この愛すべき人々



これまでの人生、いろいろな人に出会ってきた。
そして多くを学んできた。

そんな私の恩人、友人、知り合いの皆さまの中から
幾人かの方々を、ご紹介いたしましょう。







1.「えっちゃん」

まずは、私の行きつけの居酒屋のおかみさんをご紹介しよう。それは、山花町にある「えっちゃん」という店である。南山大学の北門から歩いて10分くらいのところにある。外見はみごとにオヤヂの店である。ちゃんと赤ちょうちんが店先に揺れている。引き戸を開け、のれんをくぐって中に入る。中に入ると・・・やはりオヤヂの店である。席はカウンターだけしかない。しかしながら、ここのおかみさんが非常に温かい雰囲気の人で、私にはたいへん心落ち着くところなのである。献立も、ほとんどすべて家庭料理である。ときどき失敗作があったりするのも愛嬌だ。


「えっちゃん」の中の様子。時々お嬢さんがお母さんのお手伝いにやってくる。


私がこの店に来るようになったのは、アメリカから帰国してザビエルハウスに住むようになって、半年ほどしてからである。店の存在は知っていたのだが、外見の完璧なまでの「オヤヂの店」らしさに引いてしまって、なかなか中に入って行けなかったのである。ところがある日、私は健康のためにちょっと散歩をしようと思い立った。そして、家を出て名大南から楽園町の方に向かい、前山町、山花町と抜けて川原通りの交差点まで出て、そこから更にいりなかに向かい、聖霊病院の前を通って南山大学の方に登り、山手通りの家まで帰ってくるという、私としては雄大な計画のもとに出発した。ところが日頃から運動してないものだから、山花町まで歩いただけで、何だか疲れてしまった。根性なしの私は、あっさり計画を断念し、たまたま目の前に現れたこの「えっちゃん」で、休憩がてら一杯飲んでいくことにしたのであった。せっかく健康のために出かけたのに、あまり健康的ではないことになってしまったわけだ。ま、いいけど。

店に入って、私はカウンターの奥の方の席についた。おかみさんが気持ちのよい笑顔で迎えてくれた。客は他に一人か二人居ただけだった。わたしは日本酒をたのんで静かに飲み、あまり長居せずに出た。「なんだけっこう良い所ではないか」 私は入ってみてよかったと思った。それがきっかけで、ときどき寄るようになり、それがやがてちょくちょくとなり、更にしばしばとなって、ついには常連の一人となってしまったのである。この店は、常連客には名前入りの「マイはし」を作ってくれる。ちょっとしたことだが、これが妙に嬉しかったりするのだ。

ところで、このおかみさんは、初めのうち、私のことを外国人だと思っていたそうである。あまり口を開かずに静かに飲んでいたからかも知れない。日本語があまり分からないのだと思って、おかみさんの方もあまり話しかけてこなかった。私は中国人系の顔をしていると、よく言われる。アメリカにいた頃も、しばしば中国人と間違えられ、いきなり中国語で話しかけられたりした。おかみさんも私が中国人だと思っていたらしい。しかし、たしか三度目の時、私は水餃子を注文した。それが非常においしかったので、私はおかみさんに、「これはうまい!」と言った。おかみさんはそれを聞いて喜んだが、何とこう言ったのである、「まあ、本場の方にほめていただけるなんて」 え?ホンバ?私は長崎の人間なんですけど・・・驚いた私がそう言うと、おかみさんもたいそう驚いた。そして二人で大笑いした。

すっかりこの店が気に入った私は、いろいろな友人たちを連れて、ここに飲みに来ている。小田空と来たのもこの店である。夕方5時〜深夜12時まで開いており、日曜が定休日だ。女の子でも気軽に入れると思う。気が向いたら、ぜひお試しあれ。。



★残念ながら、えっちゃんは2015年12月14日をもって営業を終了しました。







2.永井多賀子さん


アメリカの友人から先日便りが届いた。ワシントンDCを中心に活躍している画家、永井多賀子さんからである。デュポン・サークルの近くにあるアントン・ギャラリー(場所は、2108 R St., NW)で個展を開くとのこと。これは毎年恒例の個展で、あちらにいる時には必ず拝見しにうかがっていた。上の写真は、彼女の最近の作品からのふたつ(2002年度のもの)。ギャラリーのホームページでは、このほかの作品も見ることができる(最初の画面ここからArtists→Takako Nagai→Recent Workと進んでください)。彼女と私はアメリカの同じ大学の同窓生である。ワシントンDCのCUAという大学の、私は哲学部におり、彼女は芸術学部にいた。芸術学部の建物は、キャンパスの奥の方にあり、木立の中に静かに立つ古くて味のある建物だった。その二階に、彼女のアトリエがあった。私は時々遊びに行って、作品を見せてもらったり、お茶を飲んだりした。外から「お〜い永井さん」と呼ぶと、「こんにちは〜」と永井さんが窓から顔を出し、降りてきてドアを開けてくれるのだ。当時この大学には日本人がほとんどいなかった。大小さまざまな作品に囲まれて語らうひと時は実にのどかで楽しく、学業のきびしさをしばし忘れて、くつろがせていただいた。今でもその時の情景が目に浮かび、なつかしい。卒業後も永井さんはアメリカに残り、プロの芸術家として活動を続けている。これは並大抵のことではない。彼女の卓越した才能と努力があってはじめてなし得ることである。今後もますますご活躍なされるよう、またあまりがんばり過ぎて身体を壊さぬよう、元気でねと声援を送りたいと思う。






3.佐野恵さん


佐野恵さんをご紹介しよう。早々とリンクをはらせていただいた割には、ご紹介が遅れてしまった。恵さん(仲間内ではめぐちゃん)は、現在ドイツに在住し、ヨーロッパや日本でたいへん高い評価を受けている、プロのピアニストである。履歴については、ここをごらんあれ→「恵さんのプロファイル」。名古屋や東京でも、たびたび彼女のコンサートが開かれているので、知っている人も多いはずだ。上の左側の写真は、2002年12月に名古屋と東京で行われたリサイタルのポスターである。彼女の演奏は、それはそれはもう、たいへん素晴らしいので、ぜひ聴きに行ってください。

彼女と知り合ったのは、私が大学生の時であるから、ずいぶん前になる。先輩に誘われて、私はあるカトリック教会に毎週日曜日、中高生会のお手伝いのために行っていたが、その中高生会に彼女とその妹のむっちゃんがいたのである。めぐちゃんはその頃たしか中学生くらいだったが、もうすでに、めちゃくちゃピアノが上手だった。妹のむっちゃんの方は現在、演劇関係のお仕事をされている。お二人とも明るくさっぱりとした、とても感じのよい人たちである。彼女が演奏家として本格的な活動を始めてからすでに久しい。この頃は円熟味も加わってますます素晴らしくなり、大家の風貌を帯びてこられている。いやぁー、お友達でホントによかったなぁーと、つくづく思うのである。そうでないと、恐れ多くて、とても気安く話しかけたりできないだろう。演奏会のために帰国されている間、時々一緒に飲むことがある。彼女はお話がたいへん上手で面白いので、一緒にお酒を呑むのはとても楽しい。

ところで、彼女のお母さんの翠(みどり)さんは、高名なピアノ教師である。非常に優秀なピアニストを、数多く育ててこられている。お弟子さんたちは、すごく高いレベルの方々ばかりである。ところが私は実は学生の頃、ずうずうしくも、この佐野先生に、ピアノを教えていただいたことがある。私などが教えを請うには、あまりにも格の高すぎる先生なのであったが、私は初めそれを知らなかった。その頃私はJ.S.バッハに熱中していたので、身のほど知らずにも、バッハを弾きたいと言ってお願いしたのである。しかし佐野先生は、「ええ、いいわよ」と、たいへん気さくに引き受けて下さった。そこでさっそく日時を決めて、私はレッスンを受けにご自宅にうかがった。その日は小学生の女の子が、私の順番の前に、レッスンを受けていた。私は愕然とした。その子は、ものすごく難しそうな曲を、ものすごい速度でダダダダダと弾きまくっているのである。そして私には天才にしか見えないその子が、先生からは「全然ダメよ、ダメ!」と、さんざんにしかられているのである。ヒエ〜。こりゃぁレベルがぜんぜん違うばい。私は狼狽し、「スミマセ〜ン、私が悪うございました、ご機嫌よろしゅう、ではそゆことで」とスタコラ逃げ出したくなった。実際のところ、私のレベルはあまりにも低かったので、バッハは当分おあずけとなり、鍵盤の打ち方の基本から教えていただくことになったのであった。佐野先生は普段はとても優しい方なのだが、いざレッスンとなると、たいへんキビしい。しかしそのおかげで、私は自分のやり方の過ちをはっきりと知ることができた。そして、先生の教えを受ければ受けるほど、私は自分がいかに音楽について無知であったかを知るようになった。このようなすばらしい先生の教えを受けることができたのは、まことに幸いなことであった。







4.吉田文さん


吉田文(あや)さんには、そのお母さんの徳子(とくこ)さんと共に、神言修道会ぐるみでいろいろとお世話になっている。ぢぇいふぉん西脇君と私にとっては、大切な飲み仲間でもある。非常に気さくにお付き合いくださるのであるが、しかし実は、すご腕のプロ演奏家なのである。文ちゃんは現在ドイツに在住し、ヨーロッパと日本で大活躍されている。(履歴についてはここをご覧あれ→「吉田文さんのプロファイル」)。彼女のお母さんの徳子さんも、とても有名なオルガニストである。親子でご一緒に演奏されることもある。(徳子さんについては、ここをご覧あれ→「吉田徳子さん」)。私はお母さんの徳子さんに、オルガン奏法の指導をしていただいたり、演奏の機会を与えていただいたりと、非常にお世話になっている。先生いつも本当にどうもありがとうございます。文ちゃんは時々演奏会などのために日本に帰ってくる。帰ってくるとみんなで一緒に飲みに行く。実は夕べも、ほんの数日間だけ演奏のために帰国された文ちゃんと、お母さんと、西脇君と一緒に、4人で飲んだ。(これについては、2002年10月31日の雑記をご覧あれ)。つくづく思うのだが、どうも音楽家にはお酒好きが多いようだ。西脇君(彼はコーラスの指揮をする)のように、飲めないくせに酒宴は大好きという人も多い。音楽関係のお友達と飲みに行くと、いつも楽しく気持ちよくおいしいお酒が飲めるのでうれしい。






5.マルクス先生

やはりこの方を出さぬわけにはいくまい。言わずと知れたマルクス学長である。南山人でこの方を知らぬ人はひとりもいないはずだ。1993年以来、ずっと南山大学の学長を務めてこられた。今や、「南山」と言えば「マルクス」と合言葉のようにすらなっており、南山のまさしく「顔」となられている。このマルクス先生に、私はそれこそたっぷりとお世話になった。まず、学生時代、マルクス先生は私の指導教官であった。私は彼の指導のもとに卒論を書いたのである。更に、彼は神学院では、私の指導司祭であった。修道院にはフラトレスと呼ばれるグループがある。(修道会においては、志願生→修練士→有期誓願会員という具合に身分が変わっていく。この有期誓願会員たちがいわゆるフラトレス・グループであり、私の場合は22歳〜27歳の時がそれにあたる)。マルクス神父様、すなわちマルクス先生、が当時このグループの指導司祭であったのだ。つまり学業と修道生活の両面で、マルクス先生は私のお師匠様であった。現在も、南山大学での仕事上のボスとしてお世話になっている他、私的なお付き合いでも、ぢぇいふぉん西脇氏(彼も私と同様に、マルクス先生の弟子である)と共に、主に飲み食いの会にてお世話になっている。マルクス先生いつもごちそうさまです。

さて、マルクス先生の人柄を一言で言うとしたら、それは、「実直でまっすぐ」ということになるのではないか、と思う。これは現在と同様、私が学生の時からそうであった。先生の教育に対する真剣でひたむきな姿勢に、私は心から敬意を表する。実直でまっすぐということがドイツ人の特徴であるのだとしたら、マルクス先生こそは正に典型的なドイツ人であると言えるであろう。

また、先生は時間を守ることにおいても、非常に厳格であった。どのくらい厳格であったかというと、たとえば、マルクス先生は絶対に、授業に遅れてくることがなかった。いや、遅れてこないどころか、始まる10分前にはもう教室に来ていらっしゃったのである。これは今でもそうらしい。しかし私が学生の時には更に徹底していた。始業のブザーが鳴る30秒前になると、チョークを手にされ、黒板に向かいおもむろに書く構えをなさる。そして、そのままの姿勢でブザーが鳴るのを静かにじっと待つ。「びーっ」とブザーが鳴るや否や、ハリのある大きな声で、「1の1の1の2、初代キリスト教における○○○・・・」などとおっしゃりながら黒板に書き出され、授業が始まるのだ。厳格なること、無比である。授業の終わりもむろん徹底しており、終業のブザーが鳴るや否や、たとえ文章の途中であったとしても、たちまちピタっと話を止められた。

「・・・それゆえ、イエス・キリストの〔び〜っ!ブザーの音・・今日はここまで。」 

まことに潔(いさぎよ)い終了の仕方であった。

マルクス先生の日本語の流暢さもすごい。漢字など、日本人の私よりはるかによく知っておられる。私が学生の時にも既に、先生の日本語は立派であった。私が書いた論文の(内容以前にまず)「日本語を」正してくださったりしたほどである。しかしその頃、マルクス先生の日本語は、今よりもずっと論文調であった。毎日論文を読んだり書いたりされていたのが原因と思われるが、「しかるに」とか、「すなわち」とか、「それゆえ」といった、あまり論文以外では使われないような言葉が、日常の普通の会話の中に、盛んに登場したのである。「今日のメシはなかなかうまいね、なかんずくこのじゃがいもが・・」とか、「天気予報が正しくも述べていたように、今日は徹頭徹尾、雨だったね」とかいう具合である。マルクス先生は、とりわけ、この徹頭徹尾という言葉がお好きのようであった。

実直でまっすぐな性格は、日常の生活においても随所にお見受けしたが、私が特に感銘を受けたのは、先生がめったに傘をさされないということであった。多少の雨なら、かまわず濡れて行かれるのである。ある雨の日に、私が、「神父様、傘をさされないのですか?そうとうに降ってますが」と聞くと、マルクス先生は、「これくらいで傘をさすのは、男らしくない。いらぬ」と仰られた。よくわからないが、まるで江戸時代の武士のような精神をお持ちの方である。

マルクス先生は、昔、犬を飼っていた。というか、ある時、一匹の小さな柴犬が神学院に捨てられていて、その犬が死にそうに弱っているのを見て、「私が面倒をみよう」と、引き受けられたのであった。マルクス先生は、顔付きはあのようにイカメしいが(失礼)、こういう優しい心をお持ちの方なのである。犬はトプシーと名付けられ、毎日ジョギングのお供に連れられていた。夕日の中、柴犬と一緒に走るマルクス先生は、妙に絵になった。この忠犬トプシーはすでに天に召されたが、きっと今もマルクス先生を、あの世から見守っていることであろう。



※マルクス先生は2008年より、南山学園理事長に就任され、
また南山大学附属小学校の校長先生を兼任しておられます。(2009年10月追記)