平家物語トリビア1

 

1.「平氏美形コンテスト」

  悲劇的な最期を遂げた平敦盛は美少年だったと言うことで有名です。しかし実は平氏には敦盛以上の美形だっているのです。平氏一の美形、それは平維盛。桜梅少将友呼ばれた彼は舞が得意で、内裏で青海波を舞った姿は光源氏にもたとえられたと言います。
  また、『平家花揃』という文献では他にも平氏の公達を色々にたとえてその美しさをたたえています。ちなみに敦盛は冬梅、忠度は葦、知盛は紅葉、教経は蓮、経正は冬の庭だとか。経盛の薄、教盛の榊など、年長者には渋い物が当たっています。

2.「侍だって風流だ」

  平氏は武士、武士と言えば無教養?いいえ、そんなことはありません。実は平氏には楽器の名人や歌の名人も多いのです。敦盛、経盛は笛の名人として有名ですし、経正は琵琶の名人だったと言われていますす。また、鎌倉時代の初めに作られた勅撰和歌集『千載集』には「詠み人知らず」としながらも平忠度や経盛など平氏の人々の歌が載せられています。「詠み人知らず」というのは、平氏が朝廷の命で討たれたために彼らの名を載せることをさけたのですが、それ以前の個人の歌集などには、平氏の人々の和歌が名前を削られることもなく載せられていました。平家物語の中でも、俊成と忠度の命をかけた歌への思いは一つの見所になっています。
(参考 敦盛、俊成忠度、忠度、経正)

3.「昨日の主は今日の敵?」

  この時代、武士は合戦の度に主人を変えるのが普通でした。例えば、一ノ谷で平敦盛を討ち取って名をあげた熊谷次郎直実は、昔平氏に仕えていたこともあります。
  直実は元々源頼朝の父、義朝に仕えていました。しかし平治の乱で返源氏が敗れた後は京で平知盛に仕え、石山橋の合戦では平氏方として戦いました。そして後に頼朝が鎌倉で関東の武士を結集したときにその配下に加わり、その後は源氏の武将として平氏と戦い続けました。

4.「びびるの語源」

  今日では「怖い」とか「震え上がる」というニュアンスで使われている言葉ですが、本来「びびる」とは鎧が触れ合う音のことを指したそうです。
  富士川の合戦で平氏の軍は、水鳥が一斉に飛び立った羽音をこの「びびる」音と勘違いし、源氏軍が押し寄せてきたと思って戦わずに逃げ出しました。このとき「びびる」音だけでおびえて平氏軍が逃げ出したことから、「びびる」と言う言葉が「怖い」とか「震え上がる」という意味で使われるようになったと言われています。

5.「薩摩守って何のこと?」

  無賃乗車や不正乗車、いわゆる「タダ乗り」を指す言葉です。狂言の中でも使われ、渡し舟の無賃乗舟にも使われたという由緒正しい(?)シャレ言葉なのです。
  この由来には二説あります。一つは平清盛の末の弟で、一ノ谷で討ち死にした薩摩守忠度にかけているという説。「薩摩守=忠度=タダ乗り」というわけです。
  もう一つは次のような川柳からです。「忠度をタダ載せておく和歌の巻」。これは千載集に忠度の和歌が「詠み人知らず」として載せられていることを詠んだ物だとか。ここから「タダ載り=タダ乗り=忠度=薩摩守」と言う説です。

 

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