中世哲学とトマス・アクィナス
長倉久子



以下の文章は関西大学哲学会平成13年度春季大会における長倉久子先生(南山大学元教授)の講演(平成13年7月14日 関西大学図書館3階ホール)「渡部菊郎先生と中世哲学研究」(『関西大学哲学』第21号1-25頁に掲載)からの抜粋である。


中世哲学とは何か

お手元にコピーを2枚お配りさせていただきましたが、一枚は中世哲学とはどういうものか、ということについてこれからお話しする内容の概略を示すもので、もう一枚はトマス・アクィナスとはどのような思想家であったか、ということをお話しするためにコピー致しましたトマスの肖像画でございます。

西洋と東洋

ところで中世哲学と申しましたが、もちろん、ここでは西洋の中世哲学のことでございます。そこで、まず西洋と東洋という言葉について、私たちは何気なくこの言葉を使っておりますが、実は地理的にどこに西洋と東洋の境界線を置くかという難しい問題がございます。西洋というのはラテン語でオクシデンス、東洋はオリエンスと言います。そこからオクシデンタル、オリエンタルという言葉が出て参りますが、オクシデンスというのは沈む、落ちるという意味で太陽が沈む方向を指しております。それからオリエンスは太陽が昇る方向を指しております。これはヨーロッパの人たちから見て太陽が沈む、また昇る方向を指しておおまかに言っているわけですが、どのあたりから西洋なのか、どのあたりから東洋なのかを地理的に区別しようとしますと、だいたいインドあたりが真ん中なのではないかと思います。日本人の私たちから見れば、インドは地理的には東洋であっても哲学的な発想からすれば西洋であるとも思われます。言葉もサンスクリット語、つまりインド・ヨーロッパ語族のものですから、インド哲学にはギリシァ哲学に近いものがあります。けれども私たちが扱う中世哲学の研究分野の中には今のところインドは含まれてはおりません。このように地理的なことを申しましたのは、後でお話しいたしますが、いわゆる中近東で生まれた哲学も西洋中世哲学にとって無縁ではなく、重要な一部分として扱われているからです。

「中世」という時代 

次に中世という時代区分を表す言葉がどのようして生まれてきたかということについてお話したいと思います。「中世」はラテン語でメディウム・アエヴムと言います。つまり真ん中の時代という名称ですが、この名称はルネッサンスの人々に由来します。14世紀を迎えると西欧ではルネッサンスが始まり、ヒューマニストの運動が興りました。ヒューマニストと言うのは人文主義者とも人間中心主義者とも訳されますが、その彼らが古代ギリシァ・ローマを理想として考え、人間性を謳歌し豊かに表現した古代とその文化を復興した「現代」、つまり14世紀との間の時代を中世と呼んだわけです。そして彼らは、古代ギリシァは人間性の豊かな明るい時代であった、また今の文芸復興の時代も明るいものである、それに反してその真ん中の時代、つまりメディウム・アエヴムというのは野蛮不毛で、文化的には何にも無い時代である、と言いまして、中世を暗黒時代と言い表していたわけです。そしてこの歴史観が19世紀の初頭まで続きました。

ところが、中世には見るべきものは何も無いのだ、野蛮な人たちが動き回っていた時代だと見捨てていた、この歴史観が19世紀の初頭になって変わって参ります。それはドイツやフランスを中心にロマン主義の運動が興ったためでありました。ロマン主義の思想家達、例えばドイツではフリ−ドリッヒ・シュレーゲル(1772−1829)、フランスではシャト−ブリアン(1768―1848)などを中心としてロマン主義運動が興ったのですが、彼らはルネッサンスの人々とは逆に中世というものを理想としたわけです。そして中世のほうがむしろ光輝く時代、光明の時代であるとして、今まで見向きもしなかった中世のロマネスクの教会堂やゴチックの教会堂、音楽や絵画、文学など、そういうものに目を向けて再評価をしていく、という潮流が生まれて参りました。偏見を捨てて中世をもう一度新しい目で見直そうとしたわけですが、それはどういうことだったかと考えてみますと、ちょうど私たちが今置かれている時代状況がそれに似ていると思います。日本はこの100年間一所懸命に近代化を推し進めてきましたが、それ以前は封建時代で 非常に暗い時代であったと、そういうふうに考えてきました。そこで以前あったものは全て無価値なものとして否定し、新しい時代を推進しようと精出してきたのですが、気がついてみると近代もそんなに理想化できない、そしてこの近代化の過程で私たちが忘れてきた大切なものがあるのではないか、という反省が起ってきました。こうした反省に立って今近代思想を振り返り、同時に近代以前の時代を見直してみようという気運が高まっています。ちょうど同じように、ルネッサンスの人たちは自分たちの過去の時代を―実はルネッサンス直前の時代というのは中世の衰退期で、いろいろなものが硬直化していましたが、中世にも高揚した時代と衰退した時代があって、13世紀の終わりから14世紀初めというのはいろいろな意味で行き詰まった閉塞感のある時代でした―直前の時代状況から判断して、中世というのは暗黒時代である、顧みるべきものは何もなかったのだ、ということで切り捨てて、新しい道を追求していったのです。ところが19世紀になりますとそれも少し行き詰まり、それでまた今度は中世に理想の世界を見いだそうとしたわけです。それはちょうど今の日本の置かれている状況と似ているのではないかと思います。歴史と言うものは、とどのつまり、そのようなものかもしれません。

ところで、中世というのは非常に長い時代で、実はどこからどこまでを中世と考えるかということにはさまざまな説があり、なかなか決められません。そこでア・クオ、つまり始まりをどこに置くか、出発点は何年なのかということになりますと、最も早い説で324年か325年、コンスタンティヌス大帝がリキニウスに対して決定的な勝利をおさめた年になります。もうひとつは375年、民族大移動によって古代ローマ帝国が揺すぶられ、ローマがゲルマン民族に押さえられていった、その民族大移動の始まりの年と考える人もいます。それから395年。これはローマ帝国が東西に分裂した年ですが、その年を中世の始まりと考える人もいます。それから476年。これはゲルマン民族によって西ローマ帝国が滅亡した年です。それから更に600年代を考える人もいます。これは教皇グレゴリウス・マグヌス(在位590−604)の時代で、その時代を中世の始まりとしています。それから9世紀のカール大帝(シャルル・マ−ニュ)の宮廷時代、つまり800年にカール大帝がローマ皇帝として戴冠した年を区切りとしてカロリング朝の時代を中世の始まりであるという人たちもいます。このように中世の始まりについて様々な説がありますが、終わり(アド・クエム)に関しても様々な説がございます。先ず、だいたい14世紀の、先ほど申しましたルネッサンスの始まりをもって中世の終わりとする説があります。それから1492年。これはコロンブスがアメリカ大陸を発見した年ですが、ここから新しい世界が開かれてきた年です。それからもう一つは1517年。これはマルチン・ルターが宗教改革の宣言をした年で、これをもって中世の終わりとする、そういう説もございます。

「中世哲学」の「発見」 

こうした始めと終わりの区切り方は中世の歴史一般に関するものですが、それでは哲学史の中で中世哲学をどのように考えたらよいのかということになりますと、この一般の歴史的な区分と中世哲学の歴史的な区分とは必ずしも一致しないわけです。そこで、中世哲学としての纏まりをどのように考えていったらよいのかということで、様々な議論が起こりました。

ところで、先ほど、19世紀になってドイツやフランスを中心にロマン主義の思想家たちによってそれまで無視されていた中世が見直され始めた、と申しましたが、この見直しは、哲学の分野にも及びました。実際、それ以前には哲学として中世には顧みるべきものは何も無いということで−日本ではこの見方が少し前までかなり支配的で、西洋哲学史では中世を飛ばして古代から近世に行ってしまうことが多々ありました−無視されていた中世思想に対して、ドイツやフランスで関心を寄せ始めてまいります。例えばヴィクトル・クーザンとかバルテレミー・オレオーなどの哲学史家が中世の哲学を取上げて、その哲学にはキリスト教の影響が強いのが欠点であるが、しかし、哲学として興味のないものではない,と言います。このように中世の哲学に関心を寄せ始めたとはいえ、19世紀の前半には、中世哲学は哲学であると言ってもキリスト教の教会が支配し監視をしていた時代の哲学で、教会の権威に守られていたのであるから自由な哲学ではなかった、という評価がございました。

ところが19世紀も終わりに近づきますと、違った視点から中世哲学研究が始まります。中世の哲学は、はたしてこれまで考えられてきたようなものなのだろうか、中世にも哲学的に興味深いものがあったのではないか、とそれまでの歴史観に対して疑問を持った哲学史家たちが強い関心を持ち始めました。それには二つのグループがあります。一つはカトリックの神学者たちで、彼らは正統的な神学の立場に立ちながらも、神学を歴史的に捉えてその変化の相を見ようとしました。もう一つはキリスト教と関係のない合理主義的な思想家たちで、いわゆる宗教や信仰には無関心な哲学史家たちが興味を持ち始めました。20世紀に入りますと「キリスト教哲学論争」というものが始まります。それはどういうものかと申しますと、先程述べましたように19世紀の哲学史家たちは、キリスト教の教会が非常に力を持っていた中世の時代には、教会に守られそして他方では監視されて自由な哲学はできなかった、だから、そこにあるのはキリスト教思想であって哲学ではなかった、と考えていたわけです。

ところで、「キリスト教哲学」という表現には、実はかなり古い歴史がありました。実質的には、哲学者たちが真理の探究の果てにキリスト教に行き着いたということがキリスト教の初期には多々あり−と言いますのも、このヘレニズムの時代には、哲学つまり知恵への愛は純理論的というよりもむしろ道徳的宗教的色彩を帯び、生きる上での拠りどころとなっていたからです−彼らのおかげでキリスト教が思想的基盤を得て、思想として発展してきたのです。そうしたわけで、「キリスト教哲学」の伝統が生まれたのですが、次第に教義が確立してくるにつれて、また信者の拠りどころとして教会が大きな力を得てくるに従って、事情が変わってきます。後でお話ししますトマス・アクィナスの時代になりますと、学問としての神学と学問としての哲学との対立も生じてきます。詳しいことは今日お話できませんが、哲学と宗教ないし神学、理性と信仰あるいは啓示、という問題が古くからありました。これらの二つの異なるものの関係が問われたわけです。そして、これら二つが原理的に区別されますと、二つの原理的に異なるものを一つにした「キリスト教哲学」というものは果たしてあるのだろうか、という疑問が起こったわけです。

論争は1928年にエミール・ブレイエという哲学史家が「キリスト教哲学は存在するか」と題した講演をブリュッセルの学会でしたことから始まりました。ブレイエはそこで、キリスト教思想はキリスト教のドグマと一致するものでそれは哲学ではなく神学にすぎない、そして、哲学的に思索するときには信仰とは関係なくするのであって、キリスト教の啓示に基づいてするのではない、トマスも哲学者としてはアリストテレスに依拠したのであり、したがって、「キリスト教哲学」は未だかつて存在したこともなければまた存在することもできない、というようなことを言いました。つまり、「キリスト教」と「哲学」の二つを一つにすることは矛盾している、形容矛盾である、ちょうど、数学は数学であってキリスト教数学などありえないように、哲学は哲学であってキリスト教哲学などありえない、と主張したのです。それに対してジルソンという非常に有名な哲学史家で中世哲学に関しては一番大きな仕事をした方が1931年にフランス哲学会で反論いたしました。つまり、哲学は数学や物理学などと違って、その営みは人格全体に関わるものであり、思索の原理や方法が純粋に理性の営みによるものであるならば、そこには哲学の営みがある、そして、その哲学体系がキリスト教の存在なしには説明できないとすれば、それは確かに「キリスト教哲学」である、と言いました。これを切っ掛けに、この年、フランスの哲学界では、著名な哲学者・思想家たちがこの問題をめぐって大いに論争をいたしました。そして、今では大体のところ、ジルソンの主張は認められていると思われます。こうして、1955年、ジルソンは堂々と『中世におけるキリスト教哲学の歴史』という大部の書を公刊いたしました。

「中世哲学」の射程 

ところが、それではキリスト教哲学が中世哲学なのかといいますと、そうとも言えないのです。先ほど申しましたように、最初キリスト教の正統的な神学者たちが中世に注目し研究を始めましたので、始めはキリスト教哲学に対する関心が強かったわけですが、だんだん研究が進んでまいりますと、キリスト教だけでは中世は理解できないということになりました。しかもキリスト教哲学といっても最初のうちは西欧のラテン・キリスト教の研究がほとんどだったのですが、キリスト教思想には東欧のギリシア語圏のキリスト教思想もございます。こうしたビザンツの思想も視野に入ってまいりました。それから、アラビア哲学とユダヤ哲学が中世哲学の重要な分野として研究の対象となってまいります。

アラビア哲学といいますのはイスラム教の中から生まれた哲学ですが、イスラム教はムハンマド(c.570−632)を創始者として7世紀からアラビア半島を出発点に非常な勢力を得て地中海一帯にまで広がって参りました。ところが,もともとイスラム教は宗教であって哲学ではございません。その中から西欧に大きな影響を与えることになる哲学が生まれたというのはどういうわけかと申しますと、それには歴史的な理由がありました.先ほど中世の出発点をどこに置くかという話しで、いくつかの区切となる年をあげましたが、それらが示しているのは、一方ではローマ帝国が分裂して衰退していく過程であり、他方ではキリスト教がローマ帝国に広がっていく過程であります。そしてキリスト教が広がっていくなかで皇帝もキリスト教に改宗して行くわけですが、529年、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスが異教的活動を禁止して、プラトンが創設したアカデメイア学園を異教の哲学を教えるものとしてこれを閉鎖しました。そのためにギリシア哲学の伝統はローマ帝国内ではほとんど途絶えることになります。一方,ギリシア哲学の研究者たちはペルシャの方へ退去して、そこでギリシア哲学の研究が受け継がれていくわけです。そしてアラビア半島でイスラムが出て参りました時にはプラトンの伝統を引く哲学とともにアリストテレスの著作が研究されておりました。その研究をもとにアラビア哲学が発展して来たわけです。お手元のプリントには一番有名なアヴィセンナとアヴェロエスの二人の名前を出しておきましたが―ヨーロッパでどうしてそのように呼ばれるようになったのか分からないのですが、アラブの方ではそれぞれイブン・シーナとイブン・ルシユドと呼ばれています―この二人ほかにもアル・キンディー,アル・ファーラービー、アル・ガザ―リーなどたくさんの哲学者が輩出いたしました。そして、たくさんのひとがアリストテレスを研究していたのですが、そこには底流としてヨーロッパと同じく新プラトン主義が大きな力を持っておりました。そのためにアリストテレスの解釈には新プラトン主義的な傾向が色濃くありました。このアラビア哲学は、西欧の思想界に大きな影響を与えるのですが、しかし、中世哲学にとって重要な役割を果たす思想はアヴェロエスの亡くなった12世紀末までとされています。

次に,ユダヤ教の中から生まれたユダヤ哲学ですが、ユダヤ教は非常に古い歴史を持っております。ユダヤの宗教思想は旧約聖書という形で伝えられて来たのですが、哲学との接触がアレクサンドリアで旧約聖書がギリシア語に訳された紀元前3世紀あたりからございました。その結果として、ギリシア哲学の、特にプラトンの影響を深く受けて旧約聖書を解釈した人にイエスと同時代の人と言われるアレクサンドリアのフィロンという人がおります。この人はユダヤ思想の基礎を築いた人と言われています。けれども、中世哲学にとって影響があった哲学として見ますと、ユダヤ哲学はだいたいアラビア哲学と同じ時期に始まって、アラビア哲学よりも少し長く15世紀くらいまでの伝統があると考えられます。お手元のプリントには主だった人の名前をひとり、モーゼス・マイモニデスを挙げておきました。

さてキリスト教哲学ですが、それは先ほど申しましたように西方ラテン哲学と東方ビザンチン哲学がございます。それと言いますのは、395年にローマ帝国が西と東に分裂いたしますが、それ以前、3世紀くらいまでは地中海地方はヘレニズムの時代でギリシア語が話されておりました。ところが4世紀を境にイタリア半島から西側ではラテン語が話されるようになり、やがてローマ帝国はふたつに分かれて東側は東ローマ帝国に、そして西側は西ローマ帝国になります。そこで、キリスト教哲学の始まりはどこに置くかの問題なのですが、だいたいキリスト教が誕生してそれを思想の形で表現し始めた初期のころ―これを教父時代と呼びます−からという考えが先ずあります。更には,西方キリスト教としては、カール大帝(シャルル・マーニュ)の文化政策によって文化が花開いたカロリンガ・ルネッサンスの時代を中世思想の始まりと考える人もいます。そして,終わりは新しい思想運動が興ったルネッサンスまで、或いは16世紀ころまでを考える人もいます。一方、東方キリスト教思想の方は、コンスタンチノープルが陥落した1453年をもって終わりと考えられています。

以上で中世哲学を構成する宗教的に異なるグループの歴史的背景を見たのですが、次にこれらの哲学的伝統を地理的・言語的視点からも見てみたいと思います。
先ずアラビア哲学といいますのは、ひとかたまりにして言えばアラビア語で書かれたものが中心になりますが、その他にシリア語で書かれたものもございますし、それからペルシャ語で書かれたものもございます。それらは当時地中海地方一帯に広がっていたイスラム教国において生まれた哲学思想ということになります。それからユダヤ教ですが、ユダヤ人というのはご承知のように流浪の民で、ヨーロッパの各地や地中海一帯に散らばっておりました。イスラム教国に住んでいたユダヤ人もあれば、キリスト教国に住んでいたユダヤ人もいたわけです。そして、彼らは、自らの思想を書き表すにあたって、居住する国の言葉を用いることもあれば,民族の言葉であるヘブライ語を用いることもありました。最後にキリスト教哲学ですが、これには西方ラテン哲学と東方ギリシア哲学とがあり、もともとローマ帝国が領土的にも言語的にも二分されたことから生じたことだと先ほど申しました。この政治的な分裂が宗教にも影響してキリスト教が東西の教会に分かれ、その結果、前者はローマ・カトリック教会に,後者はギリシア正教会に属するということになりました。

さて、こうした四つの伝統を一つにして西洋中世哲学とするわけですが、それは、これらの間に密接な繋がり・交流があり、私たちが今日考えるようなキリスト教とユダヤ教とイスラム教が拮抗して激しく憎みあっているといったような構図はその当時にはあまりなかった、ということです。イスラム教国は当時の先進国でそこでは学術文化が咲き誇っておりました。私たちは中世と言うと直に十字軍を思い出すのですが、確かにそのような時代もあったのですが、全体として見ますとイスラム教徒もユダヤ教徒もキリスト教徒も平和共存し、しかもお互いに思想的に認めあい関係しあっていました。そして、それぞれの宗教思想を支えている哲学思想になりますと、そこには同じ哲学思想の流れがありました。その流れのひとつは先ほど申しました新プラトン主義の流れであり、それは早くから広く全体に行き渡っておりました。それから、もうひとつの流れはアリストテレスですが、このアリストテレスはラテン世界では長い間論理学の一部分しか知られていませんでした。その全体像が知られてくるのは12世紀からで遅いのですが、しかし、12世紀からは非常に重要な役割を演じていきます。ところで,つい先ほど、それぞれの宗教と言ったのですが,実は,周知のように、これらの三つの宗教は同じ一つの根から生じてきたものです。つまり旧約聖書がもとになっている宗教で、唯一神を立て、その唯一の神によって啓示された宗教であると信じている、そういう信仰を持った思想の纏まりとして私たちは考えています。そして、中世哲学の研究分野を見ますと、先ほど申しましたように、最初のうちはキリスト教徒の哲学史家たちが開拓したために、キリスト教哲学−特に西方のラテン哲学−の研究が主要な部分を占めていて、しかも、形而上学的な問題が多く取上げられていました。それから次第にユダヤ哲学やアラブ哲学の研究がでてきまして、形而上学だけでなく認識論や論理学,そして科学哲学−当時は自然学と呼びましたが−の研究も盛んになってまいりました。そして最近では、言語哲学の面で中世哲学に大きな関心が寄せられています。それと言いますのも、中世には言語に対する研究が盛んになされたからです。実際、トマスの『神学大全』など読みますと、至るところで言語哲学に出会うとさえ言えるほどです。更に付け加えて申しますと、国際中世哲学会という学会では、20年くらい前からでしょうか、世界的に視野を広げてということで、東洋と西洋の中世哲学の比較研究をひとつのセッションのテーマに掲げました。けれども、これはまだうまくいかないようです。

トマス・アクィナスの人物像

ところで、渡部先生は最初に現代哲学のハイデガーを学び、それから中世に移られて先ずアウグスティヌスをなさり、そしてエックハルトについてご研究になられたのですが、アウグスティヌスは4世紀から5世紀の人(354―430)で、エックハルトは13世紀から14世紀の人(c.1260―1329)、その間に13世紀のトマス・アクィナスという、中世の思想家の最高峰と考えられる人(1224/5―1274)がおります。これら3人はいずれも西方ラテン・キリスト教思想家ですが、渡部先生は主にトマス・アクィナスに集中して研究を続けておられました。それで、これからトマス・アクィナスについて少し紹介させていただきたいと思います。

トマスの時代 

お手元のコピーにあるトマス・アクィナスの肖像画をご覧ください。

Francesco Traini (1321-65)

これはトマスの時代の思想的背景とトマスが生涯を懸けてなしたことをよく表している象徴的な絵ですが、トマスの上部には,最上部にトマスを祝福するキリストがおり,その下にペテロとパウロ(或いはモーゼ)がいて、その両脇に四人の福音書記者がいます。トマスの左右にはプラトンとアリストテレスが立っています.そして、トマスの足下には、あの偉大なアラブの哲学者アヴェロエスが横になっております.また、その両脇に立つたくさんのドミニコ会士たちはトマスを仰ぎ見ています。トマス・アクィナスの時代と言いますと、西欧中世の盛期と言われます。西欧の隆盛は既に10世紀から始まっておりますが、この時代ヨーロッパは経済的に非常に豊かになって参りました。ヨーロッパの建設に力あった人として修道会を創立したベネディクトが有名ですが、実際、修道士たちは原野を開墾して農地を広げ学校を建てて熱心に教育し、写本を作り研究に励んで古代ギリシア・ローマの遺産や先人たちの文化遺産を守り、懸命に経済や文化の発展に貢献してきました。ところが、12世紀頃になりますと商業が非常に発達して参りまして、都市があちこちで復興し繁栄してきます。そうしますと、人々は豊かさの中で堕落するということも起こってまいりました。特に世俗主義に陥った修道士たちや聖職者たちも多く、彼らの間に弛緩堕落が生じました。その一方で、多くの民衆はまだまだ貧しかったのです。こうした状況の中で正義感の強い人々が、貧しい民衆のために立ち上りました。この世直し運動は特に北イタリアと南フランスで激しかったのですが、その中でもカタリ派と呼ばれる集団が大きくなりました。このカタリ派は善悪二元論に立って、カトリック教会は悪魔の教会であり自分たちの教会は善なる教会である、自分たちは清いものであって、カトリック教徒は堕落した悪なるものである、と主張しました。こうした二元論は分り易いために多くの人々が惹きつけられたわけです。これはカトリック教会にとって大きな危機となりました。この危機の中で、二人のカリスマ的な人物が現れました。一人はアッシジに生まれたフランシスコであり、もう一人はスペインに生まれたドミニコという人です。フランシスコの方は徹底して貧しい生活、無所有の生活を送り、彼に従う多くの人々が乞食・托鉢によって生きる集団となって世直し運動をカトリック教会の内部で進めていきました。他方、ドミニコの方は、民衆に正しいキリスト教の教えが伝えられていないことがカタリ派に人々が惹きつけられる原因であると考えました。実際、教会で説教をする司祭たちは大変怠惰で勉強不足でした。そこでドミニコは、神学をしっかり勉強して正しいキリスト教を伝えようという志をもち托鉢によって生計を立てる貧しい修道会を創立しました。

ところで、12世紀の中葉より西ヨーロッパの各地で大学が誕生します。そして次第に文化の担い手として大学が成長してまいります。そうしますと、ただ貧しい生活をするということだけでは世直しには不十分になってまいります。そこで知的な面での活躍も必要になってまいりました。そういうわけで、フランシスコ会もドミニコ会も大学のある都市に修道院を作って、そこで若い会員に勉強をさせる、大学に通わせる、ということになります。また、当時のヨーロッパで最高の知性とされた学者たちも会員に加わってまいりました。そのような時代背景の中でトマスはドミニコ会に入ったわけです。そして、そこで非常に恵まれた師との出会いがありました。その師というのはアルベルトゥス・マグヌスでした。このアルベルトゥスは当時魔法使いという評判を立てられるほど、人々の知らない非常にたくさんのことをよく知っていたと言われています。彼は特にアリストテレスの自然学をよく研究していました。

西欧とアリストテレス
 
ところで西欧では、12世紀の後半までアリストテレスの著作は論理学の一部分を除いて他には知られていませんでした。それは先ほど申しましたように529年にアカデメイア学園が閉鎖されまして、哲学者たちはローマ帝国から退去してしまったことに原因がありました。こうした経緯でアリストテレスは西欧世界では論理学者としてしか知られていませんでした。しかも論理学の中でも範疇論と命題論のみでした。アリストテレスの論理学書は6世紀初頭にボエティウスがすべて翻訳したのでしたが、失われていたのです。ところが、十字軍の時代にアラブ世界と交渉が盛んになります。そしてアラブの世界からたくさんの文物を買ってきます。それで、その書物をアラビア語から或はシリア語から或いはまたギリシア語から翻訳する人たちが現れます。そうしているうちに、アラブの世界は非常に進んでいてヨーロッパの方が遅れているということに気づきます。それでヨーロッパの世界では遅れを取り戻そうと必死になって翻訳を読み出したようです。それで、それまでほとんど知られていなかったアリストテレスが翻訳されあちこちで読まれました。それとともに、アラブの哲学者たちが著した書物が読まれますが、そこにはアリストテレスの注釈書もありました。なかでもアヴェロエスの注釈書は後で申し上げますように大変重要な書物でした。こうして彼らはアリストテレスの哲学の素晴らしさに驚いたのですが、この哲学は、それまで西欧世界で形成されてきたキリスト教思想とは異なる発想のものでした。研究者たちはアリストテレスに熱中し、キリスト教界は大いに揺さぶられることになりました。これに恐れをなしたカトリック教会の権威者たちは、アリストテレスを研究してはいけない、という御触れを出したのですが、それは無視されました。そして、再三のお触れにもかかわらず、人々はますますアリストテレスに熱中し研究に励みました。

トマスの生涯 

こうした激動の時代に生まれ育ったトマスは若いときからアリストテレスに親しむ機会がありました。ローマとナポリの中間に位置するアクィノに生まれた彼は先ずナポリ大学で学んだのですが、ここでアリストテレスの自然学に触れました。そして、この時にドミニコ会士たちに出会い、自分の生涯を決めました。つまり、托鉢によって生きる乞食集団のごときドミニコ会に入会してしまったのです。それまでトマスには貴族的なベネディクト会士になることを望んでいた家族は大いに怒りました。それを見たドミニコ会の上長はトマスを家族から遠く離れたパリに送ることにしました。当時、パリにはヨーロッパの知的最前線となっていたパリ大学があり、各地から多くの研究者や学生たちが集まってきていました。そこでトマスは先ほどのアルベルトゥス・マグヌスに出会ったわけです。こうして彼はキリスト教の新しい可能性を開拓していき、神学のマギテル(教授)となってパリ大学で、続いてナポリ大学やその他の地で神学を教えつつ、聖書とアリストテレスの研究に情熱を傾けていきます。その間にトマスはいくつかの危機に遭遇し、それと戦います。危機のひとつは、托鉢修道会士たち、つまりフランシスコ会士とドミニコ会士を大学の教職から締め出そうとする運動であり、もうひとつは、ラテン・アヴェロイズムという哲学思潮でした。ここでは後者の危機についてお話したいと思います。

先ほどお話しましたように、アリストテレスの哲学はそれまでの伝統的な神学とは発想が異なっておりました。それというのも神学の哲学的な基礎となっていたのは、伝統的に新プラトン主義だったからです。そして、アリストテレスの思想にはキリスト教の教義にとって問題となるいくつかの要素が含まれておりました。そのひとつは、世界は始めもなく終わりもなく永遠に存在するという世界の永遠性説であり、もうひとつは、知性(可能知性)は全人類にとって一つであるという知性単一説でした。世界永遠性説は神による世界創造を否定するように思われ、知性の単一説は個人の道徳的責任と死後の魂の不死、生前の行いに対する応報、といったキリスト教の教えの否定につながるものだったのです。そして、これらの説は、アヴェロエスによるアリストテレス説の解釈に依拠する哲学教師たちによって広められました。そして彼らは、真理には信仰の真理と哲学の真理の二つの真理があると主張したのです。これらについては詳しい歴史的な検証が必要ですが、簡単に言って、これがラテン・アヴェロエス主義の危機でした。このような、世界は永遠から永遠に亘って存在するとする説や人類にとって知性は一つであり死後には個人の魂は残らないとする説は、キリスト教にとって問題になるだけではなく、既にイスラム教にとっても問題となったのでした。

さて、こうしたラテン・アヴェロエス主義の齎す危機に直面して、神学者たちは戦いを挑みました。彼らは一様にキリスト教の教えを守るために戦ったのですが、彼らの間には神学と哲学に対して異なった理解・立場がありました。ここでは、トマスの独自性をよく表している世界の永遠性の問題に対する対処の仕方をごく簡単に見てみたいと思います。

トマスは他の神学者たちと同じく、神による世界創造の教えは信仰によって堅持しなければならないと主張します。けれども、哲学的には世界に始まりがあったということは論証できない、つまり、始まりがあったともなかったとも言えない、と言います。これに対し、トマスのパリ大学での同僚であり友であったフランシスコ会士のボナヴェントゥラは、無限は現実にはありえないということから、世界の永遠性は哲学的にも考えられないと主張します。そして、このボナヴェントゥラの弟子がトマスを攻撃したために、神学界は二分されてしまいました。こうして、以前パリ大学で托鉢修道会の会員を教授群から締め出そうとする動きに対して共同戦線を張って戦ったフランシスコ会士たちとドミニコ会士たちは対立し、二つのグループは自説を堅持して譲ろうとはしませんでした。この問題に対する二つの立場は哲学の歴史を見ますと、トマスを継ぐカントとボナヴェントゥラを継ぐヘーゲル、そしてなおトマス説を支持する人々とボナヴェントゥラ説を支持する人々のいる現代へと、二つのグループは依然として対立したままです。

ところでトマスは、世界の永遠性の問題に対して自説が理解されないことに苛立ち―こうしたことはトマスには珍しいのですが―、『世界の永遠性に関して、もぐもぐ言う人々を駁す』という過激な題名を付した一書をものして、パリを去ってイタリアに帰っていきます。そして、1274年、リヨンで公会議が開かれることになりました。この公会議は、東西の教会を和解させる目的で開かれたものです。東西の教会と言いますのは、東方ギリシア教会と西方ラテン教会のことですが、この両者の間には長い間対立があり、11世紀初頭以来、亀裂が深まっていました。この対立のもとには教義の問題がありました。そんなわけで、当代のラテン教会でもっとも力ある二人の神学者、トマスと先ほどのボナヴェントゥラが招聘されました。しかし、残念なことに、その会議に赴く道すがら、トマスは病に倒れて亡くなります。彼は既に力を使い果たしていたのでした。死の前年から彼は執筆をやめ、祈りに専心していたと言われています。そして、ある神秘体験をした彼は、弟子たちに、自分が生涯命を懸けて書いたものは、すべて藁くずにすぎない、死後に燃やしてほしい、と頼んだのだそうです。弟子たちがその頼みを聞き容れなかったことは幸いでした。

トマスと哲学 

ここでもう一度お手元の肖像画をご覧ください。トマスはキリスト教神学者でした。彼は西欧世界に新たに知られてきたアリストテレスをよく理解し、その哲学を用いて新しい神学を打建てることに邁進し、それに成功しました。けれども、彼はそれ以前の神学思想を廃棄したのではありません。それ以前のキリスト教思想は、プラトンの系統を引く新プラトン主義に哲学的基盤を措くものでした。キリスト教思想は、聖書を信仰の拠り所としながら、さまざまな哲学の助けを借りて表現されてきたものです。その意味で、歴史的な連続性・一貫性を持つとともに、また変化に富んだものでもあります。トマスは、理性の限界を認めつつも―世界の永遠性の問題にそのよい例があります―人間理性に大きな信頼を寄せ、真の哲学が信仰と矛盾することはありえない、信仰に矛盾するような哲学であれば、それは本当の哲学ではない、と考えていました。肖像画でトマスの両脇にプラトンとアリストテレスが立っており、頭上にはペテロとパウロそして四人の福音書記者がいて、最上位にいるキリストがトマスを祝福しているのは、そうしたわけなのです。(ペトロは教会の礎となった人、パウロはキリスト教思想の礎となった人、福音書記者たちはキリストの言行を伝えた人々ですが、パウロの代わりにモーゼがいるとしますと、モーゼは「在りて在る者」という神の名を伝えた人で、トマスに彼の形而上学の核心を示唆した人として、この肖像画の意味が分かり易くなるかも知れません。)トマスはたとえ信仰上受け容れられない説であっても、それを斥ける際には哲学的にその誤りを明らかにしてきちんと説明をしています。パリ大学の学芸学部でラテン・アヴェロエス主義が大きな脅威となった時にも、哲学の力・理性の正しい使用を信じていました。こうしてトマスの死は、論敵であった学芸学部の哲学者たちにとっても大きな悲しみだったということです。 

ところで、トマスはアリストテレスを熱心に研究し、晩年にはアリストテレスの注解をたくさん書いていますが、彼の分析は緻密でその鋭さ・理解の深さには驚かされます。私も時々アリストテレスを読むのですが、よく分からないときにはトマスの注解書を参照します。すると、アリストテレスが問題にしていたこと、その論考の進め方などなど、実によく整理されて明快に説明がなされています。ひょっとするとアリストテレス自身、「私の考えていたことはこれだったのか、よく分かった」などと言うのではないか、とさえ思えるのです。それほどトマスはアリストテレスの内部に入って、内からこの哲学者を理解していたのだと思います。そして、この経験主義的な哲学者に寄り添って、新しい神学の道を切り拓いて行ったのだと思います。 (終わり)