教員essay

【21世紀における日本オーストラリアが共有する課題について】


今までの日豪関係を参考に
 さて、オーストラリアと日本の関係を参考にして当今の課題を考えたいと思います。オーストラリアと日本の間の関係は、今は大変良好だと思います。しかし昔からそうだったわけではありません。特に終戦後の最初の四半期、日本に対するオーストラリアの反感は非常に深いものでした。おそらく連合側ではオーストラリアがもっとも深い反感および恐怖感を持っていたかもしれません。マッカーサー大将の指揮の下で米国が日本に対して比較的に温厚な政策を実施したときにオーストラリアの世論はそれに強く反対し、日本国民は「容赦なく処遇される」ことをむしろ求めました(※1)。
  また、サンフランシスコ条約で、米国が比較的に温厚の待遇を進めていたことにオーストラリアが猛反対しました。オーストラリアと米国の間の安保条約はANZUS条約いいますが、この条約が締結されたのはサンフランシスコ条約より一週間前の1951年9月1日でした。それは、オーストラリアが日本の再軍備化を恐れ、米国の温厚な路線に同意する条件として日本が再軍備化し再びオーストラリアにとって脅威になった場合、米国がオーストラリアを擁護してくれるという保障を要求していたからです。ANZUS条約はその保障のために締結された条約です(※2)。その後の冷戦でANZUS条約が対ソ対中条約として意識されるようになりましたが、少なくともオーストラリアの立場からは、当初は対日条約でした。
  米国は逆にANZUS条約に日本を含めたかったのですが、言うまでもなくオーストラリアはそれを拒否しました(※3)。米国の目論見は日本を共産圏から守ると同時に、国際関係における軍事的な義務を日本に負わせることによって日本の再軍備化を妨げる平和憲法の問題を「解決」することだったそうです(※4)が、これはまさにオーストラリアが恐れていた日本の再軍備化を意味するものになってしまいます。
  日本とオーストラリアの関係はその時と比べてまったく変わってきていることは言うまでもありません。オーストラリアでは、戦争のこと、捕虜扱いの問題等を今も意識している人は少なくありませんが、一般に日本に対する見方はまったく変わってきています。政治及び外交のレベルや経済関係のレベルだけではなく、留学や観光、ワーキングホリデーなどの次元でもオーストラリアと日本の関係が常に深くなってきています。私自身が一番意識するのは個人のレベルの関係です。もちろん、自分自身の経験があります。私は1973年に来日しました。日本人に対して持っていたイメージは排他的で、残酷で、感情を表に出さない、本当に何を考えているわからない民族だということでした。そのような先入観を持って、羽田空港に到着し、なぜか記憶にないのですが、宿泊先のホテルに行くのに空港のシャトルバスではなく普通の路線バスに乗り、生まれて始めて日本人を観察するチャンスを与えられました。夜の九時ごろでした。疲れた顔で仕事の帰りの人や楽しそうにデートに出ている若者などがいました。顔を見れば大体何を感じているか全員に対してわかると思いました。排他的な面も残酷な面もまったく見えなく、普通の人間のように見えました。そして、自分の先入観は間違っていたとそのバスの中で納得しました。私はオーストラリアの田舎の小さな農村で育ち、その農村には日本軍の捕虜になった元兵隊がいました。私が持っていた偏見や恐怖感がオーストラリア人にしても強かったのではないかと思います。「強かった」というより単純だったかもしれません。とにかくあまりにも極端だったから現実とそぐわないと証明されやすいものだったと思います。
  日本における長い生活から、私が一番得たものが到着の時、そのバスの中ですでに芽生え始めていたように思います。それは、私は文化、民族、言語、宗教などのすべての違いを超えて、すべての人間の共有の何かに少し触れることができたと思います。そして言語、文化などの違いを超えて人間の間に相互理解、仲間意識、信頼、友情が可能だということを体験してきました。実際オーストラリア人と日本人の間にそれを体験している人々は多いと思います。私は国と国の間のつながりには個人個人の間のつながりが重要だと考えて、自分にできる範囲内でそれを奨励してきました。日本における友人とオーストラリアの家族や友人を合わせたり、あるいは学生のためのホームステイを用意したりしてきました。南山大学の学生のためにホームステイプログラムにもかかわってきています。
  あるとき、まったく偶然なことで、メルボルンで南山大学の学生のホームステイ先の人に会いました。学生が泊まった家庭のおじいさんでした。そのおじいさんは私がホームステイのプログラムに係わっているとわかったら、涙で目を潤し、日本の学生が泊まったことで自分が戦争以来持っていたわだかまりが吹っ切れて、日本への反感を乗り越えることができたと述べました。そのレベルの和解は国家間の和解にとっても大変重要な側面だと思います。
  個人のレベルの友人関係はもちろん平和の保障にはなりません。深い友人関係があっても戦争が起こることはあります。日本の歴史に、大久保利通と西郷隆盛が対決した西南戦争はその著名な例です。人間の社会はこのボタンを押せばこういう結果が出るという機械的なものではありません。特定の対策によって平和が必ずくるというものではありません。しかし個人のレベルの交流、相互理解、和解、友情などが国家間や民族間のよい関係を助長するのだということは確かに言えると思います。
  当今、世界において、不信感や恐怖感が高まり、民族や文化圏の間の違和感は高まっています。イスラム圏、特に原理主義のイスラム、北朝鮮、反日感情が高まっている中国に対して、やはり警戒心を持つ人は少なくありません。さて、オーストラリアと日本が経験してきた関係の変化に鑑みて現在の状況を考えたいと思います。
  戦後オーストラリアでは反日感情が他の連合国より強かったことをすでに述べましたが、それはオーストラリアがかなり前からアジアに対する恐怖感を抱いてきていたことに由来し、その恐怖感は、オーストラリアの人口が非常に少なく、大陸が非常に大きく、しかもすぐ北に人口密度の多いアジアがあることに由来します。オーストラリア人はずっと無防備な感じを抱いてきました。アジアからいつか侵略されるのではないかと考えられてきました。オーストラリア人には、そのような恐怖感の特別に強い人とあまりそれが強くない人は当然にいますし、強い時期と弱い時期もありますが、オーストラリアの社会の底流にはその恐怖感が多かれ少なかれ常に存続するといっても過言ではないと思います。第二次世界大戦のときにその脅威が現実のものとなり、米国の手助けでやっとの思いで国が守られたというのが、太平洋戦争に関するかなりの数のオーストラリア人が持ってきた観念です。ですから、他の連合軍の国がもうソ連のことを心配しているときに、オーストラリアは日本のことをまだ懸念していたのです。
  国の防衛対策としてどのような脅威があるか想定してその脅威に備える政策を求めることがごく普通のやり方でしょう。脅威に対する対策は基本的に軍備もしくは強い国との連合の二つがあります。1951年にオーストラリアは日本が脅威だと想定して、オーストラリアには自力で防衛できる力はないと判断して、米国との条約を求めました。それ以前から、オーストラリアはアジアに対する恐怖感のため、イギリスの力に頼らなければならないと考えて、ボーア戦争の時代から第二次世界大戦までイギリスの戦争にかならず派兵してきました。そして戦後は同じく米国の戦争に派兵してきています。それはもちろん、オーストラリアが侵略された場合にその強い国の保護を得るための対策です。
  そこで問題になるのは、その脅威を想定しているのがどこまで現実をつかんでいるかということです。もしオーストラリアが本当にアジアから侵略される心配がなかったならば、かなり無駄な派兵をしてきたことになります。脅威を想定して、その脅威に備えるという対策はリアリズムとよく言われますが、とにかく1951年のANZUS条約とサンフランシスコ条約の場合は、日本の再軍備化と日本による新たな攻撃に備えなければならないという考えは決して現実的ではなかったことは歴史がもはや証明しています。リアリズムのつもりでいることは必ず現実をつかんでいると限らないということです。
  最近では、国際問題が生じるとき、ミュンヘンの融和対策の失敗が引き合いに出されて、ミュンヘンではヒトラーに譲るのが失敗だったことが独裁者に譲ることは失敗に終わる証拠として理解されています。サダム・フセインに対してよく言われたことです。確かに、歴史の教訓を学ぶことは大切ですが、ミュンヘン会議に出席したチェンバレン等が融和対策を選んだのも、彼らなりに歴史の教訓を学んでいたからです。つまり、彼らは1914年の七月危機のことを参考にしていたのです。七月危機というのは、オーストリアの皇太子が暗殺されてから第一次世界大戦が実際に勃発するまでのことですが、他の国を脅威としてみて、強い姿勢を採ってその脅威を抑えようとし、その強い姿勢が他の国に脅威として映り、その国も強い姿勢に出るという連鎖反応から戦争が起きてしまったということです。ミュンヘンでは、その二の舞になってはいけないと思って融和対策を採ったのです。
  現在の私たちはミュンヘンの失敗の教訓を学んで、七月危機の失敗の教訓を忘れてしまう可能性があるように思います。そうなると、七月危機の失敗を繰り返してしまう可能性があるように思います。むしろ、ミュンヘンをも七月危機をも、その他の歴史の教訓をもできるだけ包括的に参考にする必要があります。
  最近、半日暴動が中国で起こりました。その時、日本では、緊張感が国中に走りました。日本が対象で暴動が起きたこと自体は、緊張感が起きるのは当然です。少なくとも最初のうちに警察がその暴動を抑えるよりむしろ奨励していたと伝えられていることと一般の中国人が日本に対する反感を抱いていることが明白になったことがその不安をいっそう強めたでしょう。中国での世論調査は中国人の六十数パーセントが反日感情を抱いていることを明確にしました。中国の政府は国内の問題から人々の目を背けさせるために日本を悪者として立てているとか、国内の統一のために「外敵」のように日本を立てているという批判は日本国内にありましたし、その批判はかなり的を射ているだろうと思います。一方では日本にとって、中国が日増しに重要な通商相手国となっていますし、現在経済的にも軍事的にも力を増してきている中国との良好な関係はすこぶる大切です。それほど重要な隣国において日本に対する反感が高まっていることを軽視することはできません。
  しかし、私にはもう一つのことが印象的でした。それは半日デモ行進や暴動の規模があまりにも小さかったということでした。参加者は大体1万、2万、多いときは3万人ぐらいでした。ベトナム戦争のときに私は米国の首都、ワシントンに住んでいて、反戦運動に加わっていました。私たちがそのころ反戦デモを催したときに、1万とか2万程度のデモを失敗としてみていました。その程度のデモでは国民の意識表示に全然なっていないと考えていました。ワシントン市だけのデモの場合は2万人を超えると少し説得力がある感じがしましたが、全国を対象にして呼びかけた場合は10万人を超えないとあまり説得力を感じませんでした。中国の人口がずっと多いということを考えるとその半日デモはとても規模の小さいものでした。反日感情があることは確かだし、暴動に参加して取締りを心配しなくてもいいという状態だったことを考えると、むしろどうして規模はそれほど小さかったか考える必要もあると思います。そしておそらく、多くの中国人にとって、経済の発展とこれからの平和が理由でしょうが、反日感情があっても、対立の道を望んでいないという可能性も大きいと思います。デモ行進が鎮圧されるようになったということはそのほうの考え方が優位になったと考えるべきでしょう。
  反日感情があること、警察の取締りがなかったこと、政府がもしかすると反日感情を奨励していたかもしれないことは確かに問題です。そういう問題を無視すべきではありません。しかし、包括的に状況を見つめて、不信感、警戒心、恐怖感だけではなく、相互理解と和解の可能性も念頭に入れた対策が必要です。
  和解の可能性はここ60年の日豪関係が証明していると思います。日豪関係がさらに証明していることは政府や外交及び経済のレベルだけでなく、一般の市民のレベルでの交流の有効性と必要性だと思います。アジア太平洋地域でそのレベルの交流を深めると平和と和解の成立に大きな貢献になると思います。
  最後に特別に日本人に呼びかけたいことがあります。ここに集まっている皆様はオーストラリアに関心があるからこそ集まっていますので釈迦に説法だと思いますが、それでも述べたいと思います。それを説明するためにまず、9月に南山大学で開催する予定の日豪合同ワークショップを準備するにあたって気づいたことを説明します。ワークショップのテーマは日豪両国の国際関係です。つまり日豪の関係に注目するワークショップではありません。むしろ、日本とオーストラリア両国の、米国との関係、アジアなどとのかかわり方を取り上げます。そういう方針から、日本からの参加者としてオーストラリアに関心のある人ではなく、またオーストラリアからの参加者として日本に関心のある人ではなく、両国からアジア、米国、国連との関係、あるいは平和、持続可能な開発などの観点から国際関係を取り上げる人たちを募集しました。参加者の講演のタイトルを出していただいたときに、日本側からの参加者が日本の関係だけに注目しているのに対して、オーストラリアの参加者全員はオーストラリアと日本両方の国際関係をテーマにしていることに気づきました。たぶんその理由は次のとおりだと思います。オーストラリアにとって日本との関係は大変重要です。日本は第一の通商相手国ですし、たぶん日本との戦争がオーストラリアの歴史においてもっとも大きな事件でしょう。したがって、オーストラリアで国際関係を取り上げる研究家は必ず日本のことを研究し、日本の国際関係に関しても、ある程度の見解を必ず持っているでしょう。しかし日本ではオーストラリアより米国、ヨーロッパ、アジアのほうがずっと大切で、日本の国際関係を研究する人は決してオーストラリアのことを優先的に取り挙げないでしょう。ですから、オーストラリアとの関係以外の基準で研究家を募集するとオーストラリアのことにも詳しい研究家が少ないということでしょう。しかし、今の世界において、特に国際関係では、日本と一番類似した立場にある国はオーストラリアです。ですから日本とオーストラリアの間に以前述べた課題について一緒に考えるということはとても大切だと思います。そういう課題に一緒に取り組むと互いの関係も深まるでしょう。そのためにもいっそう緊密な対話と交流を進めたいと思います。


※1. Christopher Thorne. The Issue of War: States, Societies, and the Far Eastern Conflict of 1941-1945. New York: Oxford University Press, 1985, P. 136.
※2. Alan Renouf. A Frightened Country. Melbourne: the Macmillan Company of Australia, 1979, p. 50-58.
※3. Alan Renouf. A Frightened Country. Melbourne: the Macmillan Company of Australia, 1979, p. 98.
※4. Alan Renouf. A Frightened Country. Melbourne: the Macmillan Company of Australia, 1979, p. 65, 95.



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