ひたすら歩いた300キロ
<名古屋→軽井沢 歩き旅>


学生の頃、神学院の先輩の2人と一緒に3人で、名古屋から軽井沢まで歩いたことがある。石川隆三郎(いしかわ・りゅうざぶろう)さん、大道学(おおみち・まなぶ)さん、そして私。名古屋から軽井沢は、約300kmの道のりだ。夜はほとんど野営であった。1982年8月30日の朝、名古屋の神言神学院(南山大学内にある神学院)を出発した我々は、七難八苦の旅路を歩み、1週間後の9月5日の夜に、どうにかこうにか、軽井沢の神言修道院にたどり着いたのであった。

大道氏が発案したこの旅は、神学院ではかつて誰も挑戦したことのないものだった。そして我々以後、まだ誰もこれに挑戦する人は現れないのである(必要性のない辛い旅だもんなあ・・・)。

その旅がどんなものだったかを、ここに記しておきたい。もしかしたら、「よし自分もやってみよう!」という人が現れるかも知れない。そういう奇特な人のため、少しでも参考になればうれしい。




1.旅の準備

☆軽井沢まで歩くのは夏にかぎる。冬の木曽路は寒すぎて行き倒れになってしまう危険があるからだ。我々が行ったのは8月の終わりから9月の初めにかけてだが、それでも夜はかなり寒いと感じた。夏でも長袖の上着をひとつ持っていくことをお勧めする。

☆我々はたまたま3人だったのだが、3人というメンバー構成はなかなかよろしいと思う。苦しい旅なのでどうしても気が立ってくる。2人だとすぐケンカになってしまい、旅が続きそうにないのだ。3人いれば誰かが調停役になってくれて収まるのである。人数が多ければよいというものでもない。4人以上の団体では動きがとりにくいし、テントで寝るときにも窮屈だ。また、たった1人では事故にあっても助けてくれる人がなくて危険すぎる。やっぱり3人が一番だと思う。

☆靴は我々はお揃いの赤いジョギング・シューズを新しく買って履いていったが、もしかしたら登山靴の方がよかったのかも知れない。ジョギング・シューズは軽いのがとりえだが、ふわふわしているので靴の中で足がすれてしまった。まあなんにしろ、靴ひもを解いて大きく開らける靴を履いていった方がいいと思う。そうでないと腫れあがった足に朝また靴を履かせる時、泣くほど痛い思いをすることになる。

☆我々は旅の予算がとても限られていたので、登山用のテントと料理道具を持っていって野営した。つまり道端に座り込んでメシを作って食べ、適当な場所にテントを張って寝たのである。テントの露営では安眠できるはずもなく、疲れがとれなくてきつかったが、面白くはあった。周りに人がいないのを見計らって歩道にどっこいしょと腰をおろし、ホエーブスに火をつけて鍋をのせ、味噌汁とか作って飲むのは格別な気分である。それにテントがあると、宿屋もなにもない所で日が暮れてしまっても、公園のような場所で寝ることができるので安心だ。夜は冷えるので寝袋もぜひ持っていきましょう。というか、登山の基本的な用具は一通り持っていった方が良い。野営では何かと役に立つ。(我々は大きな水筒や非常食まで持っていった・・・ひとり約30kgの荷物はけっこうつらかった。)

☆地図で道を前もって調べておくことを勧める。名古屋から軽井沢までの道順をあらかじめ決めておき、それを7日分に分けて毎日の宿営地を定めておく。登山の時に山小屋から山小屋へと時間を計算して歩くのと同じように、その日に到達しておくべき地点を目指して歩くのである。たとえ何らかの理由でそこにたどり着くことが出来なくても、後にその遅れた分を取り返す算段が立つ。1日平均約43キロ、10時間の道のりは決して楽じゃない。行き当たりばったりで歩いていては目的達成は難しい。


荷物は約30kg。この荷物がなければずいぶん楽なんだが。

2.旅の方法

☆我々は基本的に次のような仕方で毎日動いた。

1.朝できるだけ早く起きてテントをたたみ、ともかく歩き出す。見つかるとちょっとヤバイ場所に寝た時は、なおさら早くそこを立ち去った方がよい。

2.しばらく歩いてからどこか適当な喫茶店を見つけて入り、コーヒーを注文し、トイレを借りる。用を足すのが目的だ。

3.朝メシは路上で味噌汁。昼メシは道すがらの店でラーメンか何かを食べる。

4.だいたいは3人で一緒に歩いたが、道を間違える心配のない一本道では、待ち合わせ場所を決めてそれぞれが自分のペースで歩いた。一番体力のない私はいつもビリだった。ちなみに、この頃、携帯電話というものは存在しなかった。

5.夕食はテントを張った所で何か作って食べる。雨が降ったらメシは諦めるしかない。

☆旅の間、風呂に入る余裕はほとんどなかった。着替えもほとんどしないので非常に汚くなる。山登りの時と同じだ。しかし最後の夜だけはどこか安い宿屋に泊まって風呂に入ることにした。それを楽しみにがんばることにしたわけだ。



食事はこういう感じ。旧式のホエーブスが懐かしい。

3.旅の行程

☆では実際に我々がどういうルートを取ったかを述べよう。


「第一日目」

☆名古屋の神学院を出発 → 本山 → 守山で右折 → 小幡で左折し、県道15号(名古屋多治見線)に入る。一般に「愛岐(あいぎ)道路」と呼ばれている道だ。このあたりから土砂降りの雨が降り出した。初日から雨をくらうとは・・。 小幡 → 定光寺(じょうこうじ)を経て → 古虎渓(ここけい)へ → そして多治見(たじみ)に到着。第一日目は多治見の修道院に泊めてもらった。この日だけで3人の足は相当のダメージを受けた。


「第二日目」

☆多治見からは国道19号を行く → 恵那(えな)を経て → 中津川(なかつがわ)へ到着。この日はテントが張れそうな所が近くになかったため、道路沿いにあったカーショップの駐車場に勝手に寝させてもらった。3人並んで寝袋でゴロリと。しかし、国道をすさまじい勢いで走るダンプカーとすぐそばを定期的に通る電車の爆音でほとんど眠れなかった。しかもまた雨。駐車場には屋根が付いていたのだが、雨水が流れてきてびしょびしょに濡れてしまった。


「第三日目」

☆中津川から旧中山道(なかせんどう)へ入る → 馬籠(まごめ) → 妻籠(つまご)を経て → 十二兼(じゅうにかね)で力尽きる。(神学院発行の『ガブリエル』〔1983年第60号〕には「最後の長い登りを終えて、やっと馬籠だ」と書いてあるが、これは「やっと妻籠だ」の間違いである)。この日は前夜の寝不足がたたり、わずか30km弱しか進めなかった。十二兼にはJR中央本線の駅があるが、ひっそりと静かだった(もっとも、この頃はJRではなくてまだ「国鉄」だった。民営化されたのは1987年である)。見つけた小さな公園に、これまた勝手にテントを張らせてもらう。


「第四日目」

☆十二兼から更に木曽路を北上する → 寝覚の床(ねざめのとこ) → 木曽福島(きそふくしま)。木曽路はずっと木曽川に沿ってある。川の流れを眺めながら歩く。景色はすごく良いのだが、疲労のため、私にはそれを楽しむ余裕はほとんどなかった。しかし石川氏と大道氏は私よりはるかに健脚で、私を待っている間に川に下りて水浴びまでしていたらしい。

石川氏が一番歩くのが早かった。彼は我々を待っている間に道端で寝ていることが多かったが、この日の午後の待ち合わせ地点では野菜を両手にかかえて座っていた。なんでも通りかかったおばあさんが「あんた大丈夫かい」と声をかけ、「これを食べて元気だしなさい」と、持っていたカボチャとピーマンをくれたのだそうである(食べなさいったって、収穫したばかりの「生」・・・)。きっと行き倒れに見えたのであろう。そのそばにあった保育園の駐車場に(次の日の朝早く誰も来ないうちに退出するのを条件に)テントを張らせてもらった。


「第五日目」

☆木曽福島 → 薮原(やぶはら) → 贄川(にえかわ) → 小野(おの)。国道19号を塩尻(しおじり)まで行って岡谷(おかや)に出るのはとても大回りなので、近道をしようと、贄川から細い道(254号)を抜けて県道153号上にある小野(おの)へ出た。冬季は通行止めになるというこの道は、けっこうな山道であった(熊が出そうな感じ)。我々はもう4日も風呂に入っていないために、相当に汚れていた。道を聞こうと通りがかりの女子高生たちに近づいたら、「キャー!」と言って逃げていってしまった・・・。

この日はテントを張る場所が見つからず、国鉄小野駅の軒下で寝た。一応頼んでみたが、やはり駅の構内では寝させてもらえなかった。しかしだいぶ北に来たためか、夜は寒かった。寝袋が濡れていて使えなかったので、新聞紙を体に巻いて寝ころんだが、寒さにがたがた震えた。するとそこへ、工事作業員風の服を来たおじさんがひとり通りがかり、そんな我々を見て、「ここじゃ寒かろう。オレの家に来て泊まれ」と言ってくれた。驚いた。おじさんにとって、どこの誰とも分からない、しかも汗と埃にまみれている男3人である。そんな我々を家に泊めてくれるというのか。なんという親切な人なのだろうか。泊めてもらうことはさすがに遠慮したが、その優しさに心打たれた。


「第六日目」

☆あまりの寒さに皆眠れず、朝早くの出発となった。小野から岡谷に出て、諏訪湖(すわこ)の横を抜けて再び中山道へ(ここからは県道142号)。 小野 → 岡谷 → 和田峠(わだとうげ) → 上和田。この日は待ちに待った「宿屋に泊まって風呂に入る日」である。道すがら素泊まり2,700円の宿屋を見つけたので、そこに泊まることにした。二階が宿で一階は食堂になっている。

この食堂でたまたま一緒になったおじさんに自分たちが名古屋からずっと歩いてきたと話したら、「そいつぁてえしたもんだ!」と褒めてくれた。そして、家で作っているえのき茸をやるから明日オレの家に寄れと言う。長野の人たちは本当に親切だ。この夜は、宿屋の布団の寝心地がすばらしく良いものに感じられた。地面に寝るのとはえらい違いである。風呂にも入ってさっぱりした。


「第七日目」

☆最終日。軽井沢まではあと60kmばかりあるが、なんとしても今日中に到着したい。朝早く宿を出た。上和田 → 立科(たてしな) → 浅科(あさしな) → 岩村田(いわむらた) → 平原(ひらはら)。ここから国道18号に入る。ちなみに『ガブリエル』に「岩田村」とあるのは「岩村田」の間違い。平原 → 追分(おいわけ) → 軽井沢。軽井沢町に入ったのは午後6時半頃であった。旧軽井沢にある修道院まであと10kmほどある。修道院に電話(公衆電話である、念のため)をかけて到着予定を知らせる。修道院に到着したのは夜10時ちょうどであった。



☆というわけで、我々はどうにかこうにか長旅を終えたのであった。修道院に着いてビールで乾杯した。あのビールはうまかった。山に登る代わりにと言って誘われた軽井沢への道であったが、実際のところそれまで行ったどんな登山よりもずっときつかった。しかしいろいろな人に出会うことが出来て、山よりもずっと面白かったとも言える。どうですかな、後輩諸君。やってみませんか?