オーストラリアの東海岸に沿って南北に伸びる大分水嶺山脈(the Great Dividing Range)の東端にはマクファーソン山地(McPherson Range)が連なり、クイーンズランド州とニューサウスウェールズ州との境をなしている。その山地のクイーンズランド州側で平均高度600メートル、面積195平方キロメートルに及ぶ地域をラミントン台地(Lamington Plateau)という。1915年に制定されたラミントン国立公園は地球の環境変化を示すような希少植物が生息しているという理由でその東のスプリングブルック(Springbrook)国立公園とともに世界遺産(※1)に指定されている。
ラミントン国立公園はグリーン・マウンテンズ(Green Mountains)とビナブラ(Binna Burra)という二つの部分から成り立っている。私が日本からの観光客の一行に加わって訪れたのはグリーン・マウンテンズである。亜熱帯雨林の中では期待通り、多くの動植物を観察することができた。
グリーン・マウンテンズにはオラーリ(O’Reilly)一族の私有地があり、そこに彼らが1920年代から経営を続けてきた有名な宿泊施設がある。一族の先祖の中には1937年、マクファーソンの山中に墜落した飛行機を一人で捜索し、生存者を発見・救出した人がいる。その驚くべき救助活動の実態は多くの人々によって記録され、今に伝えられている。私もゴールドコーストに来て間もなくこの地域の人からオラーリの名を教えられた。
以下はラミントン国立公園で見聞したこととオラーリの人命救助に関して私が調べたことの概要である。 |
二月の末、私は日本からの観光客の一行とともにラミントン国立公園を訪れた。この国立公園にはぜひ一度行ってみたいと思っていたが、日本からの知り合いが当地に来るまでその機会はなかったのである。
その日、私を含む観光客ニ十人はサーファーズ・パラダイスの中心に集合し、小型の観光バスでスプリングブルック(Springbrook)国立公園とラミントン国立公園の見学に出発した。現地に長く住んでいる日本人の観光ガイドがこの地域の自然や地理について説明しながらバスを運転していたが、その説明は非常に上手だと思った。
バスは45分ほどでスプリングブルック国立公園に着いた。この公園はSpringbrook Plateau, Mt.Cougal, Natural Bridgeの三つの部分から成り立っているが、私たちが訪れたのはSpringbrook Plateauである。この台地は今から2200万年前に火山の噴火でできたカルデラの北端にあたるということであった。展望台からかなたを見やると、一面の森の中に木の生えていない灰色の岩がいくつも突き出ており、それらがゆるやかな輪を描き、その輪の内側はくぼんでいたので、なるほど太古には火山活動があったのだと納得できた。
スプリングブルック国立公園を30分ほど見学してから、私たちは再びバスに乗り、カナングラ(Canungra)という登山口の小さな町を通過した後、南に向かい、険しい山道を登り始めた。道の両側は深い森で、ワラビーが跳ね出してバスの前を横断するのが何度も見えた。カナングラから30分くらい走ったのであろうか。バスはラミントン国立公園の入り口にある、オラーリの宿泊施設の手前に停車した。降りたとき、観光ガイドから「今から森の中の道を歩くが、そこでは小石一つ、木の葉一枚動かしてはならないことになっています。」と注意を受けた。しかし、私たちが乗ったバスの二十数名のほか、別の観光バスに乗った人たちも来ていたので、「こんなに観光客が多くては、自然環境が変わってしまわないだろうか。」と思った。
私たちはガイドからここの自然に関する説明を受けながら公園の中の道をそろそろと歩いた。森は予想以上に暗かった。巨木が多く、そのはざまでさまざまな植物が成長を競っているため、地上に届く日光はわずかである。森の中は暗いだけではなく涼しかった。真夏の正午に近かったが、長袖のシャツを着てちょうど良い気温であった。
小道を五分ほど歩いたところでガイドが立ち止まり、この国立公園に生息する希少植物の代表格である南極ブナ(Antarctic beech)を見せてくれた。それは非常に古い巨大な木で、根元は苔に覆われて緑色になっていた。高いところの枝や葉はほとんど見えなかった。この植物はオーストラリアが南極大陸とつながっていた太古の昔からあったが、オーストラリアが南極から離れ、温暖化するにつれて生息しにくくなり、現在では気温の低いマクファーソン高地でかろうじて生き延びているそうである。地球の温暖化が進むと生息できなくなるのではないか、と危惧されている。
そのほかさまざまな説明を聞いたが、私にとって非常に興味深く感じられたのは、密林の中で生きていくためにさまざまな「工夫」を凝らしている植物の話であった。特に巨木に寄生して成長し、寄生した相手の木を枯らす、「絞め殺しのイチジク」(Strangler fig)という蔓性植物の生き方について聞いた時には亜熱帯雨林の中での生存競争の厳しさを見せつけられたような気がした。
この植物はイチジクの一種であり、実がなると多くの鳥たちを惹きつける。種子は鳥の排泄した種が森の木の高い幹に付着した時に限って発芽し、成長するそうである。はじめは寄生した木の幹に沿って細い根をそろそろと地面におろしていく。その段階では、巨木の幹を蔓が這い登っているようにしか見えない。しかし、根が少し太くなり、またその数が多くなると幹に網をかけたようになる。やがて「絞め殺しのイチジク」の根は太くなり、寄生した相手の木と癒着を起こし、幹の表面を覆いつくす。そして、ついには自らを支えてきた木を枯らし、その場所に根をしっかりと下ろす。私たちはこの恐るべき寄生植物の根が寄生された木の幹と同じような色になり、もはや両者の境目がわからないほどに癒着してしまったところを見た。また、既に巨木を枯らしてしまったこの植物も見たが、それは蛸が何十本という太い足を空から下ろし、地面の近くでその足を四方八方に広げている有様を思わせた。寄生されて枯れた木は朽ち始めていたため、根と根の間には空洞ができていた。
大樹の幹に寄生しているランも見られた。それは誰かが大樹の幹に植木鉢をつるしたような格好であった。ガイドはこの種のランは成長すると自らの重さに耐えられなくなって落下すると言ったが、確かに地上に落ちてしまったランがいくつかあった。
森の中には恐ろしい植物も美しい植物もあった。Giant stinging treeの高さ一メートルくらいの幼木を示されたときはぞっとした。葉には一面にとげが生えていて、触ると数時間にわたって痛みが続くと聞いたからである。成長が早く、大きくなると森の中で最も高い木の仲間にはいるのだそうである。他方、美しいと思ったのはBleeding heartという灌木の葉である。この植物の葉はいっせいに紅葉するのではなく、古くなった一枚だけが赤くなる。暗い藪の中から浮き出る赤い葉は花のようでどこか可憐であった。
森の小道から出たところにオラーリの宿泊施設があった。その前で他の観光客の一群が七面鳥に似たbrush turkeyやインコの一種であるcrimson rosellaなどの鳥に餌をやっていた。私たちもそれに参加したが15分ほどでそこを離れ、帰路についた。偶然であるが、その翌週の3月1日がマクファーソンで起きた航空機事故と驚異の人命救助から68年目にあたっていた。それは以下に述べるような出来事である。 |
ゴールドコーストで最も有名な歴史上の人物は、おそらくバーナード・オラーリ(Bernard O’Reilly(1903−1975))であろう。
バーナードはオラーリの一族とともにマクファーソンの高地に住んでいた。先祖はその名が示すようにアイルランド出身で、1830年代にこの地へ移住し、開拓に尽くした人たちであった。一族は1911年に牧場の経営を始めたが、1915年にその周辺一帯が国立公園に指定されたために交通事情が悪く、町へ牛乳を出荷するのに苦労したという。彼らはやがて、ゴールドコーストの海岸から丸二日もかけて国立公園を訪れる人たちのために宿泊施設(Guesthouse)を経営するようになった。バーナードも妻とともにその宿泊施設の経営に携わっていた。最初の客は1926年の復活祭の日に来たそうである。
1937年2月19日にマクファーソンでスティンソン墜落事故(Stinson crash)と呼ばれる航空機事故が起きた。機長、副操縦士と五人の乗客を乗せてブリスベンからシドニーに向かったスティンソン航空の飛行機が、途中で立ち寄るはずのリズモアに到着しなかったのである。この飛行機はリズモアの南の海に墜落したと考えられ、大掛かりな捜索が行われたが、一週間たっても見つからなかった。この事故はその当時、国中の話題になっていた。
バーナードは事故から一週間たった2月26日、近所に住む兄弟から「飛行機は悪天候を突いて農場の上を飛んでいた」という話を聞いた。記憶を呼び起こしてみると、自分自身もその日飛行機の音を聞いていた。彼はまわりの人たちの話を総合し、かつ地図を見ているうちに飛行機は海に落ちたのではなく、低空を飛んで高地の峰に衝突したのではないかと考えるようになった。27日の朝、彼はパンやバター、茶などの食料を携えて馬にまたがり、ひとりで事故機の捜索に向かった。途中で馬を帰し、徒歩で緑の山をかき分けて進んだという。33歳のバーナードはしばしば弁当を持って亜熱帯雨林をさまよい、どうしたかと思う頃ふらりと帰ってくるような人で付近一帯の地理に明るく、自然現象に詳しかった。この夜は木の根元にもたれかかって毛布もかぶらずに眠ったそうである。
翌朝、バーナードはスロークバン(Throakban)という山に登り、見通しの良いところに出て海の方向に目を向けた。すると8キロほど離れた森林の一角が黄色くなっているのが見えた。《樹木が何らかの原因で枯れたのだろうか、いや、このあたりに山火事はないはずだ。飛行機が墜落したために樹木が焼け焦げたあとかも知れない。》と彼は考え、密林のつる性植物をかき分けてその方角に進んだ。三時間くらい経った時、「クーイ(Cooee)」という、救助を求める弱々しい合図が聞こえた。バーナードは声の主を求めて歩き、再び合図をかわしたが、このときその声の発せられた地点から200ヤードくらいしか離れていないことを知った。やがて目指す地点にたどり着くとそこはまさにスティンソン航空機の事故現場であり、凄惨な光景が広がっていた。しかし、驚いたことには現場に二人の男性が生存していたのである。「焼け焦げた遺体が口をきいたのかと思った」とバーナードは後に語っている。一人はビンステッド(John Binstead), もう一人はプラウド(Joe Proud)という人だった。事故発生から10日も経っていたことを考えると彼らが生きていたことは奇跡に近い。二人の怪我の状況を見たバーナードは強いショックを受け、しばらく口がきけなかった。二人とも重傷を負っており、プラウドの腐った足には蛆がわいていたのである。しかし、彼らは意識があり、話をすることができた。ビンステッドは、「飛行機が落ちたとき、機長と副操縦士と二人の乗客が死亡したが、自分たちのほかにもう一人、ウェストリー(Westrey)という人も生存しており、救助を求めて山を降りようとした」と言った。バーナードは、しばらく彼らに付き添ったが、早く村の医師を呼ぼうと思い、二人に茶を与え、食料を置いて近道を急ぎ下った。そして途中の滝でウェストリーが力尽きて亡くなっているのを発見した。
バーナードは麓にたどり着くとそこで会った人たちに自分が今見たことを話した。ニュースはたちまち近隣の村々に伝えられ、密林の歩き方をよく知っている100名以上の村人が大鎌や鋸を持って馳せ参じた。その中には男性も女性もいたそうである。バーナードは医師とこの村人たちとを伴い、休むことなく再び事故現場に向かった。彼らはけが人を担架で運び出すため、現場まで16キロにわたって密林を切り開いたという。一行は3月1日の夜、夕食も飲み物もとらずに山の中で野宿をし、3月2日の早朝に歩き始めた。そして、この勇気ある村人たちは2日の午後、重態の二名を山から下ろし、麓に待機する救急車に運びこむことができたのである。
バーナードの偉業は事故現場近くのプレートに刻まれており、また一族の子孫たちが維持する宿泊施設で語り継がれている。バーナードは時にBushmanと紹介されているが、写真で見る限り、穏やかな顔をしたあまり大きくない人のようである。1963年にGreen Mountains という回想録を出版している。
なお、足に蛆が発生するというのは悲惨なことではあるが、医師は「腐った傷口がそれによって削り取られたため、敗血症にならずにすんだ」と言ったそうである。二人の奇跡の生還は密林の自然とその自然をよく知った人たちによってはじめて可能になったのである。
ところで、現在のゴールドコーストには、ここの豊かな自然を愛している人とそうでない人とがいるようである。ラミントン国立公園からの帰り道の疎林には、ぽつぽつと人家が散らばっているのが見えた。観光ガイドによると、そのあたりには水道も通っていないが、それでも都会の喧騒を避けて移り住む人がいるということであった。どのようにして生活しているのかはわからないが、ここの厳しい自然を理解し愛している人に違いないと思った。他方、私がボンド大学で会った何人かの教員は、私が国立公園について質問をした時、「国立公園に行っても、古い木や岩が汚く苔むしているだけで、全く面白くないよ。」と返事をした。中には「前に一度スプリングブルック国立公園に行ったが、もう行きたいとは思わないね。東京の六本木ならまた行ってみたいが。」と言っている教員もいた。バーナード・オラーリの救助活動から70年近く経ち、人々の自然に対する考え方も多様化しているのではないだろうか。 |

※1. |
Central Eastern Rainforest Reserves Australia World Heritage Area がその正式な名称である。なお、この世界遺産はLamington、Springbrookの二つの国立公園のほか奥地のMt. Barney およびMain Range National Parkを含んでいる。 |
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