主堂や如己堂(にょこどう)、平和公園、原爆中心地のすぐそばにある。我々をあたたかく迎えてくださり、至れり尽くせりのお世話をしてくださった、院長のかつお神父さんやしゅうせい神父さん、どうもありがとうございました。


☆行きはJR(新幹線と特急の乗り継ぎ)で、帰りは夜行バスであった。長崎を巡ることができた日数は、正味4日である。長崎には見所がとても多いが、コンパクトにまとまっている町なので観光はしやすい。天気もまあまあ良く、充実した楽しい時が過ごせた。


☆2年前に訪れた時と同様、私の姉の家族がいろいろとお世話をしてくれた。姉の息子たちはずいぶん成長した。日曜日には神言会の教会である西町教会を訪れて信徒の皆さんにご挨拶した。その教会で働いているビジュ神父さんは神学院のしゅうせい神父さんと2人で、親切にも我々を出津(しっつ)まで車で連れて行ってくださった。以前にもお話ししたが、外海町(そとめちょう)出津は、美しい景観と教会の静かなたたずまいがマッチしたとても味わい深い所である。

☆4日間はあっという間に過ぎてしまった。私は長崎出身だが、こういう機会でもなければ、実家に帰省しても観光に出かけることなど全然ない。しかし観光してみると、さすが長崎は良いところだと知る。独特のロマンチックな雰囲気があるし、ちゃんぽんや魚など、食べものも旨い。

やっぱ長崎は、よか〜。



≪1月6日≫

★私は夢をよく見るのだが、夢の中にはいつも同じような町並みや建物が出てくる。だいたい五つくらいのパターンがある。何度も出てくるので、それぞれに見取り図が書けるくらいだ。しかしそのような町並みや建物は、現実の生活の中にはどこにも見当たらないのだ。大学生時代からずっと過ごしている名古屋のどこにもそんな場所は見当たらないし、通算10年ばかり留学していたアメリカにも、そんな場所はなかった。いったいどこなのか分からない夢の中だけの不思議な場所なのであった。

ところが、こないだ長崎に行き、十何年かぶりに聖ルドビコ神学院の中や周辺地域をゆっくり歩き回ってみて、「あっこれだ!」と思った。夢に出てくる町並みや建物は、この聖ルドビコ神学院の内部と周辺の町並みが基本になっていたのである。これにはちょっと驚いた。12歳から18歳までの6年間を過ごしたこの神学院の情景が、これほどまでに心に焼き付いていたとは・・・。外装も内装も新しくされてはいるものの、この神学院は今も随所に30年前の面影を残している。廊下や部屋を見回しながら、私はあまりの懐かしさに何度も立ち止まり、回想にふけった。決して楽しいことばかりではなかったが・・・確かにここには思い出が山ほどある。

今回の長崎訪問は、図らずも私にとって、私の中の原点のようなものをたどるものとなったわけである。ま、そんなこと、どうでもよいことだが。ちなみに私の夢には現実の人々はあまり登場しない。だいたいは夢の中だけに登場する人々なのである。だから私には夢の中だけの生活があり、知り合いがいて、そういう人たちとのお付き合いがあったりするのだ。

夢は誰でも皆私のと似たり寄ったりであろうと、これまで思っていたのだが、話を聞いてみると、そうでもないらしい。あなたの場合はどうですかな?




≪1月14日≫

★私は大学への行き帰りに、いつも第二研究棟(留学生別科のオフィスがある建物)を通らせてもらっている。家と研究室を結ぶ、これが最短のコースなのである。土曜日の早朝など時々ドアがまだ開いていなくて通れず、「う〜!」なこともあるが、便利なのでいつも最初にこの通り道を選ぶ。その建物の廊下にこんなものが置いてあることに、今朝初めて気がついた。


こっこれは・・・なんとダイヤル式のピンクの公衆電話。10円玉を入れる穴が一つだけ付いている。しかも、ダイヤルの真ん中にこう書かれているのだ。

≪ビーッ!と鳴ったらもう1枚 / ダイヤル市外通話もできます≫

 

すげ〜!これは「超レアもの」である。いまどきこういう電話にはめったにお目にかかれなくなった。かっこい〜!なんたって、10円分の通話時間が終わりそうになると「ビーッ!」と音が鳴るのですぞ。市外通話だってダイヤルをまわしてするのですぞ(今では電話のナンバーは「押す」ものであって、「回す」ものではなくなっている)。いつも通るところなのに、このお宝電話に今まで気づかなかったのはウカツであった。

このタイプの電話機には、すべてのレトロ電話愛好家(いるのか)を魅了してやまない、次のような特徴がある。

(1)ダイヤルは、慣れていない素人さんにはやや難しい。特に市外局番の場合は10桁から11桁あるのだがら、すばやくダイヤルするためには、集中力と手首のしなやかさが要求される。かっこよくスマートにダイヤルできるようになるためにはある程度の習熟が必要だ。特に、ダイヤルの一番近いところに「1」、一番遠いところに「0」があるため、110番(警察)に電話するときには、注意しよう。あわてると最後の「0」の途中で指が外れてしまい、かけられない。119番(救急車)の場合もしかり。スリリングなこと、この上ない。緊急な時ほど沈着冷静であらねばならないことを身をもって学ぶことができる、たいへん教育的なありがたい電話機である。

(2)コインを入れる穴には10円玉を一枚一枚入れなければならないため、通話料金が高いところに急ぎの用事で電話をかける時には、10円玉をすばやく確実に挿入する技術が要求される。使い慣れていない人には面倒に感じられるであろうが、しかしこれは熟練者にとっては、華麗なテクニックの見せ場なのである。友達の携帯電話にちょっと連絡する時でも、ポケットからチャッと10数枚の10円硬貨を取り出し、1分間に8枚くらいのスピードでススッと穴に滑り込ませる。まるで手品師のように片手の指先でひらひらと回したりしてスイスイ入れると、大変かっこよい。この電話機をスタイリッシュに使いこなすにはそれなりの努力が必要だ。まことに通向きの電話機であると言えよう。


このように、使い込むほどに味わいがでてくる、玄人向きのこれは逸品なのである。さすが南山。さりげなく、粋なものがおいてありますな〜。ピンクの色がとてもかわいい。家にも一台ほしいよー。


★えーと、ところで・・先日12日は成人の日であったが、その同じ日に別の意味での「せいじん」、すなわち聖人のお祝いがあった。神言会の創立者と最初の宣教師の二人が「聖人」として正式に認められた(列聖と言います)ことをお祝いする記念式典である。南山教会で行われた式典には東京から教皇大使様がおいでになって司式をされ、たいへん荘厳であった。聖人の列聖についてご興味のある方は、「ここ」をご覧くだされ。



☆その後、パーティーの女王さんとおっしゃる方が掲示板に、ピンクの電話について、次のようなコメントを書き込んでくださった。史実を後世に伝えるためにも貴重な証言だと思われますので、ここに転記させていただきましょう。

≪ピンク電話の真実≫ 投稿者:パーティーの女王

1)ピンク電話は確か10円玉を連続6枚くらいしか入れられなかったと思います。ですから1分間に10円玉を8枚入れることは可能(長距離)とも不可能(市内)ともいえます。

2)まだ人々が携帯電話を持たなかった頃の話。日本にいる外国人のオリエンテーションでは「ピンク電話で110番と119番はかけられないので、呼びたい時にはお店の人にたのんで下さい」と伝えなければなりませんでした。正しくはかけられるのですが、相手にこちらの音声が聞こえないらしいのです。いつか下宿に痴漢が入った時、震える手を押さえつつ(冷静に)110番をかけたことがあるのですが、こちらは向こうの声が聞こえるのに向こう(警察)は「ピンク電話からおかけですね。こちらからかけ直しますから、受話器を置いて下さい」と言うのです。受話器を置いてみると、かつて聞いた事のないような大きな呼び鈴が鳴り、そのすさまじさに腰をぬかすほどでした。その音の異常さは痴漢より怖かったかもしれません。...警察はどうしてこの電話番号がわかったのだろう?警察っていったい!?...と考えると夜も眠れなかったのでした。あなたも一度ためしてみます?こわいぞ〜。


パーティーの女王さん、どうもありがとうございました。またいつか一緒に飲みましょう。





≪1月16日≫

★昨日15日に南山大学のJ棟にて、「南山大学・カトリック・プロフェッサーズ」(NCP)が主催する定期講演会が開催された。今年の招聘(しょうへい)講演者は、カトリック大阪大司教区・社会活動センター、難民移住移動者事務局の、マツウラ・デ・ビスカルド篤子(あつこ)先生。

この方は南山大学の卒業生である。神学科(現在の名称は「キリスト教学科」)を卒業された。南山大学の神学科は、かつては神父になるために勉強する神学生のためだけの学科であった。つまり男ばっかりの学科だったのだが、その後一般の学生にも門戸を開放した。そして入学してきた史上初めての女子学生が、他ならぬこの松浦篤子さんであった。かわいらしく明朗で快活な性格の彼女は、むさくるしい男ばかりの神学科にあって、一輪の可憐な花のような存在であった。

 

さて、彼女はこの講演会で、自分がこれまでずっと携わってきた活動について話してくださったのだが、それは非常に重要な問題に関するものであった。彼女はそれをユーモアをまじえながらたいへん分かりやすくお話しくださり、まことに聞いてためになる講演であった。彼女は卒業後ずっと、困窮する滞日外国人の支援活動や、難民受け入れのためなどに尽くしておられるのである。特に難民受け入れに関して日本は大きな問題を抱えており、命からがら逃げてきたにもかかわらず、大多数の人々が入国を許可されず、冷たく強制送還させられたり、違法侵入者として収容されたりしているそうである。行き場を失い途方に暮れている難民の人々を援助し、問題を改善するべく、彼女は毎日毎日力の限りはたらいている。活動の本拠地は大阪の玉造(たまつくり)カトリック教会だが、援助の対象はキリスト教国から来た人たちだけなのではない。イスラム諸国の人々もまた、わけ隔てなく援助している。難民の人々が直面している問題は基本的人権にかかわる重大なものだからである。

彼女はまさしく、世界平和のために日夜奮闘している。苦労は並大抵ではないであろう。小さな身体でこんなにも大きな困難に正面から立ち向かっている彼女に私は感動した。南山の学生の皆にも彼女の話をぜひ聞いてほしいと思うので、いつか近いうちになんとかそういう講演の機会を設けて、また来ていただきたいと考えている。

難民の人々のために、あるいは滞日外国人のために、自分も何かしたい、活動に協力したいと思う方は、ぜひ次のところにご連絡ください。

  カトリック大阪大司教区
  難民移住移動者委員会 事務局
  事務局のホームページ→ここ



≪1月26日≫

★あ〜忙しーい。いろいろな雑務に追われる日々である。実際に何か業務をしていなくても、次にやらねばならないもろもろの事をもろもろに考えていると、心がもろもろとあわただしくなり、足腰がもろもろと震えるのだ(貧乏ゆすりとも言う→R-von氏の新日本探訪「pq精神えーん」の章をご参照あれ)。ふう。

ところで、「本当に忙しい時ほどヒマに見られる」という経験があなたにもあるのではないか。逆に結構ヒマな時にかぎって、「お忙しそうですねー。大変ですねー。身体壊さないように頑張ってくださいね!」なんて励まされたりして、「うっ実はヒマなんですけど・・ま、そういうことにしてもらっとくか・・すみませんすみません」と内心ちょっと罪悪感を感じたりすることが、よくあるように思うのだ。

これはいかなる理由によるものか。超多忙である今日この頃、貴重な時間をふんだんに割いて考えてみたのだが、まず第一に、忙しい時ほど仕事が一段落するとほっとして、ゆるんだ態度を人前にさらしてしまう。歩き方はかったるくなり、顔も緊張がなくゆるゆるになる。ここである。これがいかんのである。これが見る人をして、「なんてだらだらしたヤツだ。許せん」という反感をかうことになり、「あいつはヒマに違いない。何か更に仕事を与えなければならない」という非常に喜ばしくない思いを抱かせてしまうのである。

逆にヒマな時には、「他の人が忙しいのに自分がヒマで悪いなぁ、すまんすまん」という気持ちから、人前では無意識のうちに何か落ち着かないせかせかいそいそとした態度を見せてしまう。挨拶もそっけなく、視線もろくに合わせずにスタタタタと小走りに走り去る。ここである。これが良いのである。これが見る人をして、「なんて忙しそうなんでしょう。かわいそう」という同情をかうことになり、「あんなに忙しいのでは気の毒だ。仕事はまわさずにおこう」という、非常に喜ばしい思いを抱かせてしまうのである。

それゆえ、私は言いたい。私はヒマそうに見えるときほど忙しいのですと。そして、これから私は努めて、ヒマな時はもちろん忙しい時にもせかせかいそいそとした態度を見せるよう心がけたいと思うのだ。つまり、これからの私は常にちゃんと忙しいように見えるはずなのである。ローカでせかせか、事務所でいそいそ、なのである。ふっふっふ。どこからでもかかってきなさい。(お願いです。見逃してください。)

昨日とんでもなく早く寝床についたせいか、とんでもなく早い時刻に目が覚めてしまった。4時半。朝というより、こりゃまだ深夜である。しかし目がぱっちりと覚めてしまったので、シャワーをあびて、この雑記を書いている。こんなに朝から活動したんじゃ、今日もきっと早く寝ることになりそうだ。




≪1月28日≫

★★長崎南山小学校コーラス部が快挙!★★
「TBSこども音楽コンクール」の小学校合唱部門で、全国最優秀となる文部科学大臣奨励賞を受賞!これはすごい!ブラボ〜〜!

(南山小学校コーラス部。これはNHK音楽コンクール九州大会の時の写真)

★長崎の私の母校の合唱団が、驚くべき快挙を成し遂げた。長崎南山小学校コーラス部(メンバーは約40人)が、≪平成15年度TBSこども音楽コンクール≫で全国最優秀賞に選ばれたのである。このコンクールは、NHK音楽コンクールに勝るとも劣らぬハイレベルの全国的なコンクールである。参加した合唱団は2,500にのぼると言う。これで全国最優秀の評価を受け、文部科学大臣奨励賞を受けたのだから、スゴイ。つまり日本一の小学生合唱団として実力が認められたということである。本当に素晴らしいことである。

この賞を受賞したのは長崎県でも初めてのことである。授賞式は3月6日に東京銀座のオペラシティー・コンサートホールで行われる。その式典において同合唱団は記念合唱を披露する予定。実は私の姉の息子がこの合唱団のメンバーのひとりなのである。すごいぞヒロ(息子の名前)。やったね!

長崎南山小学校コーラス部は、昨年10月に福岡市で行われた地区大会を金賞で通過し、12月に大阪市で行われた西日本ブロック大会で最優秀賞となった。そして今年の1月25日に東京で行われたテープ審査による文部科学大臣奨励賞選考会に進み、みごと最優秀賞に選ばれたのである。歌った曲は、「和太鼓とピアノのための児童合唱組曲」の中の「あいや節幻想曲」。受賞については1月28日の「長崎新聞」にニュース記事が載っているので、ご覧ください(ここ)。

姉も私も長崎南山小学校で学んだ。当時は全校生200人くらいの小さな学校で、生徒はみんな互いに顔も名前も知っていた。同世代の人たちは皆恐らく今でも、ある種の絆(きずな)を感じていると思う。現在は私たちの世代の子供たちの世代なのである。つまり新世代(ニュージェネレーション)だ。この新世代の子たちが、私たちの世代が夢に見ていたことを、成し遂げてくれたのである。こんな嬉しいことはない。たいへん誇りに思う。うっうっ、何だか泣けてくるねー。関係者の皆様、そしてサポートしてくださった皆様、どうもありがとうございました。OBとして私は心から嬉しい。これからも母校の子供たちを応援し、支援したい。みんなよくやった。偉いぞ〜〜〜!






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