観光客と一緒に国立公園を見学したことは、私にとって貴重な経験であった。しかし、そのあとに試練が待っていた。国立公園を訪れて大勢の日本人観光客と会ったことが原因かどうかはっきりしないが、それから一週間ほど経った頃風邪気味になり、やがて38度を超える熱を出してしまった。
私はその時海岸通りの医療センターへ行き、風邪薬やうがい薬を処方してもらった。なぜその医療センターを選んだかというと、私は運転ができないため、市バスの停留所から遠く離れた病院に行くことが難しかったからである。しかし、それが最適な選択であったかどうかはわからない。それから一週間たっても良くなるどころか、ますます悪くなるように思われた。夜の一時ごろ、胸が苦しくなって目をさまし、三十分くらい重い咳を続けたこともある。朝は熱がなく、直ったのかと思っても午後になると39度近い熱が出る。そして、呼吸をするたびに咽喉の奥で雑音が聞こえるようになった。これは明らかに良くない症状だった。三月の半ば過ぎに再び海岸通りの医療センターを訪れた私は予想通り、ドクター・Mという方からX線検査を受けるようにと指示された。しかし、そのセンターにX線の設備はないので、指定する病院のどれかで検査を受け、写真を持ってくるようにと言われた時は少し驚いた。胸部間接撮影ができない病院があるとは予想していなかったのである。センターは海岸通りに位置しているところを見ると、どちらかと言えば観光客の急病や怪我への対応を主目的としていたのかもしれない。その日はあいにく土曜日で、候補にあげられた病院はいずれも検査を受け付けていなかった。
翌週になって、サウスポート(※2)にある放射線専門の病院で検査を受け、写真を持って海岸通りの医療センターに戻ったところ、ドクター・Mからは「重い肺炎にかかっているので、すぐ入院するほうが良いですよ。」と言われてしまった。私はその時初めて胸部X線写真を見たが、なるほど右肺の下半分が真白に写っていた。
ドクター・Mは、サウスポートのA病院の知り合いの先生を紹介してくれると言った。私は一瞬ためらった。一人暮らしをしており、入院にはさまざまな不都合が予想されたためである。しかし、「重大な症状に陥るかもしれないので、A病院の救急外来を予約しますよ。すぐ行ってください。」という勧告に従わないわけにはいかなかった。
この時の私は高熱のため、背中も腰も足も痛み、五十メートル歩くのも辛く感じられるほどであった。しかし、食欲はあり、救急外来に入院する前にどうしても何かを食べたいと思った。「今、食事をしてもよいのですか。」と聞くと少量なら良いということであった。そこで私は医療センターを出て近くのレストランに行き、路上の丸いテーブルに座った。
レストランの人が出てきて、“Are you on a holiday?” と私に尋ねた。この台詞はゴールドコーストでは日常的な挨拶の一つであり、“Hello.” とあまり違いがない。それはわかっていたが、この時の私は答える気力がなく、ぶっきらぼうに水が欲しいと言ったのを覚えている。しかし、水を飲んだあとで周囲を見回したときには自分が休暇を楽しんでいる暇人のように見えても仕方がないと思った。というのは、レストランは、この一帯で最も早くから観光業が発達し、今もサーファーズ・パラダイスの中心地として賑わうカビル通りに面していたからである。しかも私はゴールドコーストに来てから何十回も屋外のプールで泳いだため、日焼けしており、病人には見えなかったことであろう。
私の傍らを半ズボンにサンダル履きの人や、水着の上にタオル生地のはおり物をかぶった素足の人たちが通り過ぎて行った。後に述べるように、海岸には泳げる場所と泳げない場所とがあるが、カビル通りは遊泳できる地点に近いため、海水浴をしてホテルに引き上げる人たちが通っていたのである。
レストランからは海が見えた。海の色は海岸からの距離によって異なり、水平線の近くでは紫に似た群青色であるが、その手前は少し薄い青で、さらに近いところは薄緑色に見えた。普段は強い海風がこの日は凪いでおり、波は比較的おだやかであった。海岸とエスプラネードと呼ばれる海岸通りとの間に植えられた樹木の下では頭が黒く、体の白い朱鷺(※3)が悠々と歩いていた。私はこのような風景を眺めながら三十分ほどかけて食事をした。そして、入院のための買い物をしてからタクシーに乗った。
A病院の救急外来室ではいくつもの問診を受けてから、左手の甲に静脈注射のための針を埋め込む処置を受けた。この国では肺炎の患者もがんの患者も等しくその位置に注射針を入れられるのだ、ということをその時知った。救急外来室では二度ほど抗生物質の静脈注射を受けたが、そのたびに手の甲がひんやりと冷たくなった。
夕方になって移された一般病室はバスルームのついた個室で清潔感があった。そこで夕食のメニューを聞かれた時は驚いた。パンやスープ、メインディッシュ(魚、鶏、肉)、デザートなど、何種類もの中から選ぶことができたからである。それらはすべてプラスチックスの覆いをかけられ、大きなお盆に載って運ばれてきた。ただし、メインディッシュには期待どおりのものとそうでないものとがあった。日本の病院によくあるタイプの点滴は私には全く行われなかった。そのため、私は自由に動くことができたが、咽喉がかわいてたまらず、いったん眠りについてから何度も目をさました。この夜、担当の看護師が頼まなくてもほとんど一時間おきに紅茶やジュースを飲ませてくれたことには今でも感謝している。 |