うらかみはこう考える

 ここに示されている回答は,それが正解であるということではもちろんありません。私なりに問題について考えた,そのプロセスです。できるだけ,賛否両論が出るような,ちょっと過激めの回答をつくってみようと思っています。なお,自分がこのようなものを書くときに注意していることは,(1)視点を固定化しすぎない(多面的に見る),(2)それらの視点をトータルに見たうえで,自分の考え方を示す,ということです。

■ 問題001 「友だち100人できるかな…」という歌があることは御存知でしょう。この歌は,友だちは多いほうがいいよ,たくさん友だちをつくりなさい,という啓蒙の意図が入っていると思われます。では,友だちは本当に多いほうがいいのでしょうか? それは,なぜでしょう?

 さて,まず肯定する理由から考えてみよう。まず,友だちといると楽しい。そんな友だちが多くなると,楽しみも多くなる。だから友だちは多いほうがいい。楽しみだけでなく,情報や刺激という面でもそうだろう。ほかには,友だちは,自分がピンチになったときに手を差し伸べてくれるし,心配してくれる。相談にものってくれる。だから友だちは多いほうがいい。こんなところだろうか。
 では今度は視点を変えて,友だちが多いことのデメリットを考えてみよう。
 人間関係というものは,常にうまくいくとは限らない。うまくいかない時だってある。そうなると,友だちが増えれば増えるほど,うまくいかない時が出現する可能性が増えてくることは明らかである。つまり,友だちが増えれば増えるほど友人関係で悩む可能性が増大するのである。
 そんな時は,別の友だちに相談するという人もいるだろう。友だちが一人しかいなかったら相談できる人もいなくなってしまう。これはあたりまえ。多くの人は,友だちから悩みの相談を受けたことがあるだろう。軽く流せるようなものから,相談された自分まで暗くなってしまうようなヘビーなものまで。さて,友だちとは,相談をしたりされたりする関係と考えれば,友だちが増えるということは,相談する仲間が増えるということであり,同時に相談される場合も増えるということである。あなた自身の経験から,友だちから信頼されていればいるほど,その人への相談は多くなり,内容もヘビーになるといえないだろうか。もしそうであれば,あなたはそれに耐えられるだろうか。
 以上を踏まえて,自分なりの結論を導いてみよう。友だちが多いほうがよいかどうかという問題に対して,私は人によると考える。かなりいい加減な答えだと思っているが,先に述べたように,友だちというものはメリットとデメリットの両方を持ち合わせた存在であることを認めると,こういう答えにならざるを得ないのかもしれない。
 ここでいう“人”それぞれとは,その人の友だちという存在に対して認識しているメリットとデメリットによるということである。メリットとデメリットの両方を認識したうえで,多少のデメリットには目をつぶり,メリットを得たいと考える人には,友だちは多いほうがよいといえる。しかし,メリットは認識していても,デメリットを最小限にしたいと思っている人には,友だちは多いほうがいいとは一概にはいえない。
 ここまで読んで気付かれた方も多いと思うが,この私の考え方はすべての年齢段階にあてはまるものではない。「友だち100人できるかな…」という子ども向けの歌を引き合いに出しておいて“ずるい”とおっしゃる方も多いだろうが,私の考え方は,早くても小学校高学年以上をターゲットとしている。それ以下の年齢段階の場合は,少し考え直さなければいけないだろう。でも,基本的なスタンスは以上のようなものであってよいと思っているのだが。

 さて,最後にもう一度。あなたは,友だちは多いほうがいいと思いますか?

とある男性はこう考えた

■ 問題002 現代は価値観が多様化している時代といわれます。この価値観の多様化にともなうメリットとデメリットを考えてください。

 結構難しい問題だと思うのですが,いかがでしたでしょうか。まず,カチカンは,「価値観」と書きます。価値「感」と書く学生も多いのですが,価値感という言葉は無い(ワープロを使えばこのような間違いはないと思います)ので,もし価値感だと思っていた人は訂正しておいてください(なお造語としては使われる場合もあります)。
 最初に,なぜ価値観を取り上げたのかということについて記しておいたほうがよいでしょう。青年期の課題(青年期の間に身に付け,確立しておいた方がよいと考えられる事柄)の一つに,価値観の確立があります。なぜなら,価値観がその個人のその後の人生,生活をある程度決定すると考えられるからです。例えば車を買うとき,価格は高いけれども見栄えのするものを買う人もいるでしょうし,価格が安ければその他のことには目をつぶる人もいるでしょう。このときの判断の基準となっているものが価値観です。ここでは車を例に取りましたが,その他,人生・生活にかかわる様々な選択に価値観がかかわってくることがわかると思います。
 最近では,価値観の多様化ということが,現代社会のキーワードのように使われます。確かに現状はそうなりつつあると思います。そこでまずメリットから考えていきましょう。現代社会を競争社会であると認めたうえで,競争社会においては価値観が多様化することが必要だと思います。例えば学歴社会ですが,もし高学歴が社会的勝者であるという価値観だけが存在していたとしたら,それに乗り損なった人は救いようがありません。出世競争もそうです。競争によってランク付けをするならば,勉強で一番になった人も,運動会で一番になった人も,文化祭で一番頑張った人も同様に評価されることが必要でしょう。価値観が多様になっているのなら,ある人たちは勉強で一番になった人を最も評価し,違うある人たちは運動会で一番になった人を,さらにほかの人は文化祭で一番頑張った人を評価する社会になるはずです。うまく行かなかったら,ほかのことで頑張ればいい,という表現が信ぴょう性をもって使われるためには価値観の多様化が不可欠だと考えられます。
 また,価値観が画一化することの怖さというものも感じます。戦前戦中の教育(あまりひとまとめにしないほうがいいかもしれませんが),最近ではオウムの件など,集団の判断基準がはっきりとした一つになり,違う考え方や基準が入り込む余地が無くなったときの怖さです。価値観が多様化しているということは,ある価値観が暴走を始めたとき,それを抑制する力になりうるとも考えられます。
 次はデメリットの方にいきましょう。価値観が多様化してくると,そこには価値観の相違が多発してきます。この価値観の相違という言葉は便利なもので,自分が気に入らない考え方(教育や指導を含みます)を簡単に否定することができます。自分勝手な考え方を押し通そうとする時に,価値観の相違という言葉は非常に便利なものなのです。この伝家の宝刀を抜けば,議論なんてたちまち無意味なものになります(平行線を是としているのですから)。しかし当然,価値観の相違ではすまされない問題もあります。徹底的に議論し,お互いが妥協できる接点を見つけていかなければならないこともあるのです。世の中を見回してみると,如何にこの点が原因と考えられる不毛な議論の多いことか(これを議論とよぶかどうか…。単なるガキのケンカです)。価値観を主張することは大切ですが,自分の価値観を大切にするならば人の価値観も認め,同等に扱わなければならないことははっきりしているでしょう。でも,これを忘れることが多いですよね。このように価値観の多様化を認めたがゆえに,価値観の相違に足下をすくわれる可能性があるのと思います。
 価値観の多様化の陰に隠れた問題には,もう一つ価値観の希薄化があると思います。価値観の多様化にともなって,あれもOK,これもOKで,結局どれが本当にOKなのかわからなくなってしまう。で,結局どれもOKになってしまう。価値観の多様化と言われるのは,あれをOKという人もいるし,これをOKという人もいるという状況です。どれもOKという優柔不断さを表現する言葉ではありません(そこに確固たる基準・価値観があれば別ですが)。自分なりの価値観をもてない人,つまり価値観が希薄化している人が,価値観の多様化を隠れみのにしていると感じることもあります。これがなぜデメリットなのか。最初に書いたように,価値観は人生・生活にかかわる様々な選択に影響してきます。当然価値観が希薄化してくると,それを自己決定しにくくなると考えられるからです。
 時に,価値観の多様化が素晴らしいことのように語られることもありますが,個人的にはデメリットの方に目が行きがちです。価値観が多様化した社会は,楽しいけれど生きにくい社会だと思うのです。

とある女性はこう考えた

■ 問題003 現代では,老人に対する社会的評価は,一般的にあまり高くないと考えられます。それはなぜなのかを自分なりに分析し,その分析に基づいて老人の社会的評価を高めるような方法を提案してください。(1998年度発達心理学Bの定期試験で出題した問題です)

 えらく時間がかかってしまいましたが,授業でしゃべったことから大きく飛躍できている分析視点というものは出てきません。まあ,これくらいで出てくるようなものならば,授業をやっている最中にでも思いついているだろう,と自分を慰めてみたりしていますが。ちょっとだけ味付けを変えて書いてみたいと思います。
 さて,老人に対する社会的評価が高くないということを相対的に見ると,老人でない人に対しての社会的評価はある程度高いということになります。では子どもはどのように見られているのか。子どもという存在を社会的評価の対象とするならば,評価できる点は将来的な社会への貢献の可能性ということになるでしょうか。将来的な社会への貢献の可能性という点を老人のポジションから考えて見ると,やはり子どもよりもその可能性は低いといっていいでしょう。
 次に成人と比較してみましょう。成人(20代から60代半ばまでくらいと考えておきます)という存在を社会的評価の対象とするならば,評価できる点は現在の社会への貢献度ということになるでしょう。一市民,一職業人,一納税者などとして,特に力と金の側面から,現在の社会を支えている大きな柱が成人であることは間違いないでしょう。この点を老人のポジションから考えて見ると,やはり成人よりもその責を負担している程度は低いと思われます。
 かなり大ざっぱな分析ですが,子どもが将来の社会,成人が現在の社会を担っている存在として価値を与えられているとしたら,老人はどうでしょう。素直に考えていくと,老人はこれまでの社会を担ってきた存在として価値を与えられていいはずです。しかし,社会は日々前進していくという思い込み(言い方は悪いかもしれませんが,個人的にはこう思います)があるため,過去は先に進むためのたたき台と見られることが多いと思います。このように扱われると,過去の価値は資料的な意味は残るものの現在や将来よりも低く見なされがちです。そうなると,それを支えてきた人たちは,もう古い存在ということになりそうです。
 このような分析から老人の社会的評価を高める方法を考えるとしたら,回答のひとつとして現在や将来の社会に貢献するということになるでしょう。しかしこれまでの分析に出てきたように,可能性や力,金といった点からの貢献では,子どもや成人に引けをとってしまいます。老人にあって,かれらには無いような点からの貢献を考えると,過去を創ってきた,特にそのプロセスを知っている人間としての反省を基にした貢献ということになるでしょう。
 しかしこれは,老人にとっては難しく,つらい作業に違いありません。バブルの責任をとれない旧管理職のことが報道されていますが,これを見ても,過去の責任をさかのぼって問われることがいかに受け入れがたいものであるかは明らかでしょう。しかし,今,そしてこれからに貢献しようとするなら,過去の過程に関与した者たち自身が自己反省の上に立ち口を開かなければならないのでしょう。これができるのは,歴史を創ってきた者だけです。そして,それが社会にとって重要で有益なものであることは,おそらく誰もが感じていることでしょう。それを老人が語り始めたとき,かれらの社会的評価は高まるのではないでしょうか。
 では具体的な方法としては,何を挙げることができるか。外からできることとすれば,老人がこれを始められるような雰囲気を持った場を作り出すことくらいでしょう。条件を考えてみると,語り手と聞き手は間接的に接し,語り手の匿名性が保証されつつ,反応もうかがうことができること,世代を問わずできるだけ多くの聞き手に情報提供ができること,志を一にする仲間がいること,うまいコーディネーターがいること…などでしょうか。こう考えると,インターネット上なんかがいいのではないかと思います。老人達がHPを作って,人生道場なんかやりはじめたら面白いだろうなあ。

 書きながら,自分の失敗を失敗として認め,それを他人に向かって口にできるのか,と自問自答してしまいました。今は結構平気でできるけど,30年後,40年後はどうだろう…。

■ 問題004 私は車の運転をすることが好きです。だから,上手に運転できるドライバーになりたいと思っています。では,どのような運転ができれば上手なドライバーなのでしょうか。いろんな条件を整理してみてください。

 先日,たけしの万物創世記でもドライビングについて取り上げていました。でも,今一つ“芯”が見えなかったと感じたのは私だけでしょうか?

 結論から行きましょう。私の考える上手なドライバーというのは,“常に上手になりたいと思って運転しているドライバー”となります。どうしてこれが上手なドライバーなのか,ということを考えると,“上手”という中身を明確にしなければなりません。このあたりを拾い出すことで,今回の私の考え方の表明とします。
 たとえばレーシングドライバーの場合,“上手”なレーシングドライバーとは,まず間違いなく,勝てるドライバーを指すでしょう。リタイアはしないけど順位は下の方というのは,“上手”なレーシングドライバーとは言いません。つまり,誰よりも早く走るというレースの目標に達することができるドライバーのことを“上手”と呼びます。一般のドライバーにも同じことが言えるでしょう。すなわち,“何のために走っているか”を明確にしないと,“上手”な運転が見えてこないのです。
 先にレーシングドライバーを例にあげたのは,運転の目的がはっきりとしているからです。一般のドライバーでは,これが不明確になりがちです。運転の理由が様々にあるからです。たとえば,通勤通学に車を運転する場合。この場合の目的は,ある時間までに目的地に着くことです。ここには2つの目的があります。一つは“着くこと”で,もう一つが“時間までに着くこと”です。どちらが優先されるかというと,おそらく“着くこと”でしょう。時間までに着くことができなかったら着かなくてもいい,というのはまれでしょうから。そうなると,“上手”なドライバーは,この目的を間違いなく達成するように行動する人のことになります。混雑するとわかっていたら早めに出る,リスキーな運転はしない,などを頭にたたき込んで運転できる人となります。遅れそうだったから,一方通行をちょっと無視したとか,赤信号だけど突っ込んだ,というのは,結果オーライの下手な運転となります(法規を守るか守らないかという問題は,ちょっと横に置いておきます)。
 次に,人を駅まで送っているときのことを考えてみましょう。この場合,先と同じく,“着くこと”と“時間までに着くこと”が求められ,さらに“同乗者が快適に”というオプションが付いてきます。これらの3つの順番は難しいのですが,人を送っているのですから,“着くこと”と“時間までに着くこと”は当たり前,“同乗者が快適に”をどうやって確保するかに重点が置かれるでしょう。“同乗者が快適に”乗っていられるには,危険なことはしないことはもちろん,加速,ブレーキ,カーブでの横Gなど,注意しなければならない問題がたくさん出てきます。一人で勝手に運転しているときとは勝手が違うのです。この勝手が違うことに気がつける人が,“上手”なドライバーでしょう。そうなると,同乗者がいようがいまいが,一人の時と同じ運転をする人は下手といってよいでしょう(その人の技量を判断するには,乗せてもらうのが一番よくわかります。時にタクシーの運転手に腹が立つのは,この点が守られていないときです。)。
 このように考えてくると,難しいのがドライブの時です。“楽しく”ドライブするということを構成する要因の中には,“スピード”が入ってくる場合があります。スピードが上がれば,当然リスクも増加します。ここをどこで折り合いをつけるかが難しい。絶対的に近い安全を確保しながら,どこまで“スピード”を追及できるか。これはドライバーの技量にかかわる問題と言ってよいでしょう。自分の技量を正確に把握したうえで遊べる人が,“上手”なドライバーとなるのでしょう。
 もう一つ,これらの前提になるものがあります。それは,歩行者や他のドライバーに迷惑をかけないことです。これが考えられないドライバーは問題外です。こういう人の車には乗らないことが無難でしょう。
 さて,もう一度“上手”なドライバーというものをまとめてみましょう。“上手”であるためには,自分が今運転してる理由,目的をきちんと認識していることが条件になります。そして,その目的達成に応じた運転ができていることが必要です。でも,先に上手なドライバーというのは,“常に上手になりたいと思って運転しているドライバー”であると書きました。“できる”とは書いていません。これには理由があります。運転は,うまく運転しようと練習していれば徐々にうまくなります。これでOKという状態は考えにくいのです。この可能性ゆえに,“上手になりたい”と思っている人の成長性を信じているのです。そのため,私の結論としては,“常に上手になりたいと思って運転しているドライバー”が上手なドライバーだというところに達したのです。

 車を,意のままに操ることは難しいです。オートマのブレーキは,ちょっと気を抜くとカックンと止まってしまうんですよね。

■ 問題005 学校では,あまりお金のことを取り上げません。税金の仕組みは教えられますが,節税の仕方などは教育内容に含まれないのです。ところが,一般社会ではお金の話題は頻繁に出てきます。では,教育(中学,高校くらいにしておきましょう)の中で,お金の話題をどのようにあつかうのがいいと思いますか?特に,“何を”教えるかについて考えてみてください。

 最近,景気の底入れや日本版401Kを先取りしてか,証券会社が積極的にCMをうっているように感じます。その中で,ガリバーと呼ばれる某証券会社が,アメリカの小学生がグループで株式の運用成績を競っていることを取り上げています。いいか悪いかは置いておいて,日本の学校とはえらい違いだなあと思って見ています(金融市場で日本人は食い物にされるだけなのかもしれない…)。

 さて,お金に関する一般書をめくっていると,よく出会うフレーズに「命の次に大事なお金」というものがあります。本当にお金が命の次に大事なのか,という議論はしませんが,この社会を生きていくうえで相当に重要なものであるということは間違いないでしょう。殺人や自殺のもとになっている問題なのです。でも現在の学校では,お金についてはほとんど触れません。家庭でも似たようなものでしょう。また,子ども自身もお金と縁遠い生活をしています。子どもはお金を結構使っているではないか,だから子どもがお金と縁遠い生活をしているとはいえない,という考え方もあるでしょう。私は,子どもがお金を使っていることは認めますが,それだけではきちんとお金と付き合っているとは言えないと思っています(実は,これは自分で働いて儲けるようになって初めて気づいたことです)。
 お金についてですが,基本的には「稼ぐ」「蓄える」「使う」の3つの要素があると考えられます。そして,個人のお金についての考え方は,この3つのバランスの取り方として表現されるでしょう。お金ときちんと付き合うことは,これらのバランス感覚がきちんと持てているということだと思います。ちなみに,この他にも「殖やす」や「借りる」などがあると思いますが,これは発展学習ということで,ここではちょっと横に置いておきます(子どもが親の証券口座を使って,親の収入以上の運用益を出しているなんてことがあったら面白いなあ)。
 では,このような観点から現在の子どもたちの状況を考えてみましょう。まず,「稼ぐ」ことについてはどうでしょう。現在では,何かしらの現金収入がないと,生活していくことは難しい社会であると思います。となると,「稼ぐ」ことは,飯の種を得ることとなります。仕事の中での自己実現などということは,飯が食えるプラスαの部分なのです。これを子どもの場合に当てはめてみましょう。家庭に一定以上の収入があれば,子どもは飯を食えます。お小遣いというのは,生活上のいわばプラスαの部分に相当するでしょう。大部分の子どもたちは,飯が食えることを当然と考え,プラスαの,寝ててももらえるお小遣いで一喜一憂しています。これでは,「稼ぐ」ことについて理解することは難しいと思います。「食えない状況を体験してみなさい」とはなかなか言えないので,こんこんと説得するしかないのかなと思います。家庭の協力があれば,家庭の収入のうちのどの程度を自分が消費しているかを知ることができるので,一つのよい方法だと思うのですが,多くの親たちは自分たちの収入を子どもにあかしたくないようです。これは明らかに,子どもを一人前に育てたいという方向からずれているのですが。
 次に「蓄える」です。これは,実感としてかなり難しい問題です。「蓄える」という行為をするには,間違いなく目的があるはずです。老後に備えてとか,不意の出費に備えてとか,買いたいものがあるからとか。一生,一定の収入が保証されていて,かつ必要なときにはいくらでもお金が沸いてくるというような状況がもしあれば,誰も蓄えようとはしないでしょう。この目的についてきちんと考えておかないと,なかなかお金は貯まらなかったり,日常生活を圧迫してまで過度に蓄える行為に走ったりすることが考えられます。急に収入がなくなった場合に慌ててしまうような状況も望ましくありませんが,時に新聞などでお目にかかる「保険の入り過ぎから家計を守ろう」などの指摘のように,やみくもに蓄え,日常生活が圧迫されているというのも問題でしょう。こうならないために,子どもは何を学んでおくべきなのか。「蓄える」ということにおける目的の重要性と将来設計の仕方でしょうが,教える方法が難しいなあと感じます。
 最後は「使う」です。小学生でもできる簡単な計算で,儲けた額から蓄える額を引いたものが,使える額です。ここを「使える」額と表現するのがよいのか,「使う」額と表現したらよいのか悩むのですが,実際はその両方の性格を持っているものだと思います。「使う」については,使える額には上限があるということを,どうしても学んでおかなければならないでしょう。お金についての基本の「き」と言えるような原則だと思います。次が,どのように使うかでしょう。賢い消費者とは,より良い物をより安く買える人のように表現されることがありますが,個人的にはそれでは不十分だと思っています。必要ではないものは,良くて安くても買わないことができるという要素も入れるべきではないでしょうか。商品の売り手としては,より良い物をより安く提供することは当たり前だと思っているでしょうから,次の手はどうやって購買意欲をかき立てるかを考えてきます。相手は,どんどん買わせようと企んでいるのです。欲しいと思わせるような商品の中から,自分に必要なものをどうやって選ぶかが,売り手の餌食にならない賢い消費者と普通の消費者の分かれ目になるような気がしてなりません。それができるためには,自分のライフスタイルを確立すること,つまりどういう生活を自分がおくっていきたいのかを考えさせる必要があるのでしょう。
 長々と考えてきましたが,結局行き着くところは,お金についての自分なりの考え方を決めるということは,すなわち自分のライフスタイルを決定することにほかならないということです。なお,ライフスタイルを決定することは,お金についての考え方を決定することと,順を逆にしてもあたっていると思います。ライフスタイルを考える授業といえば進路指導や生徒指導を連想しますが,進路指導や生徒指導でもお金の話はほとんど取り上げられないでしょう。お金とライフスタイルはリンクしているのだから,リンクさせたままで取り上げることが大切なのだと考えられます。

 バブルのころの余ったお金を,みんなはどうしちゃったんだろうと思いながら書いてみました(ちなみに私は,大学生の時ですので,バブルとは無縁な生活をしていました)。株や土地で塩漬けにした人たちは負けて,長期の定期預金に回した人が勝ったんだろうなあ。

 

■ 問題006 一般に青年期は,子どもから大人へと移り変わっていく過渡期と考えられます。では,一体何が変われば,子どもから大人へと変わったと判断できるのでしょうか。判断の目安となる「ものさし」について考えてみてください。

 これは,目下の私の研究主題の一つです。そのため,ここで“こうだ!”なんて書けるはずもない問題なのです。えらく長い間,私自身の考えをアップできなかったのは,つまりは私自身の思考の進展がなかったということにほかなりません。研究も少しはやってみました。それは別のページに記載しているので,ご覧になった方もおられるでしょう。あれで満足しているわけではありませんが,これからのヒントになるようなものも隠れていると思っています。
 さて,私自身が(現在の私見として)考えている「ものさし」には,うまく表現できないのですが,「生き延びていくための賢さ」みたいなものがあると思っています。「(こ)ずるさ」「計算高さ」「要領の良さ」「抜け目のなさ」「割り切りのよさ」「あきらめのよさ」…,などを包括する概念と考えてください。これを,「生きていくための賢さ」ではなく,「生き延びていくための賢さ」と表現したのには理由があります。ここには私自身の人生観,社会観が現れていると思っています。「生き延びる」を国語辞典で引くと,「ほかの人が死んだあとまで生きる」というようなことが記してあります。この「ほかの人が…」というあたりの意味合いを込めたいのです。
 なぜこれが「ものさし」になるかといえば,子どもはその賢さを身に付けていなくても社会生活にあまり支障がない,しかし大人になると,それなくしては社会生活に支障が出てくるため,どうしてもある程度は身に付けておかなければならないものだと考えるからです。子どもは育てられるという役割が多く,大人は育てる役割が多いといえるでしょう。何を育てるかというと,それは子どもであったり,後輩であったり,仲間であったり,仕事であったり…,さまざまだと思います。育てるということを始めると,それに対する愛着や責任が生まれます。そのため,自分に与えられた(と本人が思っている)役割をやり遂げなければ,という想いが生じると推測できます。それを自覚したとき,たとえ他人が自滅したとしても,自分は生き延びてやる,生き延びなければという意志が芽生えるのではないでしょうか。
 このように書くと,「では,人を蹴落としてもいいと思っているのか」と問われるかもしれません。これについては,「賢さ」と書いていることで対処しているつもりです。賢い人は,何も考えず人を蹴落としたりはしないでしょう。このような振る舞いは単なるバカな行動でしかなく,決して賢いとは言えません。嘘はいけないこととわかっていながらも,正直にものを言うことが相手を決定的に傷つけてしまうことがわかっている場合,賢い人は嘘をつくかもしれません。また,正直にものを言うことが相手を決定的に傷つけてしまうとしても,それが後によい結果につながりそうであれば,賢い人は正直にものを言うでしょう。「生き延びていくため」に行った何かが,結局は自分の首を絞めることになっては元も子もないのです。「生き延びていくための賢さ」を持っているということには,このあたりの見通し,バランス感覚が研ぎ澄まされていることも含まれます。
 ではこれを発達という側面から考えると,例えば「うそ」を使うと,自分の利益だけのため,今を切り抜けるため,といった利用方法から,みんなのため,将来のため,などといった方向へと変化していくのではないか。今のために今を考えて行動していることから,将来のために今を考えて行動している方向に変わっていくのではないかと推測できます。このあたりのことは,他の領域の発達的変化,例えば時間的展望,道徳性,認知などの側面とも一致しています。それらの複合体と言ってもいいかもしれません。
 自分自身,以前の怖いものなし,失って困るものなしという感覚から,怖い,失いたくないという感覚を感じるようになってきました。自分を曲げるくらいなら,さっさと逃げ出せばいいのにと思っていたころもありますが,逃げ出しもせず,自分を曲げることもせずに何とかする方法を考えるべきなのだろうと思うようになってきました。だれかれ構わず,つっこみを入れることはやめました。(いずれも,たぶん) 賢くなりたい,賢くならなければ,と思うようになりました。だから,結構マトをえていると思っているのですが。

 やはり,うまく論じられませんね。あと10年くらいしたら,もう少ししっかりとしたものが書けるようになっているかもしれません。それには,自分がもっと成熟した大人になっているという前提が必要なのですが。困ったもんだ。

■ 問題007 人が集まって話し合いを持つ会議というものが存在しますが,参加者がどのような態度で参加すれば実りある会議になるでしょうか。会議の質・目的などを考慮しながら考えてみてください。

 国会のテレビ中継などがありますが,決まって“ここに小学校の先生がいたらなんて言うか…”とあきれながら見ています。間違いなく,「人の発言はだまって最後まで聞きましょう!」と言うに違いありません。また,「今は寝る時間ではありません」と言うかもしれません。少なくとも,国会は“議論し”方向性を決める役割は果たしていません。でも,全く機能を失っているわけではないでしょう。「報告(提案と説明)」と「採決(多数決)」だけは,ちゃんと(無理やり?)行われています。
 国会の例を出しましたが,会議には目的があります。目的というよりは,最低限としてクリアしなければならない線があると思います。これはあたり前のことかもしれませんが,私の場合は,就職して学内外の会議というものに頻繁に顔を出すようになってから実感としてわかったことなのです。例えば,集団の構成員に情報を伝達するための報告が主となる会議。構成員による承認を目的とした会議。構成員による実質的な議論が必要な会議(結論を出すための期間が短い場合もあるし,長い場合もある)。構成員からの意見聴取を目的とした会議,など。現実的には,これらのいくつかが複合した場合が多いと思います。
 このように会議の目的を考えていくと,目的に反するような態度の参加者がいると,会議の目標達成がうまくいかないことになります。例えば報告された事項(報告されるという位置づけから,その会議自体は報告内容を再吟味する立場にないことは明らかです)に対して,さらなる説明を求めることはよいのでしょうが,それを一から議論し直そうとするような発言は目標から逸脱していると考えてよいでしょう。また議論が必要とされる会議で,参加者の発言を報告のように受け取っているだけでは問題でしょう。会議に参加する個人の視点からすると,このような会議の目的を察知し,目的達成に向けた態度をとることが,会議自体をより実りあるものにすると考えられます。
 しかし会議が個別の目的を持つとなると,逆に言えば一つの会議が何から何まで審議・検討・採決するという性質は持たないことになります。そうであれば,会議間の連携をうまくとるということが,組織を円滑に効率的に動かすために必要となります。ある程度の組織になると,実質的な議論は下部組織(例えば,各種委員会など)で議論されており,その結果を踏まえてどうするかを決める上部組織があるという形をとるでしょう。もしかすると,組織を円滑に動かすためには,一つひとつの会議よりも,会議をいかに配置し権限を定めるかという操作の方が重要なのかもしれません。
 このようなことは,就職してからはじめてわかったことです。小学校の時でも,生徒会役員とか,学級委員とか図書委員とか,いろいろな会議(委員会)が設置されています。個人的には,これをしっかり利用して教育してほしいと思います。「人の意見は最後まで聞きましょう」といったことだけでなく,会議・委員会構成や権限の確認,提案や審議,差し戻しなどといった意思決定の流れが学校の中でシミュレートできたならば,社会に出てから非常に役立つと思うのですが。

 問いから,かなり逸脱してしまいました。でも,人の揚げ足をとるようなことは避けるとか,やじは飛ばさないとか,議論の相手を逃げ場の無いところに追い込まないとか,議論が元になって生じる人間関係上の問題まで踏み込むのはヤボだし。問い自体が悪かったかな…反省。