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浦上のちょっと学生に聞いてみました

板書に対する意識

学生の授業への要望として、必ず上位に顔を出してくるのが「板書」についてです。私自身も板書はほとんどしないので、けっこうな注文がつきます。だけどそれに応える気は、ほとんどありません。なぜなら、板書できない大切なことことが多いからです。また、板書したことのみが大切なことだと誤解されても困るからです。例えば道徳の授業では、何を板書すればよいでしょう。板書しやすい教科、しにくい教科があると思います。それは大学の授業にもあてはまります。
結局は学生自身が、何をしにその授業に出てきているのかを問うしかないと感じています。板書がないから重要なポイントがわかりません、などという学生がいた場合は、授業で言っている一言一句すべてが重要ポイントだ、なんて言います。ポイントが板書できるくらいなら、授業なんて10分で終ることができます。もっと極端に言えば、プリントを渡して終り、で十分でしょう。それができないから90分の枠が用意されているのです。ここらあたりをわかってもらえないと、大学の板書は批判され続けるのではないかと思います。
ただし、改善の余地なしと言っているわけではありません。やるべきことも、多いと思います。それと、高校までの先生にも考えてほしいと思います。板書しなくとも、大切なことを自分でメモできるようにならないと世の中で通用する力にならないでしょうから。
以下、学生に高校までの板書に対する意識と、大学に入ってからの板書に対する意識を聞いてみましたので、一部ですがそれを示しておきます。


☆高校までの板書に対する意識
★大学での板書に対する意識

☆授業の中での一番のよりどころだった。黒板に書かれること、特にチョークの色が変えられているところが重要ポイントだと思っていたし、実際にそうだった。先生も重要なところは「黄色で書くから覚えなさい!」と公言していらっしゃった。先生の授業の質どうこうよりも板書がきれいかどうかということで、その先生に対する評価が決まっていたという部分がかなり多かったように思う。
★先生の板書をノートに写しても、あまり意味がないと感じるようになった。初めのころは中学、高校感覚が抜けず、めちゃくちゃの黒板を見て不平を言っていたが、今はそれにも慣れた。板書を写すことよりも先生の講義で関心を持ったことやトピックから自分が感じたこと、考えたことをノートに書き留めるようにしている。今は板書の役割が学生が学ぶことを援助するもの→先生のメモというふうに変わっている。

☆高校の時は、黒板に書いてあることを写すのは当然な行為であって、何も考えずただノートに書いていた。
英語は試験前にノート(先生の言ったことを全てメモってました。)がないと困ったが、他の科目はノートなんていらなかった。だけどノートに書き写していた。授業中他にすることもないし、義務感もあった。先生方も黒板が真っ白になるくらい書いてらっしゃったので、先生に悪いからこっちもがんばって書こうかなくらいに思っていた。
★大学では、テキストがあれば、先生が板書されても、ノートには書かないようになった。テキスト見れば、板書より詳しく書いてあるし、ノートに書いている時間よりも、内容を理解したり考えるのに時間がかかるので書く作業の時間はもったいないと思っている。

☆高校までの板書は授業でやる内容のポイントをまとめて書いてあるものでした。
私は今年、教育実習に行ったのですが、板書にはとくに気を配りました。要点が見易いように、色を使ったり、大きく見易い字で書くなどです。生徒たちは、教師の書く通りに、ノートをとるので、生徒がノートを見た時、ちゃんと内容がわかるようにと気を配っていました。国語を教えていたので、誤字、脱字、書き順のまちがいなどは、きびしく注意されました。
私は高校までの板書とは、板書自体に学習の意味があるように思います。(漢字を覚える、ノートのとり方を学ぶなど。)
★大学では、教授が板書を重視していないように思います。学習の内容も大きく高校時代までとは異なり、漢字の注意などはしなくなります。漢字を覚えるのは高校までの学習でされてきているために、教授は生徒が知っていてあたり前とばかりに、略字、見にくい字でも黒板に書きます。大学で板書が重視されないのは、学習の内容がそれまでの勉強と異なっているからだと思います。大学での学習は、文献や、教授の話からたくさんの知識を得ると同時に、それに対して自分はどう考えるのか論じるものであると思います。だから、ノートも教師の板書を写すだけでなく、自分の考えが反映されていくのだと思います。

☆高校の勉強は予備校同然だったので、板書も先生が入試などで出やすい用語、公式などは特に黄色、赤などで色を変えて書いていることが多かったです。
しかし、社会の授業で日本史の先生はめんどうなのか、すべて板書は白で、教科書が同じうちは毎年ほとんど同じように書いてあるそうです。その先生曰く「自分で重要だと思うところは色変えて書きなさい」ということでした。しかし、大半の生徒はおもしろくない日本史の授業を聞くのがいやだったのかノートはとらずに教科書でテスト勝負だ!ということで寝ている子が多かったです。私もテストの時ノートは字が汚いのであまりみたくなかったです。
★大学に入ってから高校と違っていたのは多くの授業で教科書という存在がなく、あったとしても一般書みたいな感じのものでテストの時にはあまり重視できません。だから、私はそこではじめてノートがあることの重要性を知りました。しかも先生方は板書をしない人が多い。だから私は今のほうがまじめに授業をきいてメモをとって板書ということでやっています。学科の中ではノートをまじめにとっている数少ない人の1人として、テスト前だけいつもの3倍くらいの友達が増える(?)今日このごろです。ノートをまじめにとっているおかげで、今のところ単位は順調にとっていて、あと残り少ないテスト生活も、まじめにとったノートでがんばっていきます。

☆板書は授業のすべてだと思っていた。先生対生徒というよりは、板書対生徒、先生は補助的な役割。
ノートをきれいにとるのが精一杯で、先生の話はあまり聞いていなかったと思う。
★大学に入りたての頃は、先生が言ったように、授業のポイントが全くわからなかった。1時間半、先生一人で話しているだけで、これが授業?ノートはどうするのか?と高校までの授業の形式の違いにとまどった。
それでも聞いているだけでは頭に入らないので、とりあえず先生の話したことをすべて書き取ってみた。何度か繰り返すうちに、大事なところ、必要なところがわかってきて、聞きながらノートもとれるようになった。
高校までの勉強はやっぱり受け身で、大学では自分で勉強していかないといけないと思った。

☆授業のポイント、大事な所など、他、口頭では分かりにくいものを伝えるため。
★教授側の手抜きの場合が多いと思う。高校までの先生に比べて、話がそれほどうまいと思う人が圧倒的に少ない上に、教室がやたらと広い、学生が多い(部屋の中では人間の体は音を吸収する働きがある)声が小さい、という状況で、口頭だけで全てを伝えることは困難であるはずだ。そのために、ある程度の最低限の板書や、プリント配布は絶対に必要である。自分の口述に絶対的な自信がある人以外は、板書する責任があると思う。自分の言ったことへの責任を持つためにも。

☆高校まで授業によって私は板書を写しませんでした。苦手な理系教科は一生懸命写したけれど、書くことで安心してしまい、あまり復習しませんでした。今思うと、板書というのは私にとっては、ただ授業を受けたぞと言う証拠みたいなもので、それを有効利用しないとなんの価値もないもんだったと思う。高校までは、先生方がなんとかして大学に入れようとするから、内容が多く、ノートにまとめてもわかりやすくなっている。
★大学の板書は、はっきりいってノートを取っても授業自体を聞いていないとまるでわからないので、そこに学生個人のやる気が見られると思う。たまに黒板に書いたものは、くだらないことでもすごく重要なことに思えてしまう。でもたまに高校なみに板書をしてくれる先生がいると、その分ノートに書き写すことによって授業に集中できるので楽。

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