シリーズ懇話会 第2回「脳ブームの正体」講演記録

 2010年6月5日(土)に、シリーズ懇話会の第2回として、大阪大学大学院の藤田一郎教授による講演、「脳ブームの正体」がありました。懇話会には学部生や一般の方なども含め、57名の方が参加され、質疑応答も活発に行われました。以下は講演内容の記録です。


 講演ではまず、藤田先生が脳ブームについて発言するようになった経緯が紹介された。ここ数年、脳に関する本が数多く出版されている。その背景には、脳に対する一般の人々の強い関心があり、また、ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)など、脳科学を応用した技術の開発が進んでいることがある。しかし、2003年頃から、脳に関する誤った言説が目立ち始めたが、専門家は黙認を続けていた。そのような状況の中で、藤田先生は、ニセ脳科学が脳科学そのものの信頼性を損なうのではないかという危惧から、2006年頃から問題点を指摘し、その内容を発信し始めたところ、大きな反響があり、最終的には2009年に『脳ブームの迷信』を出版するに至った。

 つぎに、ニセ脳科学の一例として、単純な計算や読み書きで脳を鍛えることができるといういわゆる脳トレ理論が検討された。脳トレ理論には、根拠とされるものが二つある。一つは、単純な計算や読み書きによって脳が「活性化する」ということである。しかし、ここで言う「活性化」とは、脳のある部位の血流量が一時的に増加した(賦活した)ということを意味するにすぎない。そこから、単純な計算や読み書きによって脳の機能が向上するとか、日常的な意味で頭が良くなるということを、ただちに結論づけることはできない。各種の脳トレ商品につけられた説明は、この点で消費者の誤解を招きやすい。

 脳トレ理論の第二の根拠としては、認知症患者を対象とした学習療法研究の結果がある。認知症患者に単純な計算や読み書きを定期的に行わせたところ、前頭前野の機能を測定するテストの成績が向上したというのである。しかし、ここで脳トレ理論の根拠として挙げられる研究では、対照条件が適切に設定されておらず、テストの成績が向上した理由が、脳トレを繰り返したことにあるのか、それ以外の要因(周囲の人とのコミュニケーションが増加したこと)にあるのかは、明らかではない。

 結局のところ、脳トレが脳の機能を向上させるという主張には、確かな証拠はないのである。

 最後に、脳トレをはじめとしたニセ脳科学情報が流通する現状についての考察があった。第一に、ニセ脳科学情報が流通する背景には、日本人が信頼性のない情報に寛容であるという事情があると考えられる。そして、そのような国民性は、メディアの画一性によって助長されていると考えられる。第二に、脳研究者は、自らの研究を進めるために研究費が必要であり、そのためには脳科学の有用性を国や世間一般に訴える必要がある。このことも、脳に関して誇張された情報が流通する一因である。これらは脳科学に固有の問題というよりも、自然科学全般が抱える問題であり、ニセ脳科学、ニセ科学を一掃することは困難であると思われる。

 とはいえ、脳研究者は、誤った情報を是正する取り組みを進めるべきであり、脳に関する情報を伝えるマスメディアは、情報の信頼度をあげる努力が必要である。また、私たち個人個人は、まやかしの情報やインチキ商品から身を守るために、世間で流通している脳に関する情報にたいして、少しだけ理屈っぽい態度で接することが必要である。


 以上が講演の概要である。続いて行われた質疑応答では、以下のような内容が論じられた。

 まず、刺激を与えることで脳が(通常の意味で)活性化する可能性はないのか、という質問があった。これに対して、藤田先生からは、脳が刺激によって発達することは事実だが、問題は、加齢や認知症などで認知機能が低下したときに、脳トレなどによって進行を止めることができるかということである。そして、このような可能性はあるが、現在のところ証拠はなく、これから確かめることが重要だという回答があった。

 次に、脳の「活性化」に関する説明は詐欺に近いのではないか、という質問があった。これに対しては、商品を発売している企業は、あくまでもゲームとして発売しているというスタンスである。また、脳トレ商品には実害がないため、司法の場で問題とされる可能性は低いだろうという説明があった。

 次に、脳研究者が脳トレを含めたニセ脳科学情報の流通に手を貸すことになっていることの動機は何なのかという質問があった。これに対しては、科学研究は成果を得るために長い時間がかかるのに対して、医療や介護の現場では理論よりも効果が優先される。認知症の予防などの場面では、このような発想が脳研究者に働いているのではないかという説明があった。

 さらに、賦活は脳によい状態か、という質問があった。これに対しては、「使えば使うほどよくなる」ということは、脳に関しては成り立つ場合と成り立たない場合があるということ、また、言語能力などに関しては、能力が高い人ほど使用する脳部位は少ない場合があることが知られており、多くの部位が賦活することは、脳の機能が優れていることを必ずしも意味しないことなどが指摘された。

 最後に、ニセ脳科学に対して、脳研究者からの組織的な対応はあるのかという質問があった。これに対しては、ほとんどないという説明があったうえで、その理由として、ニセ脳科学を批判する側は、ニセ脳科学を推進する側と比べて、法的にも経済的にも圧倒的に不利な立場にあるということが指摘された。


 以上のような講演および質疑応答を通じて明らかになったのは、以下のような脳科学ブームの問題点や課題である。第一に、現在の社会にはさまざまなニセ科学が流通しており、ニセ脳科学にどのように対処すべきかを考えるためには、ニセ脳科学には、ニセ科学としてどのような特徴があるのかということを明確にする必要があるだろう。第二に、現在の日本社会は、ニセ科学を批判する側に非常に大きなリスクや負担が生じる構造になっており、ニセ科学に対処するうえでは、社会全体としてこの構造をあらためる必要があるだろう。第三に、このような現状では、個人個人がニセ科学から身を守ることを心がけるしかない。したがって、われわれが生活するうえで注意すべき点や、誰でも実践できる心がけとは何かを具体的に明らかにする必要があるだろう。