大学院のことなど(院希望者,院生へのお説教)

 ここでは,常日ごろ思っている大学院進学希望者や院生に対して言いたいことを書いてみようと思っています。とりあえず思いついたまま書き加えています。
 院生,院の修了生の方,ご意見をください。いろんな人のいろんな経験,いろんな意見を掲載していきたいと思っています。読者の方は,読み流すなり,心に刻み込むなり,ご自由にお使いください。
 なお心理学系の大学院を中心に考えていますので,他の領域の場合だと少し違うかもしれません。ご承知置きを。

 それから,院生作成のページを2つほどご紹介しておきます。かれらの日記を見て,院生の生活ってこんなものなんだ,と思って頂ければと考えています。二人とも私の後輩です(この二人を見習ってほしいと思っているわけではありません…言い過ぎ?)。いつか,かれらの日記に「就職先が決まった」という言葉が出てくることを祈りつつ…
    ●安藤くん  ●小平くん(日記は止めているけど,とりあえず残しておきます)

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なぜ,このようなものを書くのか

キャリアについて

大学院を選ぶ

研究したいから大学院に進むというピュアな気持ちの人へ

マイナー大学院修士課程にいて研究者を志望する場合

なぜ研究者志望者にメジャー大学院を勧めるのか

院を目指す社会人の方へ

教育ファシリテーション専攻についてのスタンス

研究について

研究という行為について

論文について

学会発表について

文章を書くことについて

就職について

就職(学校基本調査報告書に見る)

就職(研究職:業績)

大学教員の仕事

就職(大学教員:再び)

その他

アルバイト

 

●なぜ,このようなものを書くのか

 私のところに「大学院に行きたいんですけど」と言ってくると,まずは「お前は何を考えてるんだ」と言われます。「自分の人生をしっかりと考えてから言っているんだろうな」「人生,捨てるつもりじゃないんだろうな」とも言われます。学生にとっては,「自分ってまともではないのかな」と思うことでしょう。私を知っている学生なら私の口の悪さも知っているはずなので,そう言われるのが嫌な人は来ないのでしょうが…。
 なぜこんなことを言うか。いじわるで言っているわけではありません。当然,理由があります。自分が経験してきた道だからこそ,人には勧めたくないのです。また大学院生の将来を取り巻く環境の変化を考えてみても,とうてい勧められる進路ではありません。そのようなことを知っていて,なおかつ進学したいという意志を見せる学生はいいかなと思うのですが,知らないで進学したらどうしようもありません。これは本人にとっても得にはなりませんし,その学生を受け入れた大学院,その大学院の院生仲間にも悪影響を与えます。大学院は比較的小さなコミュニティーなので,一人一人が集団に与える影響力は,学部よりも大きいのです。こんなことを知っていると,ホイホイと大学院進学を勧めるわけにはいかないのです。
 最近では大学院を紹介する書籍や,入試問題を掲載した書籍が多くなっています。自分が大学院を受けるときにもお世話になりましたが,入ってから読み直すとどこか違和感を感じざるを得ないものです。大学でのことを思い出してください。入学前に大学紹介なんかを読んで持っていたイメージと,入学後のイメージは同じでしたか? それと同じようなことが,大学院についてもいえます。だから,もう少し現実的なことを知ってもらいたいというのが,このようなものを書こうと思ったきっかけです。
 それにもう一つ。それらの書籍は,基本的に大学院を選ぶときの注意事項や入試対策を中心に書かれています。私に言わせれば,これはちょっと怖いと感じるところです。きちんと選んで入試対策をすれば,大学院に入学できるかも知れません。大学以上に,大学院は入学すること自体に意味はありません。重要なのは入ることではなく,入ってからどうするかと,修了後どこへ出ていくのか(出ていけるのか)だと思っています。基本的に進学をお勧めしない方向で,特に現実の厳しい面を強調したものが,進学をきちんと“考える”,もしくは“考え直す”ために必要だと思っています。
 繰り返しになりますが,私は大学院進学という進路をお勧めしません。これは,臨床心理士の資格をとるために進学を希望する人にもあてはまります。そこまでのリスクを背負ってまで取るべき資格か,就く仕事か,と考えると??です。パンフレットには,当然ですが,いいことしか書いてありません。就職先一覧が燦然と輝いてみえるかもしれませんが,途中で辞めていった人数とか,就職がなくて困っている人の数は書いていないのです。大抵の場合,過去5年間とか10年間の就職実績が書いてあると思います(書いていない場合は,相当に厳しい現実と考えてもいいと思います)。仮に定員10名の専攻であったとします。そして過去5年間の就職先一覧に10の大学・短大,研究所が記載されていたとしましょう。定員ちょうどを入学させているとすれば,5年間で50名の修了者がいるはずです。同じ研究機関に複数名が就職できることは極めてまれですので,1研究機関あたり1名就職しているとして,就職者は10名。小学生にもできる計算で,50−10=40。つまり40名(80%)は,それ以外の道(パンフレットには載せない(載せたくない)進路かもしれない)に進んだことになります。職に就けたかどうかもわかりません。大卒の就職内定率が60%だ,70%だといって問題になっていますが,大学院修了者にとっては,これは夢の世界の数字なのです。
 そんな世界を目指そうとする人にむけて,何を言っておくべきなのか。そんなことを考えながら書いてみたいと思います。

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●アルバイト

(特に修士課程の場合)
 はっきり言って,院生がアルバイトをすることは不要だと思います。生活のためにやむなくとか,学費,研究費を捻出するためにやむなく,という場合は仕方がありませんが,それでもその時間を無駄にしていると思っておくべきだと思います。また,時に親からの仕送りを断ってまでアルバイトをしている場合もあります。そんなちっちゃなプライドはさっさと捨てて,「数年後に就職したら2倍にして返すから」と大ミエを切って仕送りをお願いし,それで自分を追い込んだほうがはるかにいいです。遊びにいくためにとかであれば,さっさと辞める(アルバイトを辞めるか大学院を辞めるか)べきだと思います。
 なぜここまで言うかといえば,修士課程を経験した人ならわかると思いますが,修士の2年間はあっという間に過ぎてしまうからです。どこの大学院でも似たり寄ったりの状況だと思いますが,修士論文の提出日まぎわは,焦点の合っていない目をした2年生が,学内をうろうろ,おたおたしています。入学早々から,修士課程の2年間は短いから,と耳にタコができるほど言われているにも関わらず,あいかわらずの状況です。そして,ろくに推敲もされていない論文が提出されるのです。実際に2年間は短いのです。その間に基礎知識を身に付け,修士論文の計画を立て,実践し,まとめるという作業をしなければならないのです(理想的なことを言えば,修士論文の作成と並行して,もっと理想を言えば2年生の後期に入ったころに,論文を学会誌に投稿するのがよいのですが)。
 アルバイトは息抜きだ,という人は置いておいて(このように考える人は,研究も息抜きのレベルでしかないこともあったりする),せっぱ詰まった必要性もないのにアルバイトをすることは時間の無駄です。発達や教育心理学を専攻する人には,家庭教師などのアルバイト経験が役に立ったりもしますが,自分で自分の研究との関連性を見い出せないようなものはする必要性はありません。その時間があれば,勉強したり研究したり,ぼーと考え事をする時間にあてたほうが有効です。ぼーと考え事をする時間は,院生にとって大切な時間だと思います。時に,ぼーとしている時間が無駄だからアルバイトをするという人もいますが,本末転倒になることもあるので注意しておいてください。私の場合,ぼーとしている時間にアイデアが浮かんできて,机に向かうのはそのアイデアをまとめる,もしくは具現化するときなのですが。
 この時期は,将来のために今の時間を使っているということをしっかりと認識しておくべきだと思います。だから今何をするべきなのか,24時間しかない1日をどう使うのか,このあたりをしっかりと認識しておく必要があります。この時期に時間管理ができるようになれば,後が楽でしょう(特に就職してから)。反省の意を込めて進言しておきます。

(非常勤講師の場合)
 大学院も後期課程(博士課程)にもなると,ちらほら非常勤講師の口が回ってきたりします。家庭教師などよりも,はるかにペイのいい場合が多く,また教える経験にもなる(常勤の職に就くときに有利に働いたいりもするが,考慮されない場合も多い)ので,院生にとっては非常に“おいしい”アルバイトです。
 しかし,私は全面的に非常勤講師をお勧めしているわけではありません。後期課程ですから,当然博士論文を提出し,博士号をとるべき,またそれが期待されている位置にいるのです。これに非常勤講師をしていることが悪影響をおよぼすようでは,本末転倒です。また初めて非常勤を担当する場合には,結構な準備が必要になります。やったことのない人にはわからないことなのですが,下手に悩みはじめると,次の授業までの1週間まるまるを授業のネタ探しに費やすことも珍しくありません。また授業がうまくいかなかったら,悩みの種にもなります。これを2つも抱えていると,かなりハードになります。3つ4つになると,授業の反省をする暇もなく,結局は何のためにやっているのかわからなくなってくるようです。ちなみに,私は複数かけもちした経験はありません(単に人気がなかったからかも)。
 後期課程の学生なら,自分の研究ペースやこれからの計画もそれなりに立っていると思いますので,その範囲の中で非常勤講師をすることはよいことだと思います。しかし,たくさんやったからといって就職に役立つわけではないことは頭の隅にでも置いておいてください。非常勤の経験よりも,論文が多かったり,博士の学位を持っていることの方が,就職の際の武器としてははるかに役立つのです。

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●就職(学校基本調査報告書に見る)

 大学院修了生の就職の難しさは,いろんな場所で言われていることです。じゃあ,どれくらい難しいのかということをデータ上で見てみましょう。
 まず,平成11年度「学校基本調査報告書」にどう書いてあるかですが,要約文を要約すると…

●修了者数:平成11年3月に大学院の修士課程を修了した者は,約53,000人。博士課程を修了した者(満期退学を含む)は約12,000人。
●修了者の進路:修士課程
修了者の進路は,大学院等への進学率は16.0%。就職率は64.9%。就職者総数を産業別にみると,「製造業」51.6%,「サービス業」26.8%,「公務」5.7%,「建設業」4.6%等の順。就職者総数を職業別にみると,「技術者」64.6%,「教員」8.4%,「科学研究者」5.1%等,「専門的・技術的職業従事者」が83.8%を占めている。
●修了者の進路:博士課程
修了者の就職率は58.4%。就職者総数を産業別にみると,「サービス業」72.6%,「製造業」13.3%,「公務」6.0%等の順。就職者総数を職業別にみると,教員31.0%,保健医療従事者29.0%,科学研究者19.4%,技術者14.7%等「専門的・技術的職業従事者」が95.1%を占めている。

と,こんな感じです。修士修了で就職率が64.9%,博士修了で58.4%という数字を見ると,「まあまあ」かなと思うのではないでしょうか。大卒で60.1%ですから,修士だと大卒よりも有利,なんていう読み方も正しいことになります。
 しかし,これはすべての専攻を含めた場合の結果です。そこで,人文系,心理学専攻学生に関連しそうな部分を拾い出してみると雰囲気がガラッと変わってきます。

●修了者数:平成11年3月に大学院の人文科学系修士課程(文学,史学,哲学(心理学はここに入ります),その他)を修了した者は,3,947人,博士課程を修了した者(満期退学を含む)は1,116人。
●修了者の進路:修士課程
人文科学系修了者の進路は,大学院等への進学率が30.6%,就職率は31.0%。「哲学」で見ると,修了者は832名,うち大学院等への進学率は23.1%,就職率は30.1%,残りの人たち(研究生,アルバイト,進路不詳の者など)が394人(47.4%)。もう少し詳しい内訳は,人文科学系全体でしかわからないのですが,就職した945名のうち,事務従業者が最も多く313名(33%),そして高等学校教員が163名,大学教員は27名です。総修士修了生のうち,大学教員になった割合は0.7%となります。
●修了者の進路:博士課程
人文科学系修了者の就職率は29.4%。「哲学」で見ると,修了者は196名,就職率は31.1%,残りの人たち(研究生,アルバイト,進路不詳の者など)が135人(68.9%)。もう少し詳しい内訳は,人文科学系全体でしかわからないのですが,就職した329名のうち,大学教員には190名がなっています。総博士修了生のうち,大学教員になった割合は17.0%となります。

 このように人文科学系だけで見ると,就職率は修士修了で31.0%,博士修了で29.4%。心理学系が含まれる「哲学」だけで見ると,修士修了で30.1%,博士修了で31.1%。「哲学」領域の修了生で大学教員になった率は,修士修了で0.7%,博士修了で17.0%となります。修士に入った人で大学教員になる人はそのまま博士に進学するとすれば,入学した3,947人中,217人が修士または博士修了と同時に大学教員として巣立っていけたことになります。確率は約5%です。心理学は,他の専攻よりも大学教員としての就職の口が多いとはいえ,5%の違いは無いでしょう。また理系とは違って,企業等での研究職という口はほとんどありません。常勤カウンセラーになれるのも,おそらく似たような確率でしょう。
 大学院生の人は,薄々この現実に気づいていることと思います。大学院に進学しようかな,就職も気になるなと考えている人は,この数字を認識しておいてください。「大学院に合わなければ,修士でやめて就職すればいいや」,という考えがいかに実現困難なことか。修士卒よりも学部卒の方が,心理学を専攻したのであれば就職に有利なのです。“あわよくば”研究者なんてことは,バカも休み休みに言えということになります。逆に言えば,研究者を目指している人は,修士に入った全国の院生の中で上位5%に入るような実力を身につければ確率が高くなるということです(メジャー雑誌論文数で考えれば,1本では足らないかな)。

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●就職(研究職:業績)

 大学の教員にはどうやったらなれるのか? 多くの人が不思議に思っていることだと思います。就職情報雑誌を見ても,まず載っていないし,新聞の求人欄でもお目にかからない。一体どこに求人が出てるの?という疑問が出てきて当然だと思います。「心理学の教員を募集します」なんてことは,心理学をやっている人の目にだけとまればそれでよいのですから,一般の人の目には触れないもののそのような人の目にはとまる場所に出ています。例えば学会誌,大学の教員や院生が見る掲示板,学術情報センターのHPなどです。それを見ればわかるのですが,大学教員の採用にも,年齢制限があったり,履歴書を送ったり,面接を受けたりする必要がある場合もあります。この点は,企業を目指した就職活動とかわりがありません。ただ,採用“試験”は聞いたことがありません。
 このような公募が出され,それに対して何人何十人の人が応募します。採用が1人だったら,その応募者の中から誰かを選ばなければなりません。誰を選ぶかというときの基準になるもの,応募者にとっては就職を勝ち取るための武器となるものの一つが業績です。大学院修了といった若い人たちでは,社会的な活動での業績は少ないでしょうから,ここで言うのは研究業績ということになります。どのような業績の種類があるのか,どのようなものが評価されるのかについて,少し紹介してみようと思います。
 研究業績は,多くの場合2種類に分けて一覧表を作り,合わせて現物もしくはコピーを提出することになると思います。一つは著書,論文の類い。もう一つが学会発表の類いです。修士論文は提出不要,つまり審査の対象外となる場合が多いと思います。また,学会発表も提出不要な場合があります。つまり,勝負は著書・論文ということになります。若手では著書を多く持つことは難しいので,さらに絞られて論文勝負になります。論文の数が多いということは,今後は必須条件になってくるのではないかと思います。
 では論文の内容という面では,どんな論文を書いていれば有利なのか。残念ながら,このような論文を書いていればよい,というような基準はありません。ただし,その論文の領域によって有利,不利は生じてきます。例えば,公募情報で,領域として発達心理学を専門とする教員を募集していて,担当予定科目として,「心理学概論」,「生涯発達心理学」,「人格心理学」などの科目が挙げられていたとします。そうすると選ぶ側は,「生涯発達心理学」はもちろん,「心理学概論」や「人格心理学」も教えることができそうな人を,業績を見て選びます。概論というすべての領域をカバーするような業績を持っている人はほとんどいないでしょうから,少なくとも発達心理学とみなせる業績があり,また人格心理学ともみなせるような業績を持った人が有利になってきます。
 このように考えると,1点集中で狭い領域を深く研究し業績をあげている場合,当たれば儲け物だし,外れれば相手にされないという現実が見えてきます。幅広くやっていれば,当たる確率は高くなりますが,深みが無いということでインパクトに欠けてしまいます。このように研究のスタンスのとりかたによって,当たり外れが出てきてしまいます。就職ということを考えて研究を進めていくのならば,どのような大学でも必ず開講されているような科目(例えば,教育心理学,発達心理学,実験心理学,社会心理学,臨床心理学などなど)の中で,2領域以上と関連するような業績を持つこと,もしくは教育心理学と臨床心理学といった2つの領域それぞれについての業績を持つことが得策といえるでしょう。
 また大学の授業では,研究手法についての授業も行われています。そんなことも考えると,業績の中の研究手法は質問紙を使ったものだけというよりは,ある研究では実験手法を使い,ある研究では観察手法を使っているといった,さまざまな方法論を使うことができることをアピールできたほうが有利だと思われます。大学の経営上,教員数を抑えたままで講義の種類を増やしたいという流れからすると,スペシャリストでありながら,マルチに講義担当ができる教員がこれからは望まれるのではないでしょうか。
 次に論文の質という面ではどうでしょうか。基本的なところとしては,その論文に誤脱字が無いこと(私の論文は結構多い),理路整然と述べてあること,などが標準以上であることでしょう。また,論文の質を判断するときに目安となるものの一つに,掲載された雑誌の格があります。レフリー(つまり掲載の可否を決める審査員)付きの雑誌か否か,メジャー雑誌かマイナー雑誌かなどです。当然,掲載されるのが難しい雑誌に掲載されたものであれば評価が高まりますし,大学紀要といった原稿を出せば無条件で掲載される雑誌の論文であれば,それなりの評価を受けることになります。ただし,内容までチェックされますので,メジャー雑誌論文ならば必ず評価が高く,大学紀要であれば必ず評価が低いというわけではありません。逆の評価もあり得ます。
 就職という観点からすれば,このような業績を多く作っておくことが有利だと思われます。しかし,就職だけを考えて研究領域を選択し,論文を作成するというのもむなしいことです。研究者としてあるべき姿ではない,と言っても過言ではないでしょう。メインとなる研究を進めながら,別領域のサブ研究も行い,さらに就職を考慮した研究もしていく,なんてことができればいいのですが…。難しいところです。

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●大学院を選ぶ

(特に修士課程)
 大学院の選び方は,大学院や院試についての書籍の中にも書いてあります。教官スタッフや研究室の活気など,それらを読んで書いてあることに留意して選択すれば,とんでもないミスを犯すことはないでしょう。それらに書いてあることは当然として,一部重複しますが,私の考える選択の指標について書いてみたいと思います。
1.就職状況はどうか
 やはり最も気になるところでしょう。パンフレットなどにも書いてあるはずなので,チェックしておいたほうがよいと思います(ただしパンフレットには良いところを中心に書いてあるので注意)。必ず,自分が何になりたいのか,それになりやすいかという点から見ておいてください。修士まで修了して高校の教員になりたいと思っている人が,研究者養成をメインにしている院に行っても的外れですし,研究者になりたいと思っている人が,修了生の多くが研究者とは違った進路に進んでいる大学院に進んでも得るところは多くないと思います。養成したい人材像は各大学院で少しずつ異なっており,修了生の進路先は,そのカラーを判断する手がかりになります。
 教員志望であれば教員養成系大学の大学院,研究者志望であれば,歴史があり人材を多く輩出している博士課程を持つ院(旧帝大系や旧教育大,歴史のある大きな私学など),臨床では…何とも言いがたいのですが,スタッフが一生懸命に就職先開拓に奔走しているところが適当ではないでしょうか。
2.指導を希望する教員の専門性との適度なズレがあるか
 変なことを書いているな,と思う人もいるかもしれません。自分がやりたいことと,同じことをやっている教員に指導を仰ぐほうがいいじゃないか,という考え方もあると思います。でも私は,専門性には少しズレがあったほうがいいと思います。大きすぎると問題外ですが。
 なぜかというと,大学院では研究者として独り立ちすることが期待されています。自分がやっていることと同じことを専攻する大先生が上にいると,私だったら委縮してしまいます。キャリアがあまりにも違うため,“お釈迦様の手のひらの孫悟空”状態になってしまう可能性を感じるのです。“そんなものはねかえしてやる”という気概を持ち,才能もある人だったら問題はないのでしょうが。ただし,“その人”から盗みたいものがあるような場合は,これにはあてはまりません。
3.院生は研究をしているか
 非常に重要なポイントだと思います。いくら研究室の雰囲気がよくても,院生がみんなそろって研究していないようなところは要注意です。特に研究者志望の人には。これをチェックするのは簡単です。心理学関係の雑誌に,そこの院生が論文をたくさん出ているようなところは大丈夫でしょう。ただし,古いものは参考になりません。ここ2,3年間のものを参考にしてください。また,学会の大会論文集なども参考にはなるのですが,これは発表したいといえば会員なら誰でも発表できるようなものなので,あまり参考にしないほうがいいでしょう。
 この作業をすれば,活発に論文を書いている院生を抱える大学院は,意外と(極めて)少ないことがわかると思います。大学院では教員に指導を仰ぐよりも,先輩の院生に指導を仰ぐことの方が多いと思います。研究をしていない先輩に研究指導を仰いでもしょうがないですし,論文の書き方も教えてもらえません。自分を雰囲気に流されやすいタイプだと思う人は,特にこの点に注意したほうがよいでしょう。
4.院生が使える研究費があるか
 これは大学院によって,まちまちなところです。○枚までなら自由にコピーがとれるとか,○万円までなら文房具類を購入できるなどという制度を持っているところがあります。「私は貧乏なの」という人には,とてもありがたいことです。「私はとっても貧乏なの」という人は,考慮してもよい点ではないでしょうか。
5.指導教官とウマが合いそうか
 ウマが合うとか,合わないとかは,非常に感覚的なところです。しかし,合わないとかなりつらいものがあります。自分が付きたい先生と入学後に初めて会う,なんてことは問題外の愚かな行為ですから置いておいて,会ったときに“どうしても合いそうにない”と感じれば,やめておいたほうが無難だと思います。必ずしもぴったり“合う”必要はないのですが,生理的に受け付けないというように感じた場合は要再考です。教員の名前だけで選ぶことは,とても愚かです。
 いくつか並べてきましたが,個人的には3,5,1のあたりが重要だと思います。研究者志望なら,これらは特に重要です。ある大学院の院生の論文生産量には,“波”があるように思います。威勢のいい院生が多い時期,少ない時期があるように見えるのです。実績のある大学院に,いい波が来ているときに入るのが,自分を鍛えるためにはベストな選択のような感じを持っています。

(特に博士課程)
 博士課程にまで進みたいと考えている人は,ほぼ研究者志望だと思います。でも,博士課程を修了すると早くても27歳くらいにはなっていることを認識しておいてください。27にもなって,一般企業の採用を勝ち取ることは至難の業です。高学歴,高年齢の新規採用者に,高い賃金を払って一から仕事を教えるようなバカな会社はほとんどないということはすぐに理解できると思います。そんなところに身を置くのだということは,きちんと認識してから進学するかどうかを決めてください。
 どこかにも書きましたが,博士修了後すぐに大学教員になれる確率は,現在でも20%を下回ります。その後研究生(OD:オーバードクター)をすれば必ずなれる,というものでもありません。今後博士課程の設置が進むと,その確率はさらに下がるでしょう。さらに大学教員の採用の口は,ますます減っていくものと推測できます。どう考えてみても,楽な進路ではありません。10人に1つ,もしくは2つしか回ってこない椅子の奪い合いが始まるのです。それに負けたら…。これを知った時点でビビッた人は,決して進学すべきではありません。少なくとも,今の進路状況が変化するまでは。
 ここまで知っていて,それでも進学したいと言う人には,何も言うことはありません。やるしかないのです。その決意はあるものと信じています。やれるだけやって,後は運を天にまかせるしかないのです。やったことは決して無駄にはならないでしょう。そう信じて突っ走ってください。

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●研究という行為について

 「研究をする」ということは,どういうことだか知っていますか? 今までやってきた(使ってきた)「勉強する」とは,どこが違うのでしょう。大学院は,主に研究をする場所ですので,これに対して答えられないのならば進学はやめておいたほうが無難です。なぜなら,入学した早々から,「私は何をすればいいの」というドツボにはまってしまう可能性が高いからです。
 大学院にいたころ,大学院のことをよく知らない人から,「勉強が好きなんですね」とよく言われました。私は勉強は好きではありませんので,いやーな感じを持ちながらも,「説明しだすと長くなるからなあ」と思って苦笑いをしていました。ここでは,それで済ませるわけにはいきませんので,私の考えを書いておきます。
 私の中では,「勉強」は,基本的には自分の外側にある事実,知識などを,自分の中に取り入れる作業だと思っています。歴史ならば,史実を学ぶ(記憶する)ことが歴史の勉強だと考えています。心理学にあてはめると,本を読んだり,論文を読んだり,人を直接観察したり,メディアを通して間接的に観察したりして,理論や知識を吸収していく作業だと思います。では研究とは何か。私は自分の中に取り入れた(勉強した)ものを,自分の中で整理し,そこに新しい理論や発見をして,それを“発信する”という一連の作業だと思っています。勉強と研究の違いは,そこにその人がクリエイトした点があるか,それを発信しているかどうかで区別できると思っています。
 先に歴史の例を挙げましたが,歴史をよく知っているからといって,歴史研究者もしくは歴史学者とは呼ばないでしょう。クイズ王を,雑学研究者と呼ばないのと同じです。よく知っている人(勉強している人)は,「〜である」,「〜といわれている」ということをたくさん,正確に知っている人です。もう一歩進んで,「でも,これまでの研究からはここのあたりが説明できないんだ」というところまで進んでいる人もいるでしょう。しかし,このような進度では,まだ研究者とは呼べません。研究者と呼べるには,その自問に対して何とか答えを見つけて自答できることが必要になってきます。自分で答えを出せた(クリエイトできた)ということが,それを研究と呼ぶかどうかの,一つの境目になるでしょう。
 しかし,その答えを自分の中にとどめておいたのでは“研究した”とはいいません。それは,外に向かって発信していないからです。例えば,中学校の先生を研究者とはいいません。日々生徒たちと接し,よりよい教育方法を模索しているはずです。さらに,それぞれの先生は,多少なりとも「こうしたらうまくいった」などという“発見”をしていると思います。発見をしたということは,自分で何かを見つけたということですので,先の研究の基準はクリアしています。しかしそのような人でも,“教育方法論の研究者”とは呼びません。これは,その発見を発信していないからです。研究者として認められるには,この“発信”が重要になります。“発見”をした先生が,それを本や論文にまとめ,世に問いはじめたら,それは研究をしている人と呼べると思います。
 ということは,院生がやらなければならないことは何でしょう。本を読んだり,論文を読んだりして,知識を増大させることだけではありません。調査や実験をして,新しい何かを発見することだけでもありません。それに加え,その何かを発表してはじめて,院生がやらなければならないことを実行したことになるのです(現在院生の人,ここらあたり,よーく考えてください。あなたが“研究”できるように,多くの税金が使われているのです。ちなみに私学にも税金は投入されていますよ。税金ドロボウにならないように。)。
 しかし,勉強が好きな院生,勉強しかできない院生もいるなと感じることがあります。そういう人によく見られるものとして,「石橋を叩いて渡る」じゃなくて,「石橋を叩いても渡らない」「石橋を叩いて壊す」というようなスタイルがあります(以前,よくこの言葉で遊んでいました)。「石橋を叩いても渡らない」とは,一生懸命勉強し,多くの知識を持ちオリジナルな仮説も立てたりするのですが,それを確かめようとしない,発信しようとしないというような態度を揶揄しています。「石橋を叩いて壊す」というのは,一生懸命勉強し,詳細に検討するのですが,ちょっとしたほころびが気になり,その瑣末なことを気にするあまり,すべてがダメになることをちゃかしています。研究を進めるには,繊細さと大胆さの両方の感覚が必要になると思います。どちらかだけでは,ダメだと思います。
 このあたりは,実際に始めてみなければわからないところでしょう。大学院志望の人には分かりにくいかと思います。卒業論文などは,どちらもダメな場合がほとんどです(卒論から研究としていいものが書けていたら,大学院っていう修業期間なんていらない)。卒論の研究が面白かったからといって,自分は研究に向いている,なんていう飛躍した考えを持たないように。向いている“かもしれない”,くらいに抑えておいてください。研究に向く人…というのは,非常に難しいのですが,学部卒業段階で言うと,あんなこともやってみたい,こんなこともやってみたいという好奇心があり,それを研究計画の中に描くことができ,実行したくてうずうずしている人,となるでしょうか。何となく,他の力は後からでも養えるような気がします。(ここのところは自信がありません)

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●学会発表について

 院生を見ていると,発表をためらう人がけっこういるように思います。そんな人がよく使う言葉が,「まだ発表できる段階では…」というやつです。これに対しては,非常にイライラするのです。じゃあ,発表できる段階はいつなのか,どこまでいけたら発表できるのか,はっきり言ってみろ,と言いたくなります(実際に言っていた)。研究をやっていて,自信をもって発表できるなんて状況は無いと思います。どこかに,いまだはっきりしていないところがある,ということを感じながらも,現段階ではこれこれのことがはっきりしてきた,ということを報告するレベルにしか到達できないのです。だから研究が進歩を続けられるのです。すべてわかったら終わり,というのが研究の特徴です。
 私自身の経歴では,最初に学会で発表したのは1991年の教育心理学会でした。修士の院試に落ちて,大学で非常勤の職員をやらせてもらっていたときです。発表するネタはあったのですが,何せ大学院に落ちて非常に中途半端な,あるかないかわからないような立場になったため,発表にエントリーすることをためらっていました。そんなときに,「何言ってんの」と言ってくれた人がいました。会員なんだから発表すればいい。院生だとか,そうじゃないとかという問題は,研究を発表することとは関係ない,といった内容だったと思います。これで気が楽になったし,それよりも研究を発表するということ自体を考え直せたと思っています。
 研究を発表することには,いろいろなメリットがあります。主なものは,自分がやってきたことに対して,いろいろな立場の人からコメントがもらえるということ。好意的なものもあれば,当然,痛いところを突かれることもあります。研究のヒントになるような意見をもらえることもあります。研究を始めたばかりの,まだ自分の行き先さえ漠然としているときには,これらはすべて貴重な経験になりました(最近では自分なりの方向性があるため,考え方の違いからの議論も面白いと思っています)。ある意味,人からの評価を受けることは怖いことではあるのですが,研究を公表すれば必ず評価がついてくるのです。これを怖がっていたら,研究を仕事にするなんてことはできません。結果を見ながら一人で悦に入っているオナニストを,研究者とは呼ばないのです。
 もう一つの大きなメリットは,いろいろな人と知り合いになれることです。同じような研究をしていると知り合いになれるだけでなく,領域は違っていても立ち話などができるような人ができてきます。このようなネットワークができてくることは,かなり重要な点だと思っています。研究の幅,研究に対する考え方の幅,興味の幅などをひろげるよい機会だと思いますし,進学や就職のことを考えたときでも,そのネットワークは有利とは言えないまでも不利には働きません。特に博士課程に進みたい修士学生で,今とは違う大学院に入りたいと思っている人は,自分を売り込む場,顔つなぎの場として積極的に活用すればいいと思います。
 このように知り合いを増やすためには,やはり自分が発表者にならなければ意味がないと思います。「こんな研究をしているヤツ」として覚えてもらうのが一番だと思います。学会では発表はしないけど顔は出すという院生もいますが,大御所ならいざしらず,ぺーぺーがそんなことをしても,あまり相手にしてもらえないと考えたほうがよいでしょう。やはり学会という集まりですので,参加する者として研究者と話をしたいと思っています。それぞれが持っている知識や研究成果を突きあわせて,その上で話をしたい,そんな仲間を見つけたいというのが本音でしょう。私も,学会の場で一方的な伝え役にはなりたくないと思っています。2,3年,同じような内容の発表を繰り返していると,段々と顔と研究内容を覚えてもらえるようなります。
 こんな感じの学会ですが,時々院生を見ていて思うのが,「つるんで動くな」ということです。ご飯を食べる時とかは別ですが,友だちと一緒じゃなければ動けない,みたいな感じを持たせてくれる院生がいます。自分が発表をしているときに二人連れであらわれて,その内の一人だけが質問をして後の一人はそれが終わるのを待っている,みたいな時です。せっかくの機会なんだから,おまえら一人で行動しろよ,と思うのですが。そうしないとなかなか仲間もできないよ,と言いたくなります。年に1回程度しかない集まりですので,それをどのように使えばいいのかをよーく考えてみてください。

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●論文について

 研究業績として評価の対象となる主たるものです。学会誌に自分の論文が載ることで,研究者としての第一歩がしるせたと考えてよいでしょう。博士課程を修了するまでに,学会誌に2本の業績を持っていたら,かなり有望な院生として全国的に認知されると思います。またそれくらいの業績を持っていれば,博士の学位を得ることが可能でしょう。研究者としての就職を考えれば,これがかなりの力を発揮します。
 まず博士の学位論文ですが,以前は何十年も研究を続けてきた人の業績に対して贈られるものでしたが,現在は研究者としての一つのライセンスのようになってきています。10本,20本の研究を1冊にまとめあげたものに対して贈られるという位置づけから,5,6本の研究をきっちりとまとめたものに対して贈られるものに変わってきています。学位がとりやすくなったことから,その貴重さは失われた反面,それを持っていれば研究者としてなんとか独り立ちできたことの証明のような役割を果たすものになっています。そのため,研究者として就職しようとした場合,学位を持っていることは特別有利な点にはならなくとも,持っていないことは研究者としての基準を満たしてないと判断されるような状況になりつつあります。研究者を目指している人は,博士課程を修了するときに学位が得られることを目指してください。少なくとも,博士終了時に取得の目処がついていなければ,今後は就職がさらに厳しくなると考えてよいのではないでしょうか。
 ちなみに,語学が堪能な人は,海外,特にアメリカで勉強してくることをお勧めします。日本でも学位がとりやすくなったとはいえ,それでもアメリカよりも厳しいと言われています。またアメリカの方が,何年か先を進んでいますし,英文で論文を書こうとする人には,周りに英語を母国語とする人が多ければ,それだけ書きやすいはずです。どしどし海外に行って,研究して,認められて,そして自分の道を切り開いていってください(ただし,そうやって学位を取ったからといって,必ずしも就職先が見つかるわけではありませんが)。
 では学位を取得するために何をしなければならないのか。これは簡単です。研究をし,それを発表し,発表したものをまとめればよいのです。ただそれだけです。簡単でしょう。
 でも,これがなかなか難しいようです。研究は,論文として発表した時点で一応の終結をみると考え,そのように行動している人には,それほど重大なことではないのですが,そのような人は珍しいようです。研究を,調査をするとか実験をするという行為と考えている人には,論文に仕上げることがとてつもなく大きなハードルとなっているようです。私個人の話で申し訳ないのですが,私の場合研究を計画する時点で,どんな論文に仕立てたいかというシナリオが頭の中にあります。だから,その結果が得られれば,すでにあるシナリオに沿って分析し,書いていけばいいわけです。当然,うまく行かないこともあるのですが(確率としては半々といったところでしょうか)。卒論の研究をするときと同じと考えればよいのです。論文にするということを前提にして研究をすれば,それほど難しいことではないように思うのですが。
 私は修士のころ,論文にまとめることを前提にして研究をするように,周りの人から言われてきました。だから,そういう思考回路が自然に自分の中にでき上がっています。時に,次の研究を進めるための研究をしているという院生がいるのですが,これは完全に間違っていると思います。次の研究を進めるための土台となる研究でも,それが新しい発見ならばきちんと論文にするべきです。もしそれが新たに論文にするだけの価値のないもの,つまりすでに一般的知識になっているのならば,そんな研究はしないで,早く次の研究にとりかかればよいのです。すべて一から自分で確認しないと気が済まないという人もいるでしょうが,まあそう考えるのならば,一生そうやっていればいいでしょう。止めはしません。日の目をあびることも,もしかしたらあるかもしれませんので。
 それから,自分の研究の価値を自分だけで判断しようとする人もいます。せっかくの研究を,こんなレベルでは発表するに値しないとかと自分で判断して論文にしない人です。私は,基本的に,論文としての体裁が整えば(理論展開に矛盾や飛躍がなく,手法,結論を通して首尾一貫していること),それは充分に論文として発表するだけの価値は持っていると思っています。論文の価値自体は,公開して,それを読んだ人が判断するものだと思っています。公表してもいないのに,自分で論文自体の価値評価ができるくらい優れた人はそうはいないでしょう。またそれくらい優れた人ならば,最初から論文にできるような研究をしているはずです。後になって反省するような研究をするはずがありません。自分には,まだまだ力がないと思っている人こそ,多く論文を書いてそれを世に問うべきです。結果を得て,それを公表するかどうか悩んでいる人には,「あなたにそれを判断するだけの力はないから,さっさと公表してしまいなさい」と言いたいのす。英文雑誌がそのような傾向を持っています。うなってしまうほど面白いものがあったり,体裁は整っているのだけど,読む時間を損したと思うものまであるということは,院生なら経験上知っていると思います。論文というのは,それくらいのものだと思っておいたほうがいいでしょう。
 院生なら,当然のこととして論文を書きなさい。修士課程だ博士課程だという区別はしません。研究は論文にするものだと思ってください。そう信じて研究を続けられれば,いいこともあるでしょう。

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●マイナー大学院修士課程にいて研究者を志望する場合

 マイナーという言い方は,ちょっと語弊があるかもしれません。傍流なども考えてみたのですが…。大学に籍を置く研究者を多く輩出してきた(現在も輩出し続けている)大学院をメジャー,そうでない大学院をマイナーと呼んでおこうと思います(別にメジャーがエラくて,マイナーがエラくない,という意味ではありません)。このマイナー大学院に在籍している人の中には,将来的に研究者になりたいと思っている人が多くいると思いますし,その可能性もあると思います。ただし,マイナーであるが故の注意点もあるように感じていますので,書いておこうと思います。
 自分の在籍している大学院がメジャーなのかマイナーなのかは,修了生の行き先を見ればわかると思います。ここでは,修士課程のみの設置であれば,どこであろうとマイナーです。博士課程を持っていて,年に一人,少なくとも隔年くらいに一人以上は研究者として就職している修了者がいるところであればメジャーと区別しておきます。おそらくメジャーに該当するのは,旧帝大(北大,東北大,東大,名大,京大,阪大,九大)と旧高等師範(筑波,広島),それに歴史のある大手の私学(早慶をはじめとするが,10校はないような…)くらいでしょう。ただし,これらの中でも苦戦しているところは多いと思います。それ以外の大学院なら,マイナーに該当すると思って読んでください。
 修士課程しか持っていない大学院に在籍している人,博士課程は持っているが歴史がなく,修了者がODとして溜ってしまっているような大学院にいる人は,もし研究者を目指すのであれば,博士課程をメジャー大学院で終えることが得策でしょう。めちゃめちゃ優秀であり,顔が広く,各大学に「こいつが欲しい」と思ってもらえるような院生になれれば,それほど問題になることは無いと思いますが。
 私自身,大学院は神戸大学大学院の教育学研究科でした。神戸大学では独立大学院として博士課程を設置していましたので,実質的には修士課程のみの大学院でした(現在は改組されて,博士課程もできていますが)。設置されてから10年以上が過ぎようとしていましたが,先輩の中で他の大学院に進まず就職されていたのは心理系でたぶん2名だけ(それも悪戦苦闘の結果;○○さん,△△さん,お許しを!)という状況でした。草野球クラスとはいいませんが,マイナーな大学院でした。そこで言われたことは,博士は外(つまりメジャー大学院)へ行けということと,研究の世界で勝負したかったら,マイナー大学院にいるのだから,メジャー大学院の院生よりも多くの業績をつくれということでした。
 素直な私は,この助言にホイホイと躍らされてしまったわけです。神戸という大学自体に思い入れがありましたし,自分が勝負したいフィールドで他の院生には負けたくはなかったのです。神戸大学の私を売ってやろうという,妙な意気込みがあったのです。そう思いながら学会誌をめくってみたら,大学院生で論文を発表している人はメジャー大学院といえども,たいして多くない(極めて少ない)ことに気づきました。メジャー大学院の院生に負けないためには論文を書くしかないという助言にも躍らされ,また幸いに論文指導をしていただける先生・先輩もにも恵まれ,修士のうちに学会誌に2・3本,大学の紀要に2・3本の論文を書くことができました。これで自信がついたことは言うまでもありません。学会誌に載ったことで,大学院の入学難易度,格なんかは問題ではないことを確信できました。そしてこの業績が,名大博士課程への入学に役立ったこともまた確かです。
 こんな経験から言えることは,私が周りの人から助言されたことそのままです。博士は外(メジャー大学院)へ行け,研究の世界で勝負したかったら,メジャー大学院の院生よりも多くの業績をつくれ。この2つです。メジャー大学院の後期課程を受験することは自由ですが,相応の業績がなければ,「もう一度修士からやって」と軽く(適切だと思います)言われてしまいます。また大学院によっては,博士課程からの入学は有名無実のような場合もあります。マイナーがメジャーに勝負を仕掛けるのは,けっこう難しいのです。でも,できないことではないのです。
 自分がこのような道を歩んできたからか,マイナー大学院の院生には奮起してもらいたいと思っています。ちなみにメジャー大学院にいる人たちは,マイナー組に引けを取るようだったらリタイアを考えたほうがよいでしょう。設備環境などが全く違うのに,引けを取っているくらいですから。私が特別優秀な学生であったわけではないことは,私の指導教官や知り合いに聞いてもらえればすぐにわかると思います。やたらと負けず嫌いであったことと,いい先生,先輩,仲間に支えられたことだけは自負できます。環境は,ある意味で,自分でつくるものであり,自分で求めるものだと思います。動かなければ,何も始まりません。がんばってください。
 ちなみに,大学入学時の偏差値で大学院のレベル,院生としてのレベルは測れません。大学院は,学部のような東大を頂点としたピラミッド構造は大きくかけ離れています。「私は卒業した大学のレベルが低いから」なんてちょっとでも思う人は,即刻やめたほうが無難です。そう考えたら,絶対に大きくはなれませんので。補足まで。

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●大学教員の仕事

 研究者志望の人にとっての,理想となる職業ではないでしょうか。公官庁の研究機関にも,研究者が所属していますし,一般企業の中でも研究職に近い仕事をしている場合もあると思います。しかし,大学生や大学院生の最も身近にいる研究者は,やはり大学教員であり,一つの目標になる職だと思います。
 私は,大学の教員になりたくて(というか他になりたいものが無かったので)院生をやってきたのですが,なぜなりたかったかというと,やはり自分のやりたいことだけやっていればよさそうで,さらに暇そうだという理想的(?)な面を感じていたからでした。途中から,「何か違うぞ」という感じを持っていましたが,今,実際にその職に就いてみて「えらく違うぞ」と思っています。「こんなはずじゃなかった」という感じを持つことも度々です。そのため,少し大学教員の仕事について知っておいてもいいかと思っています。
 大学の教員には,大きく3つの仕事が与えられています。一つは教育,そして研究,さらに校務です。3つもあるというところがくせ者で,どれかだけを一生懸命やる,というわけにはいかないのです。大学教員は研究者であるというイメージが強いかもしれませんが,それは仕事の一部しか見ていないからです。また教育と研究は同じだろうと考える人もいますが,大学院の特殊講義なんかだと研究と授業を直結することができますが,学部の概論的,入門的な授業となるとそうはいきません。例えば,児童の知的発達を専門にしているからといって,発達心理学の授業でその話ばかりをするわけにはいかないのです。
 さらに校務については,学生には見えにくいものでしょう。私が学部生の時は,水曜日の午後は教授会で先生がいないということくらいは知っていて,校務という仕事はそれくらいだろうと思っていました。ここは,想像と現実の格差をまざまざと見せつけられた点です。実は校務がかなり多い。下手をすると,一日中校務関係の仕事で終わってしまうこともあります。己の事務処理能力のなさにあきれてしまいます。
 そんなこんなで,大学教員が落ち着いて研究できるのは夏休みくらいです。学生にとっては,夏休み同様に春休みが長いのですが,教員には春休みはほとんどありません。後期の試験を採点して,入試関係の一連の業務をやって,新年度の準備をして…で終わっていきます。夏休みが終わった直後から,「早く来年の夏休みが来ないかなあ」と思っているのは私だけではないでしょう。
 また,大学教員の仕事は,学校内の仕事に留まらないというのもあまり知られていないと思います。学外のさまざまな機関から仕事を依頼されることもありますし,学会関係の仕事もあったりします。
 何か,単なるぼやきのようになってきましたが,大学教員の仕事は多様なんだということは知っておいたほうがよいと思います。そのため,研究する力があるだけでは,仕事をし始めると辛いことになります。まずダイレクトに反応がある,教える力について。学生の中には,素直に「先生の授業,面白くない」と言ってくれるヤツもいますし,そういう反応がなくても,授業中の学生の顔を見ていると何となくはわかります。またうわさとして,嫌でも耳に入ってきます。楽しい授業がいい授業,というわけではないでしょうが,自分がどのような授業を展開したくて,そのためにどんな方法を持っているのか,などということも考えておいたほうがよいと思います。
 さらには,事務処理能力。企画・立案,経理,庶務…,いろいろな事務処理をしなくてはなりません。大きな大学(教員数,事務職員数が多いという意味)は,まだましなほうで,小さな大学・短大では人手が少ないぶん,仕事がたくさん回ってくるようです。大学教員は,ホワイト・カラーでもあり,ブルーでもあり,グレーでもあるのです。これをどうすばやくこなすかで,自分の研究にあてられる時間が変わってきます。
 私には研究する力はあるけど,他は…,という人は研究者向きではありますが,大学の教員向きではありません。本当に,職業として大学教員を選びたい人は,指導教員にでも仕事内容を聞いてみることをお勧めします。想像とは違った,大学教員という実際の職業が見えてくると思います。

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●研究したいから大学院に進むというピュアな気持ちの人へ

 ここでいうのは,大学院での研究と就職を,全く切り離して考えている院生,特に進学希望者のことです。就職が無いことはわかっているけど,もっと研究を続けてみたい,というピュアな好奇心を進学動機としている人に向けています。当然,終了後の就職先が無くても,なんとか生活できる基盤のある人ということになります。就職を先延ばしするための進学という人は,これにはあてはまりません。あくまでも,そんな人は進学すべきではないのですから。
 純粋に研究したいというような志望動機は,素晴らしいと思います。どうぞその気持ちを持ち続けてください。そして,どんどん研究を進めていってください。そんなことはないと思いますが,もしその気持ちが途切れたときは,潔く大学院から去ってください。
 進学を勧めているのか,勧めていないのかわからないような文章ですが,実際なんとも言い難いというのが私の気持ちです。勧めたい気持ちというのは,そんな人の方が大きくなれるかなという期待を抱かせてくれるところから来ています。就職しなければという焦りがないだけに,じっくりと研究に打ち込めると思います。そうすれば,おのずと結果がついてくるでしょう。もしかすると,こんな人に先に就職口が回ってくることになるかもしれません。
 一方で,勧めたくないという気持ちもあります。それは,最初のピュアな動機がいつまで続くかという点に?を感じるからです。研究をやっていると,教員や先輩,同級生,そして後輩からも,鋭い突っ込みが入れられると思います。それに応えながら研究は進んでいくのですが,ピュアな動機が自己満足の世界で完結している人にとっては,これは辛いことになると思います。私は私だからほっといて,という態度では大学院の雰囲気をブチ壊してしまいますし,いじけられても扱いに困る。それを敵意と勘違いして反撃に出られるとどうしようもない,ということになります。自分の研究・興味を,大事に大事に思いすぎている場合は,このあたりが怖いなと思ってしまうのです。
 それから,先に「もしその気持ちが途切れたときは,潔く大学院から去ってください」と書きましたが,これも大事だと思っています。その動機が無くなったとき,その人にとって大学院にいる意味は消滅します。消滅したら去ればいいのですが,「退学」を体裁が悪いといっていやがる場合もあるでしょう。研究する集団である大学院生の中に,意を同じくしない人がいることは,あまり望ましくないと思います。特に,周りを巻き込んでしまうタイプの人は。
 やっぱり,書いていて難しいです。勉強したいだけならば家ででもできるし,院生ではなく研究生や聴講生という手もある。なぜ大学院なんだろう,と思ってしまいます。大学院に行かなければ満たされない好奇心って…?。

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●なぜ研究者志望者にメジャー大学院を勧めるのか

 わざわざ言うまでもないことだとは思いますが,理解の仕方を間違えると,とんでもない勘違いにつながりかねないことです。間違ったら最後ですから…。なぜ研究者志望者にメジャー大学院を勧めるかは,推測通り「人」の要因があるからです。人脈,コネクションと理解してもらってもいいのですが,だからメジャー大学院が就職に有利という単純なものではありません。
 研究上の話からしましょう。「メジャー大学院はマイナー大学院よりもよい研究者がそろっている」ということは,半分当たっていて,半分外れています。マイナー大学院にも素晴らしい研究者,指導者がおられます。ただし,スタッフの人数が多く,そのために専門領域の広さがマイナー大学院よりも充実していると思います。やはり多くの人からあらゆる刺激を受けられる環境というのは,特筆すべき点だと思います。またメジャー大学院は総合大学ですので,他領域との接点を研究している人にはよい環境ともいえます。さらには,そこの修了生に研究者が多いことは,研究研究交流も盛んであることにつながります。研究会を開催する母体となったり,会場となったり,その地域の研究交流の接点の役割を果たしている場合が多いのです(これが煩わしい場合もあったりするのですが)。そんな集まりが身近にあれば,さまざま人たちとの交流をはかり,知り合いを広げていくことができます。
 もう一つ,研究者を目指す院生が多いということもメリットです。そのような目標を持っている人が多い中でやっていくのと,周りが研究者以外の就職を目指す中で,一人で研究を進めるのとでは大きな差があります。また実績を持つ先輩がいれば,その人から多くを学ぶことができるでしょう。指導教員には聞きにくいようなことでも気軽に聞けますし,より丁寧な指導を受けることもできるでしょう。ただし,比較の対象が身近にいることは,自分の位置をいやというほど思い知らされる結果にもなります(社会心理学にこんな話があったような)。このような状況を自分のためにうまく使えない人には,辛い状況になるかもしれません。
 つまり,研究の重要なポイントである交流・指導が,こっちから出向かなくても,向こうからやって来るというような状況がメジャー大学院にはあります。利用できる人的資源が,マイナー大学院とはずいぶん違うと思います。マイナー,メジャーの両方を経験した結果,これは歴然としてあると感じました。
 では,就職についてはどうでしょう。学閥というものも,マイナスイメージを持たれますが,確かにあります。でも,昔ほどその力は強くないでしょう。「自分のところの院生を何としてでも押し込む」というようなことは,ほとんど聞きませんし,各大学の独立性がありますので,そのような強引さは通用しない場合が多いのです。また,下手にそんなことをしてしまったら評判を落とすことにつながるため,無茶はできないという面もあります。
 では,就職の面で有利な点は何かというと,情報がたくさん集まってくる点と,助手というポストを持っている点にあります。「どこどこの大学で人を欲しがっているけど」というような情報が,他の大学院よりも多く集まってきます。大きなメリットなのではありますが,ただそれだけです。メジャー大学院に在籍していたら業績が無くても就職できる,というのは幻想に過ぎません。ある程度の業績を持っている場合に限り,マイナーよりもチャンスが多いということです。助手になるのも,この点はクリアしておかなければなれません。研究していなければ,メジャーもマイナーも同じなのです。

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●文章を書くことについて

 私のホームページを,いろいろと見て回った人は感じていると思いますが,私は結構文章に厳しいほうです。学生にも,ゼミで何を得たかはわからないけど,文章だけは少しはまともになっているはずだ,と言っています。学部生,院生の論文など,だれかのチェックが入る前に目にする機会も多いのですが,到底人様に見せられるものではない場合がほとんどです。いくら研究がすばらしくても,それをちゃんと伝える力(文章力)がなければ,それが日の目を見ることはないでしょう。
 よく思うことに,日本人が英文を書くときには辞書をひくのに,どうして日本語で書くときには辞書をひかないんだろう,という疑問があります。同様に,英文の時は主語や述語といった文法も考えているのに,日本語の時は考えないんだろう,というのも感じます。結局,日本に生まれ日本語で生活している場合,「自分は日本語ができるんだ」という,とんでもない勘違いに気づいていないのだと認識することにしています。そうでないと,日本に生まれ日本語で生活している学生が,全く文意が読み取れない日本語の論文を書く理由が説明できないからです。論文を投稿しても,わけのわからない難癖をつけられてはねられる場合などは,自分の文章は人に何かを伝えるだけのレベルに達しているのかどうかをチェックするべきだと思います。
 こういう私自身,卒論を書いている時や,初めての投稿用の論文を書いている時など,チェックしてくれた人たちから,「全然わからん」とか「日本語じゃない」と言われました。その時は,当然,「何でこれがわからないの??」という気持ちでした。論文を前にして,「そこは,そのように言いたいのじゃない。○○といった意味なんだ。そう書いたつもりだけど」という言葉を交わしていました。これは,明らかにその論文がコミュニケーションの媒介役となっていない状況でした。論文がそういった媒介の役目を果たしているのだということに気づくまでには,結構な量のアドバイスと時間,練習が必要でした。最初の投稿を意識した論文なんて,半年かかってやっと“人に理解してもらえる”ものになり,でも大したものではないと判断してボツにした,という経緯があります。
 でも気づいてしまえば,自分で何とかできるものです。読み返しながら,こう書いたら分からないだろうなあ,なんて作業ができるようになります。最近になって(10年弱,論文や書籍やその他いろいろなものを書いてきた),最初にアドバイスを頂いた先生から,「やっと読める文章になってきたなあ」というお褒め(?)の言葉を頂きました。
 こんな経験を持っているので,文章は練習すれば必ずある程度まではうまくなると思っています。飛び抜けてうまく書けるようになるかどうかはわかりませんが,人に何かを伝えるのに充分な程度まではいけます。でも,練習しない人はまずダメです。学生のレポートなどを見ていて,充分に書く力があると思うようなものは10%くらいでしょうか。名前は公表されているのでかまわないと思いますが,いくつかの学会で論文を審査する機会がありました。何本が読みましたが,「何が言いたいのかわからん」ってこともあります。こちらが,全体の流れから“くみ取って”あげることもできますが,そんなあやふやなものは掲載するわけにはいきません。学会誌に投稿しようとする人の文章レベルもその程度でしかないのだ,ということを認識するよい機会になりました。
 文章を書く力は,研究者になるかどうかを問わず,必要なものだと思います。研究者になりたい人には,それは必須です。でも,多くの人はそれだけの力は持っていないのです。自分の論文とじっくり向かい合う時間があるときに,ちゃんと書ける力をぜひ身につけておいてほしいと思います。それからちょっと余談になりますが,最初の論文は審査があるところに投稿するべきだと思います。無料で書く力の評価をしてもらえるのですから。

後日の追記:確かに最初の論文は審査があるところに投稿するべきなのですが,査読をいくつか引き受けてみて,査読する方の苦労もわかりかけてきました。適切なコメントをしようとすると,こっちも本気で読まなければならないのですが,論旨がつかめなくてどうコメントしていいか迷うようなものにも出会うのです。おそらく,本人以外だれも目を通していないのだろうと思います。少なくとも最初の2,3本は,指導教員や仲間内でチェックを受けてから投稿したほうがいいでしょう。悪い印象を与えないためにも。

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●就職(大学教員:再び)

 大学教員の予備軍は,大勢います。主たる予備軍は大学院生。大学院を修了し,研究生(オーバードクター)や学術振興会の特別研究員となっている人たち。それから,特定の大学をはなれ非常勤講師を主として生活をしている人たちなどです。総勢でどれくらいになるのかわかりませんが,数千の単位で存在していると考えてよいでしょう。日本で心理学関係学会の会員数を見てみると,実験・調査系が多い日本心理学会で約6000名,臨床系が多い日本心理臨床学会で約7000名(正会員),両者ともに所属している会員も多いと思いますが,10000人近い人たちがいるのではないでしょうか。その中で,大学教員以外の人は大学教員予備軍と考えてよいでしょう。そこから,すでに大学に職を持っている人を差し引いた残りの人数中で,年間に数十あるかどうか(もう少しあるかも)という新任の席を奪い合っているのです。大学教員になりたいんだけれども,どうしてもなれないという人たちが“必ず”出てくるのです。
 このページの文章の中で,何度も「考え直せ」「リタイアしろ」「やめろ」というような言葉を使ってきました。それはこの現状があるからです。勧められるわけがありません。大学教員という職業は,完全に買い手市場なのです。もし売り手市場であれば,こんなことは書きません。どんどん志望してくださいと書きます。−でも,本心はどんどん志望してほしいと思っています。そうやってすそ野が広がって,人間的にも,研究の面でも,教育の面でも,特に優れた一部の人たちが大学教員になれば,それが大学や学生にとって最も望ましい状況だと思っています。ただ,そこには多くの屍が転がることになると思いますが− さらに,修行時代(院生時代)が長くなるため,進路を他の職にかえることが難しいという事実も一因です。高学歴,高年齢という過去に対するプライドが職業選択の幅を狭くする可能性がありますし,採用する側にとっては,高学歴,高年齢,おまけに社会人経験なし,というのでは話にならないという印象を与えます。足を踏み入れたら最後,いくとこまで行って席をもぎとるしかない,それが叶わなければ…という傾向が非常に強い世界なのです。だから甘っちょろい希望や動機で進む道ではないのです。やるのであれば,願いが叶わない場合もあると腹をくくってかかるしかありません。
 「大学教師はパートでいいのか」(首都圏大学非常勤講師組合編,こうち書房)という本があります。非常勤講師の人たちの,切実なぼやきが詰まっています。個人的には,主張内容に全面的には賛成しませんが,好む好まざるにかかわらず,非常勤講師を生業としている人の実情を知っておいてもいいと思います。大学院を終了後,このような非常勤講師を続け,自分の生活をたてていかなければならない場合もあります。その時,自分ならどうするか,あらかじめ肝に銘じておいてもよいでしょう。
 メジャーな学会誌に5本も6本も論文を書いていて,それでも常勤職の口がないというケースは,心理学の領域ではまれでしょう。よく論文を見かけるなと思う院生は,程なく職に就いていきます。これは,ある意味で,やったら報われることを示しています。近い将来であれば,この状況は続いていると思います。きちんと結果を残していれば(ただし,人並みにという意味では決してなく,人並みよりもずいぶんです。人並みなら,まずアウトです),それを見てくれている人が必ずいると思います。そして,人間的に問題がなければ,きっと誰かが声をかけてくれると思います。そう信じてがんばるしかないのです。

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●院を目指す社会人の方へ

 このHPが,2001年6月号の「エグゼクティブ」誌で紹介されました。「大学院進学の心構えはエグゼ読者必読」なんて書いていただいたので,ちょっと社会人のことも触れておくべきかなと思って書いています。
 私の基本的な考え方は,おすすめするか,しないかと迫られれば,若干ですが“おすすめしない”方に傾いています。その理由は簡単で,心理学の場合,大学院に行かなければ得られない知識は少ないと思うからです。修士課程の2年間で支払う授業料を考えれば,それで本などを買ったほうが,より多くの知識を身に付けることができると思うのです。また,学校に行けば,やはり甘えが出てきます。「授業に出ていれば」とか「課題をこなしていれば」とかといった幻想や,「教えてもらえる」といった甘えです。社会に出たことのない学生ほどの依存症候群にはならないでしょうが,それでも少しは頭をもたげてくる感情ではないでしょうか。それともう一つ,「私は社会人だから」という甘えも出てきます。「社会人だから時間が無い」というやつです。これが出てきたら,すべてがおしまいになるでしょう。
 基本的に大学院では,学生をほったらかしにしています。手取り足取り,なんてことは期待できません。有名大学院の方が,この傾向が強いのではないでしょうか。なぜなら,スタンスが“研究は学生自身がやっていくこと”であるからです。「私は門外漢なので,もう少し基礎から教えてほしい」なんて要求があるかもしれませんが,おそらく現在の多くの大学院では無視される要求ではないでしょうか。なぜなら受け入れ側は,“大学院を志願した者を受け入れた”と考えているからです。私ならば,「大学院で学ぶ基礎知識を持っていないと思っているのならば,なぜ大学院を志願したの」と問うと思います。「それなら学部を志願すればよかったのではないでしょうか」と言って終わりにするでしょう。
 こう言うと,「ならば,なぜ合格させたのだ」と追及されるかもしれません。答えは簡単です。試験の成績上は,合格ラインをクリアしていたからです。試験の成績は,その後の学習を保証するものではありません。あくまでも,試験時点での評価でしかないのです。教員はその後の学習をフォローする必要がありますが,勉強する本人の努力の方が大きいことは言うまでもありません。「私は社会人だから時間が無くて勉強が進まない。だけど試験に合格したのだから私は理解できて当然だ」なんて自己都合の主張は通らないのです(当たり前か)。
 社会人と大学院の関係をどうとらえるかですが,私の考え方を書いておきます。まず,自分のキャリアの中で心理学を勉強したことがない場合は,学部への編入を考えるべきだと思います。通信教育もいいでしょうし,聴講生などの方法もあります。まずこれをやってみる。そして,学問としての心理学をじっくりと知ることが先決です。「興味があります」「困っています」で“大学院”に行くなんて短絡的過ぎます。「心理学のことはあまり知らないけど,臨床心理士になりたい!」なんて思った場合でも同じです。
 キャリアの中で心理学をかじったことがあって,さらに何か知りたいことがある,解決したい問題がある場合,大学院への進学を考えるべきでしょう。こうなると,どのような情報を集めればよいかも簡単です。自分のやりたいことができるところを選べばよいのです。当然,受験を決める前にそこへ行き,何人かの先生と話をしてみて,自分のやりたいことがそこでできるか,サポートは受けられそうか,ということを確認することは必須です。受験生の義務だと思ってやってください。このような話をしていると,自分のやりたいことが大学院でできるわけではないことに気づいたり,別の専攻が扱う問題であることがわかったりもします。これは決定的に重大な問題なのですが,そこまでしないとわからない問題でもあります。注意。
 こうやって大学院に入れば,それほど大きな問題は起こらないのではないかと思います(言い過ぎ?)。後は本人の努力次第。先に甘えのことを書きましたが,これを押さえつけながらやってください。大学院は,学生が主体的に学ぶ場です。入学は,場を確保できたというだけです。成果は自分でつかむものです。くれぐれもお忘れにならないように。

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●教育ファシリテーション専攻についてのスタンス

 ずっと黙っていた本学の大学院計画。もちろん,認可前だったので下手に情報を出してしまうわけにもいかないということで,これまではまったく触れませんでした。「あれだけ言ってたうらかみは,自分のところはどう言うのだろうか」と,興味津々で待っておられた方もおられるかもしれません(?)。これで制約がとれたので,ちょっと書いておこうと思います。
 私が参加するのは,教育ファシリテーション専攻という名称のところです。教員はもちろん,企業や団体で,教育にかかわる人たちのスキルアップに最も焦点があてられています。もちろん,単に技術というだけでなく,その理屈である裏側にあるものとセットでということです。研究者養成は,私的にはまったく考えられないし,授業もそのような方向ではやらないつもりです。スキルアップというか,経験主義から良い意味で抜け出し,理論ベースに再編成し,実施した後に反省と改変が可能になるような設計ができる力を身につけられるようにやっていこうかなと思っています。めざせ日本一厳しい授業?。
 まあ,私が担当する科目のことはさておき,この専攻はどうなのか。私は,学部の紹介の時も同じスタンスですが,「誰でもぜひ来てください」とは言いません。「こんなものをやってますよ」と紹介はしますが,後はお好きに選んでくださいスタンスです。他の大学院の中に紛れ込まないだけの特徴はあると思います。それを大事にしていこうという教員間のコンセンサスはあります。だけど,大学院としての実績はありません。全く新規なものなのであたりまえですが。
 このようなところなので,それでもよければ(それがよければ),どうぞいらしてくださいという感じです。もちろん,誰にでもお勧めできるところではありません。研究する意欲と,そのための時間がつくれる人に限ります。

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