以下の文章は、1984年1月発行の、神言神学院報『ガブリエル』61号に、掲載されたものである。
私が23歳の時に書いた文章。私は神学院のオルガン係のひとりであった。お見せするのは非常に恥ずかしいのだが、私がこれまで書いた文章の中で、これほど人に読んでもらえたものは他に無いので、出すことにした。「ぐうたら〜」という表題は、当時好んで読んでいた遠藤周作氏の「ぐうたらシリーズ」にあやかったものである。ところで、この『ガブリエル』という雑誌は、ナント、権威ある南山大学のメイン図書館にしっかりと収められていることをご存知か?研究資料として(何の研究かわからんが)使うことも可能ですぞ。




ぐうたらオルガン入門



 教会オルガニストを志望する人、あるいは、なりたての若い紳士淑女へ向けて、この文章は書かれた。オルガニストという仕事は見た目ほど楽な仕事ではないのであって、オルガン当番に当った日には、その祭儀中のあらゆるハプニングにも動じず、聖歌隊の冷たい視線にも耐えぬき、朝のまだ開ききっていない目をこすりつつも、その役目を最後まで手際よくやり通さねばならない。途中でもし腹が痛くてたまらなくなったとしても、正露丸をのみつつ、青白い顔をしてまで頑張らなくてはならないのだ。今回、私はこのオルガニストというハードな仕事を志す奇特な青年たちへ、先輩として、僅かばかりの助言を述べ、その健闘を祈りたいと思うのである。


助言その1  『オルガニストは常にクールでなければならない』

 聖歌の伴奏にしろ、間奏にしろ、オルガンの響きというものは、祭儀全体の雰囲気を決定づけるのに大きな役割を果たすものである。故に、オルガニストたる者は、常に冷静に状況を見つめ、真剣にその任務にとりくむべきである。日常はどんなにひょうきんであったとしても、ひとたびオルガンの前に座ったが最後、友人が冗談を言おうが、子供たちがやってきてにらめっこをしょうが、全く相手にせず、眼光は鋭くなり、口もきかない、というような姿勢が望ましい。聖歌隊の女の子などが「次はこの曲を歌いまーす」とやって来ても、「へっへえ、わかりやしたー」などと軽々しく答えてはいけない。にこりともせず、ただひたすらしぶく、「うむ」と首肯くのが良い。伴奏中、音を間違えても、あわててはいけない。オルガニストの中には、音をはずすや否やたちまち狼狽し、露骨に鍵を押しなおして、てれ笑いをするというような醜態をさらす人がいるが、それは真似すべきではない。音を間違えたら、かえって十分にその音を響かせ、必要ならばもう一つ別の音もわざとはずしたりして、それからおもむろに正しい音に移る。動揺を顔に出してはいけない。それによって会衆は、「ああ、これは新しい趣向なのだな」と納得するであろう。しかし、これはもうごまかせない、というような完全なミスを犯してしまった場合はどうするか。その時にも諸君は、絶対に聖歌隊あるいは会衆の方へ顔を向けてはいけない。むしろ、そのオルガンの足元の方をのぞきこむのがよい
(#1)。そしてやや首をかしげ、にが笑いを少しもらして、小さな声で、「ふふ…、オレとしたことが…」とつぶやこう。


助言その2  『常に余裕しゃくしゃくとして弾くべし』

 オルガニストはその役割上、聖歌隊および会衆からの絶対的信頼を得るよう努めねばならない。そのために、どんなに練習不足で不安な曲であろうとも、「やろうと思えば足でだって弾けるわい」といわんばかりの余裕たっぷり性を見せて弾くようにしたい。オルガン当番に当った日には、バッハか何かのとてつもなく難しい曲の楽譜を必ず携えていき、椅子の上にひろげて置いておくぐらいの気くばりもほしい。もちろん、その曲を弾く必要はない。なにか間奏を弾かねはならなくなった時には、その楽譜をちらっと見て、「…ちょっと…長すぎるなあ…」とやや大きな声で独り言を言い、別のものを捜せばよい。演奏中にも、その余裕ある態度を決してくずすことのないように気をつける。典礼聖歌の詩へんのところなどでは、すかさず目を閉じて上体をややそらし、芸術的陶酔におちいるようにしよう
(#2)。ただし、やり過ぎはもちろん良くない。また、ある曲の中で、あまりに難しくて到底弾けそうにない箇所がある場合は次の方法が効果的である。つまり、その箇所に来たら、静かに左手をはずして、右手だけでメロディーの部分を簡単にたどる。左手はどうするのかと言うと、楽譜の傾きを直したりとか、音色を少し調節したりとかいった、いかにも必要でありそうな作業に用いるわけである。そしてその箇所が過ぎたら、何食わぬ顔でまた左手をもとにもどして、両手で弾きだす。落ちついた態度で事にのぞめば、何も恐れる事はない。


助言その3  『いかなる事があろうとも弾きつづけるべし』

 オルガニストはその任務を、責任をもって最後までやり遂げねばならない。夏季などは、蚊とか蜂とかが、卑劣にも、全く抵抗の出来ない演奏中をねらって、さかんに食いついてくるものだが、そんな奴らに負けてはいけない。演奏中に、すばやく片手でキンチョールを噴射できる自信のない人は、せめて虫よけスプレーを常備しておこう。また、演奏中に、突然、楽譜が風に飛ばされてしまうことが時々ある。そんな時も、決して手をはなして拾いに行ったりしてはいけない。たとえ暗譜していなくて、多少音が合わなくなってしまったとしても、なんとか弾き続けるべきである。たいていは5秒以内に誰かが拾って、もとに戻してくれる。音の少しずれた5秒間などたいして問題にならないが、空白の5秒間というのは実に長く、また重大に感じられるものである。そういえば以前、私が足ぶみオルガンを弾いていた時、何かのはずみで、ふたがバタンと閉まってしまった事があった。このてのオルガンを弾く人は、手の甲にプロテクターをはめておいたほうが良いかも知れない。


助言その4  『日々、研鑚(けんさん)にはげむべし』

 いやしくもオルガニストは、そのオルガンの演奏をもって神をたたえ、会衆と共に祈りをささげるのであるから、常に最高の状態で本番にのぞみ、心をこめて弾く事が出来るよう、日々、練習をおこたってはならない。ところで練習法にはさまざまなものがあるが、効果的でかつ実用的な方法として、ある曲のあらゆるミスしそうな箇所における、そのごまかし方を研究するという方法がある。これを名付けて「非常事態想定法」という。つまり、考えうる限りのあらゆるミスの可能性を想定して、その各々の場合に即した、絶妙なごまかし方を前もって研究しておく。それはその曲に関するかぎり、絶対安心の自信を私たちに与えてくれるであろう。しかし、本番では、不思議とそういう曲にかぎってミスをしないものであるから、逆に少しもの足りなく思って、ちょっとミスしてみょうかなどと考え出す人が出てくるかも知れない。また、祭儀の際中に次の曲の練習を、オルガンの音を消して、やっている人をよく見かけるが、先程の余裕顕示の原則からも、真似すべきではない。それよりむしろ、練習は別の時にたっぷりとやっておき、本番はその直前に、つまり先唱者が番号を言った後に、あるいは何か弾いてくれと言われてから、あたかも今、生まれて初めて開きましたと言わんばかりに楽譜を開いて、みごとに弾きぬく、といったぐらいの芝居気がほしい。

 以上で私のろくでもない助言をやめる。私の言葉は、あまり真剣にうけとめない方が無難である。諸君の活躍に期待する。




★上の文章でちょっと分かりにくいかも知れない部分を、補足説明します。

(#1)これはつまり、あたかもオルガンの不調がミスの原因であるかのように見せかけるのである。

(#2)典礼聖歌の詩へんの部分の伴奏は、単なる和音ののばしであり、非常に楽な部分なのである。