2003年12月の雑記




≪12月1日≫

★早くも12月になってしまった。秋学期は学祭や演奏会などイベントが多いためか、あっという間に過ぎて行く。気がついたらもうすぐクリスマスである。昨日の日曜日は待降節(たいこうせつ)第一主日であった。待降節とはキリスト教の用語で、12月24日夜の降誕祭すなわちクリスマスのお祝いの準備をする期間のことである。主日(しゅじつ)とは日曜日のことを指し、待降節中は第一から第四まで、4つの日曜日を数える。つまりクリスマスの前の4週間くらいを待降節と言うのである。

待降節になると、クリスマスの迎えるための家の飾りつけが始まる。クリスマス・ツリーが飾られたり、電飾が植木や窓枠にきらめいたりして、クリスマスらしい雰囲気になってくる。なんだか妙に心がなごむこの雰囲気が私は大好きである。ザビエルハウスでも神学生たちが協力し合って、クリスマスの飾り付けをしてくれた。クリスマスの飾り付けは、毎年新たなメンバーで工夫をこらして作られる。今年のメンバーが作ってくれたのはこれである。


玄関に飾られた馬小屋とクリスマス・ツリー。馬小屋の後ろに立てられている黒い板は、実はダンボールに布が張られているものなのだが、中に電球が仕込まれていて、夜空の星のようにキラキラと綺麗に輝いている。なかなか粋な物を作ってくれるではないか。ツリーの装飾も華やかだ。

ところで「馬小屋」とは、イエス・キリストの誕生の場面を聖書の記事に基づいて再現した人形セットのことを言う。クリスマスの伝統的な飾り付けの定番ともいうべきものである。聖書には実は2種の誕生物語が記されている。マタイ版(2章1〜12節)とルカ版(2章1〜20節)である。

マタイ版では、異国から不思議な星に導かれてやって来た3人の博士たちが、幼子イエスを最初に見出したと書かれている。「馬小屋」に3人の博士の人形が入っているのは、この記事に基づいている。ルカ版ではそれに対し、博士たちの代わりに羊飼いたちが登場する。彼らは輝く天使たちに導かれて幼子イエスを見出す。馬小屋には、だから、幼子と両親と3人の博士に加えて、天使と羊飼いたちもいて、けっこう込み合っている。(ついでに牛や羊もいたりする場合が多く、馬小屋は更に込み合う)。

さて、この2種の誕生物語は、一見ぜんぜん違った話のようだが、実は非常によく似ていると思う。まず、舞台はどちらも夜である。昔のことゆえ、夜は真っ暗であったろう。これは単にイエスの誕生が夕刻であったというのではなく、当時の人々の社会的にも精神的にも悲惨で絶望的な状況を表現していると思われる。聖書の随所にその状況が描かれている。そんな闇のような世界に突如、光が現れる。希望を指し示す光である。マタイではこの光は不思議な星として出現する。ルカでは星の代わりに輝く天使が現れる。この希望の光が、真の光、世の救い主であるキリストへと、博士や羊飼いらを導くのである。

異国人である博士たちは当時のユダヤ社会においては救いにあずからぬ者たちであった。羊飼いたちもまた、当時の最下層に属する、救いから遠い人々であった。救いからは見捨てられたと思われていたこのような人々が、しかし、キリストを最初に見出すのである。キリストは民族や身分の差を超越した救い主だということがここに表明されている。

闇とは暗く冷たいものである。反対に光は明るく温かい。私たち自身の心について考えてみよう。私たちの心を生かすのはどちらだろうか。闇か光か。むろん光であろう。闇は逆に死のイメージがある。心の中が真っ暗で冷たくなっているような状態は、決して気持ちよく爽やかではなく、逆につらく苦しいであろう。

時として、いろいろな理由から、私たちの心は望んでもいないのに暗く冷たくなってしまうことがあるだろう。そのためにヤケになってしまうこともあるだろう。しかし、どんな闇も光を完全に消すことはできないと思う。誰だって、ある時あるきっかけで、心の中に小さな光を見つけることが出来るであろう。そしてその光に導かれて、いつか自分の中にある本当の輝きを見出すことができるだろう。それはどんなに嬉しいことだろうか。そして、どんなに優しい気持ちになれるだろうか。

馬小屋に並んでいる博士たちと羊飼いたち。私も彼らのように素直にまっすぐ光に向かって歩みたいものだ・・・神学生たちが作ってくれた玄関の馬小屋を見ながら、ふとそう思った。




≪12月10日≫


★先日12月6日に名古屋市昭和区の南山教会で開催された吉田文さんのオルガン・コンサートに、南山大学スコラ・カントールムと聖霊短大コールス・アンジェロールムは共に賛助出演した。合唱の指揮は西脇純神父。演奏に対する評価はすこぶる高く、「すばらしかった」と多くの方々が称賛してくださった。まずまずの大成功であったと言えよう。全部で70人余りの大混声合唱団であった。女声が大多数を占めていたが、男声の声も力強く朗々と響き、全体的なバランスは悪くなかったと思う。

コンサート当日の写真を南スコ・ホームページの活動記録に載せたので、どうかご覧下さい。ここです。けっこう見た目にも良い感じの合唱団なのではないでしょうか(綺麗な女性が多くて華やかだし)。上の写真は、演奏が終わってからみんなに祭壇に集まってもらい、撮った記念写真。小さくて見にくいが(すみません)、皆ニコニコと明るい笑顔で写っている。みなさん、よくやってくれました。

この演奏会の成功は、吉田文さんのすばらしいオルガン演奏のおかげであることはもちろんだが、西脇純神父独自の祈りの心に満ちた真摯な指揮によるところが大きいと私は思う。ありがとう西脇君。本当に心にしみる聖歌合唱でした。これからもこの調子で、ますます感動的な音楽を作り上げて行ってください。



≪12月14日≫

★南山大学降誕祭が12月12日に執り行われた。南山大学降誕祭とは、三人の指導司祭とLLC(ロゴス・ライフ・コミュニティー)の学生たちとが手を組んだ降誕祭実行委員会によって主催されている、毎年恒例の行事である。これまではしかし、学生があまり集まらず、特に第一部の聖式は、ほんの少数の学生が(しかもほとんど義理で)参列するだけの非常にさびしいものであった。

ところが!今年の「クリスマス聖式」は全然違った。指導司祭のひとり西脇純先生の尽力により、マルクス学長、カルマノ学園理事長、岡崎宗教教育委員長という、最高に豪華な司式者をお迎えすることができただけでなく、学生課の方のご協力を得て、文化系・体育会系クラブの学生に参列するよう声をかけていただき、かつてないほどの盛大な式典となったのである。とりわけ南山大学管弦楽団の皆さんは快く演奏を引き受けてくれ、式典を大いに盛り上げてくれた。

神言神学院聖堂で行われたクリスマス聖式

マルクス学長による祝福の祈り 南山オーケストラ団員による金管クインテット

★J-von氏率いる南スコ(南山大学スコラ・カントールム混声合唱団)ももちろん式典に参与し、Es ist ein Ros' entsprungen (「エッサイの根より」)を歌い、好評を得た。(第二部のロゴスでのパーティーでも南スコは数曲のクリスマス曲を演奏し、これも好評だったらしい)。たて笛の名手西脇良先生は最近弟子入りしたK-taro氏と、リコーダーのデュエットを披露した。聖式でのオルガン伴奏は不肖私が担当した。荘厳にしてかつ心温まる、とても良い式だったと思う。降誕祭実行委員会メンバーであるLLCのみなさん、お疲れさま。南山大学の歴史に刻まれるべきほどの大成功です。大変よくやってくれました。来年以降もぜひこの形で継続して行きたいものですね。




≪12月22日≫

前回の更新からもう一週間も経ってしまった。ヒマな時には、時間は十分にあるが書くネタが無くて困るのに、いろんなイベントや出来事が次々にあると、逆にネタは豊富なのに更新する時間がない。皮肉なものである。

★今日はちょっとうれしいことがあった。ザビエルハウスから車で15分ほどのところに「トリイ」という紳士服屋さんがある。私はこれまでこの店に入ったことがなかった。しかし今週この店が店舗移転のため半額売り尽くしセールをしていることを知った。そこで今日、昼ごはんの後にザビエルハウスの何人かと一緒に行ってみた。そしたら、けっこう良いのが見つかったので、冬服をいろいろと購入した。良いものが安く手に入るのはありがたい。私は何枚かのシャツと皮製のサイフを買った。そのサイフはしかし、半額ではなく10%オフということであった。

夕方6時ごろ、寒いので銭湯に行こうということになった。そしてそのついでに、昼時に不在で服を買いに行けなかった人を連れてまたトリイに寄ることにした。銭湯に行くということなので、私は着古したジャージに草履という、およそ紳士服を買いに来た客とは思えないダサダサな格好をして店内に入った。

みんなが買い物している間、私は店内をうろうろ歩いていた。そしたら、驚いたことに店員さんが突然私に近づいて来て、こう言うのである。

「すみませんお客様。お昼にいらした時にご購入いただいた商品のお値段は間違ってました。10%ではなく30%オフの商品でございました。大変失礼いたしました。差額を払い戻しさせていただきます」

え?そうなんですか。それはまたご親切に。よく私のことを覚えていてくださいましたね。値引額を間違えたのは笑顔がかわいい女性の店員さんであった。自分の過ちを率直に詫び、差額を払い戻してくれた。私はとてもうれしく思った。お金が戻ったからうれしかったのではない。購入者の私が文句を言わないのだから黙していればそれで済むのに、それを潔しとせず、勇気をもってわざわざ払い戻しを申し出てくれた、その気持ちがうれしかったのである。私はこれで実によい気分になった。トリイの店員さん、どうもありがとう。むしろあなたが金額を間違えてくれたおかげで、私は普通に買うよりずっとうれしい買い物ができました。

それにしても、この店員さんが私のことを覚えていてくれたことに私は驚いた。私はこの店の常連でも何でもなく、今回初めて来た客なのである。セール中なんだし、今日は昼から何十人、いやことによると何百人もの客が店に出入りしただろうに、しかも私は昼に来た時とは全然ちがう格好をしていたのに、よくぞ私だと分かったものだ。私は自分の顔はごく普通の特に人の目を引かない顔だと思っているのだが、ひょっとしたら実はすごく特徴的な顔をしているのだろうか・・・(それは困るなぁ)。いや、たぶんこの店員さんの記憶力がすごいのだ。きっとそうだ。そうに違いない。



≪12月24日≫

みなさま、メリークリスマスです。今年もお世話になりました。今年はなんかやたらと忙しかったなぁ〜。


クリスマスに相応しく、サンタさんのことを書こうと思う。少し前に掲示板上で話題になったサンタさんのお話を、(掲示板はしばらくすると消えてしまうので)、ここに記しておきたい。始まりは、海の向こうの国のセボヌさんからいただいた次のようなご質問であった・・・


●≪グローーーーーーーッオオオリァ(意地でも一息に!)≫ 投稿者:セボヌ

今日は相談があって訪れました。

最近しつこく7歳の娘から「サンタクロースが本当に贈り物を届けてくれるの?」と問われます。去年までは「サンタさん(この省略形もなんなんでしょうね)がソリの手綱を一振りすると魔法のようにプレゼントが靴下の中に入るのよ」と嘘八百を並べ立てておりました。しかし今年は「お願い!本当のことを教えて!」と懇願する始末。

しかたが無いので「実は 直接みんなのところへ彼一人ソリに乗って運んでいるわけではないの」と告白しようと思っています。一応フォローとして「でもね。大人になると‘この子にこんな贈り物をあげてね!’というサンタさんの夢を見るのよ。だからその夢のとおりに贈り物を渡すのよ」と。

じいの神父様ならなんと答えますか? 皆さんはどんな話を素直に受け入れましたか?子供のクリスマスに向けてのウキウキ感はそのままに、でも「サンタ・マジック」からやんわり切り離し、静かな待降節を過ごさせてあげたいものです。



★ううっ、突然こんな難しいご質問を私に・・・(ごかんべんくだされ〜)。私はしばらくじっと考え込んだ後、セボヌさんのお嬢さんあてに次のようなお返事を書いた。

☆≪セボヌさんのお嬢さんへ≫

こんにちは。そうですとも。お母さまのおっしゃるとおりです。サンタさんがもちろんプレゼントをくれるのですよ。でも一人のサンタさんが世界中の子供たち全部に一日でプレゼントを運ぶのはムリです。ですからいつもは、サンタさんの代理でお父さんやお母さんがプレゼントを運んでいるのです。

でも、いつかきっとあなたにもサンタさんからプレゼントが届く日が来るはずです。あきらめずに待っていてください。それは12月24日のクリスマスの日にではないかも知れません。それにサンタさんはたいてい変装しているらしいので、初めはサンタさんからだとは気づかないかも知れません。でもそれは特別なプレゼントなんですから、サンタさんからのプレゼントだということは、そのうちきっと分かります。そしたら、心からサンタさんに「ありがとう!」ってお礼を言ってください。その声はきっとどこかであなたを見ているサンタさんに届きますよ。どんなプレゼントが届くのか楽しみですね!


★私に思いつく答えは、せいぜいこの程度である。サンタさんは人の心の優しさや温かさのいわば化身ではないかと私は思っている。だから、愛や優しさのあるところにサンタさんはいる。そしていろんな人や動物や草木が、ある時ある人にとってサンタさんになり得るのだ。だから、小さな子供たちにとっては、もちろんお父さんとお母さんがサンタさんなのである。サンタさんとはそういう存在なんだと私は考える。

私の拙いお返事は、幸いにもセボヌさんのお嬢さんに受け入れてもらえたらしかった。


●≪じいの神父様&YYさん≫ 投稿者:セボヌ

お忙しい中こんなにも早くお返事を下さって嬉しい限りです。YYさんの教えてくださったコラムも何とか訳し、それを踏まえつつ、じいの神父様の柔らかい表現と共に膨らませて伝えました。さり気なく優しく「信仰心」へ流れ込んでいくクダリに感動♪ ありがとうございます。
(お褒めいただき恐縮です)。

娘は「ふんふん」と一句一句を噛みしめていました。しかも彼女の気持ちにぴったりしっくり馴染んだようでしたよ。そして早くも今朝、朝食に出したイチゴを見て「これかな?」とちらりとわたしの顔を覗って、想いを馳せているようでした。(贈り物を探してるのね?)と思うと可笑しくなりました。何を隠そう、実は今まで、靴下に入った歴代の贈り物は、アメリカでは「チェリー」だったし、日本では「みかん」、そしてこちらの国に来てからは「バナナ」だったので。「果物がアヤシイ!」ということなのでしょう。へへへ♪


★お母さんとお嬢さんのやりとりが、なんとも可愛らしく微笑ましい。少しはお役に立てたようで、とてもうれしい。なんだかほっとした。ところで、セボヌさんの文中にある、「YYさんの教えてくださったコラム」とは、「サンタクロースは存在する!」という宣言で有名な、あるアメリカの新聞コラムのことである。


■≪こういうのもありました≫ 投稿者:YY

ついでなんですが、アメリカで一番オーセンティックなお返事はこちらです。訳はJino様がしてくださるはず(すたこらさっさ)。1890年代、8歳だったヴァージニアちゃんへのNYの新聞社からのお答えです→"Yes, Virginia, There is a Santa Claus!"


★このリンク先に、その記事の原文が掲載されている。けっこう長いコラムである。YYさんはここでは私に和訳を押し付けて、すたこら逃げて行ってしまっているが、その後引き返してきて、自ら日本語にこのコラムを訳してくださった。とてもすばらしい文章と翻訳だと思うので、以下にご紹介したい。YYさんどうもありがとうございました。


☆「その通りヴァージニア。サンタクロースはいるんだよ」(Yes, Virginia. There is a Santa Claus.)
<ニューヨーク・サン紙の社説 1897年9月21日 (著者はフランシス・P・チャーチ)>


「今日頂いたような質問にお答えし、このように特別な対話の機会を読者と分かち合えることを嬉しく思います。また今日の質問者のような拙誌読者の皆さんが、私どもの回答に期待を寄せてくださることを、とりわけ有り難く思います」

---私は8歳です。友人たちはサンタクロースなんていない、と言うのです。パパは『サン新聞に聞いてごらん。その答え通りのはずだから。』と言っています。本当のところを教えてください。サンタクロースはいるのですか?(ヴァージニア・オハンロン)---

「ヴァージニア。君の幼い友人たちは間違っていると思う。こんなに世の中が疑い深くなっている時代だから、きっとみんなも疑い深くなっているのだろうね。みんな、自分の目で見たこと以外、信じなくなってしまっているんだね。自分たちの小さな心で理解できること以外は、この世の中にはありえないと思っているんだろう。もう一度言うけれど、大人でも子供でも、人間の心というのはとても小さなものなんだよ、ヴァージニア。宇宙の大きさを考えてみれば、人間なんて昆虫のような、蟻ん子のようなものなんだ。この無限の世界を思えば、どんなに物知りな人だって、この世に存在する全ての真実と知識のどれほどに手が届いているだろう。そこをよく考えて君の質問に戻ってみよう。

その通り、ヴァージニア。サンタクロースはいるんだよ。

誰かを大好きになったり、優しくしたいと思ったり、何かをしてあげたいと思う心が存在するように、サンタクロースも存在するんだ。そして、そういう思いやりの心は、目には見えないけれど、たくさんの人の心の中に実際にあるだろう?その証拠に、君や君の周りのみんなにそういう心が存在するからこそ、君の生活は何より美しく、喜びにあふれたものになっているはずだよ。

だから、サンタクロースがいないなんて、とんでもない。もしいなかったら、世界がどんなにつまらなくて寂しいものになるか、よく考えてごらん。サンタクロースがいないのは、世界中にヴァージニアという名前の女の子が全然いなくなってしまうのとおんなじことなんだよ。サンタクロースがいないというのは、サンタクロースの存在を信じる心はもちろん、子供たちが信じたり大切にしているものが、実は何もなかった!と言っているのと同じことなんだ。自分で実際に触ったり、見たりできるものの他には、何の楽しみもないということになってしまう。ずっと昔からどんな時代にも、子供時代の楽しい思い出が詰まった世界中の灯を消してしまうことになるんだよ。

サンタクロースを信じないだなんて!そんなの妖精を信じないのと同じだよ。そりゃ、お父さんに頼んでクリスマス・イヴには世界中の全部の煙突を監視して、サンタクロースを捕まえてくれる人をお願いするという方法もあるだろうね。でも、もし君がそこまでしてサンタクロースが煙突から降りてくるのに会えなかったとしても、それが何かを証明してくれるのかな。確かにこれまで誰もサンタクロースを見た人はいないけれど、だからといって、サンタクロースがいない証拠になんかならないはずだよ。

世界で何より大切なものは、本当は大人にも子供にも誰にも見えないものなんだ。たとえば、妖精が芝生の上で踊っているのを見たことがあるかい?もちろん、ないよね。でも、それで妖精がそこにいないという証明にはならないはずだよ。この世のなかで、自分の目で見えていない、あるいは見ることのできないあらゆる不思議の全てに、思いをめぐらせたり、説明をつけたりできる人なんか誰一人いないんだ。

たとえば、赤ちゃんの時に使ったガラガラを破いて、中で何が音を立てていたのかを知ることはできるだろうね。でも、どんなに強い大人が、しかも何人もの力持ちの大人たちが寄ってたかっても、破いて中を覗いてみることができない、目で見ることが決して出来ない秘密というのも世界にはあるんだよ。信じる心や、想像力や、誰かを好きと思う心だけが、その秘密のカーテンを引いて、その向こうにある目では見ることのできない美しくて輝かしいものを教えてくれるんだ。そんなの本当かなって?ねえ、ヴァージニア。この世界では、そういう心こそが真実なのじゃないかな?それこそが、人間が永遠に信じていくことのできるものなのじゃないかな?

サンタクロースがいないだって?とんでもない!サンタクロースは本当に生きているんだ。しかも永遠に生きているんだよ。今から1000年、いや、1万年の10倍もの時間の先で、サンタクロースはやっぱり子供達の心をずっと幸せにしてくれるんだよ、ヴァージニア。

素敵なクリスマスを過ごしてください。そして良い新年を迎えてください。」






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