神さまのお風呂



私がこれまで経験したことや、自分なりに考えていることで
キリスト教に関連しているものを、少しお話ししたいと思います。
あまりお役に立つお話しではありませんが・・・





<1> ジョットーのスケ番マリア様


 アメリカのワシントンDCに留学していたとき、私はよく美術館に行って絵をながめた。こう言うとなんだかとても高尚な趣味をしているようでかっこよい。ふふふ。
ワシントンDCには立派な美術館や博物館が多数ある。そしてすばらしいことに、それらの多くは無料なのである。無料ですぞ無料。世界的な名画の数々が、歴史的に貴重な資料が見放題なのである。ついでに夏はクーラーも浴び放題なのである。そういうわけで、美術館にはたいへん気楽に入れたのであった。まあもっとも、たいていの絵や資料なら一度見れば満足で、しばらくは見なくてもOKなのである。それなのに私が何度も美術館に行ったのは、ただ1枚の絵を見るためであった。




これがその絵である。ナショナル・ギャラリー・オブ・アートに展示されている、ジョットー(Giotto)のMadonna and Child (おそらく1320年から1330年ごろの作品)。実際の大きさは85.5 x 62 cm。大きめのポスターくらいのサイズだ。作品の詳細についてはどうかここをごらんあれ。

初めてこの絵を見た時、私はかなりショックだった。悪い意味で。なんでマリア様がこんなに恐い顔をしてなければならんのだ?キリリとつり上がった眉毛、ギロリと睨んでいるスルドイ目ざし。これではまるでスケ番ではないか。更に驚くべきことには、その胸に抱いている幼子イエスのおでこにはなんと剃りコミがはいっているのだ!ツッパリのイエス様である。なんというすばらしい調和。首尾一貫性。しかし・・・極道親子かいこれは!


聖マリアと聞けば、おそらくは誰しもが、可憐で美しくやさしい顔の女性を思い浮かべるのではなかろうか。たとえば、




こういう感じである。いやぁきれいだな〜。幼子も柔和なお顔をしていらっしゃる。ちょっと上の幼子と比べてごらんなさい。うっコワ〜。

・・・と、まあ、私のこのジョットーの絵に対する第一印象はすこぶる悪かったわけなのである。そしてその日はただそれだけでさっさと家に帰ったと思う。そのときには特に興味のある絵でも好きな絵でも何でもなかった。

ところがそれから数日・・・なんというか、忘れられないのだ、この絵のマリア様が。どういうわけか気になる。そこで私はもう一度この絵を見に行った。そして絵の前に立ってしばらくの間じっと見つめてみた。そして見つめながら考えた。天才画家ジョットーはいったい何を表現したかったのだろうかと・・・。

ふと私は、マリア様とはどういう人だったのかということを考えた。救い主の母、神の母、聖母として讃えられ崇敬されているマリア様であるが、実際にこの世に生きた生身の人間としてのマリアはどうだったのか。その人生は実は非常につらく悲しいことの連続だったのではないだろうか。

マリアはきっと心の優しい美しい少女ではあったであろうが、ナザレという小さな田舎町のごく普通の女の子であった。しかしこの少女は平凡無事な人生を送ることはできなかった。人類を救うメシアの母として神に選ばれてしまったからである。その選びは、喜びに満ちたことでは全然なかったであろう。むしろ苦難と悲痛がそこから始まった。愛する息子イエスは権力者たちに憎まれ、民衆から誤解され、裏切られ、ついに反逆者として捕らえられ悲惨な死を遂げる。マリアの苦しみと悲しみはいかばかりであったろうか。母マリアはイエス・キリストと共に苦しみに満ちた道を歩んだのである。イエスの死後はその弟子たちがマリアの心の支えとなるが、キリスト教への迫害がしだいに激しくなり、結局みんな殺されてしまう。普通に考えるなら、これは悲惨極まりない人生である。しかしマリアは決して絶望も挫折もしなかったのだ。人類に救いをもたらすイエスをマリアは純粋な心で信じ続けたのである。控え目で静かなこの女性は、悲しみの涙にむせびながらも常に毅然として立っていた。

マリア様の顔をじっとしばらく見つめていた私は、逆にマリア様に見据えられているような気持ちがしてきた。そして、驚いたことに、それまで恐いと思っていたマリア様の顔が、なんともいえない優しい顔に見えてきたのである。自分を睨みつけているように思えた目が逆にニッコリと微笑んでいるように見えてきた。実に不思議な気持ちであった。上の写真では分かりにくいが、ジョットーの原画は色あいがじつに鮮やかで柔らかく、顔や手も生き生きしている。まるでそこにマリア様本人が現前して微笑んでくれているようにも思われた。

そうだジョットーは正しい。私は思った。マリア様はこうでなくっちゃ。マリア様は決して弱々しい人でもなければ、へらへらと無責任に笑っている人でもないのだ。生きる悲しみもつらさもすべて分かっていて、しかもそれに負けない、強くて優しい女性なのである。ジョットーの描いたマリア様はまさにそういう女性なのではないだろうか。人の弱さを全部見抜き、それをじっと見つめながら、「辛くてもがんばりなさい」と励ましてくれる、お母さんなのである。全ての人の母なのである。それ以来私はこのマリア様が大好きになった。そしてこの絵をみるために何度も何度もナショナル・ギャラリーを訪れた。そしてその顔を見るたびに力づけられた。


十字架の木にくぎづけにされ
高くあげられあざけられ
あえぎ苦しむ子のもとに
涙にむせび母は立つ



(高田三郎作曲「スタバト・マーテル」より)

(2003年7月22日)






<2> 愛の空気


愛はある意味、空気に似ていると思うことがある。

なぜか?

まず空気と同じく愛は直接目には見えない。だから、いつもはあることを忘れがちだ。両親の愛、家族の愛、恩人の愛、友人の愛。それがなければ生きてゆけないほど大切なものなのに、いつもはそれがあるのが当たり前になっていて、その存在を忘れている。でもそれが欠乏した時に、私たちはその大切さに気づくだろう。そしてそのありがたさを身にしみて知るだろう。空気が薄くなった時と同じように。愛は空気のように目には見えないけれども、私たちを包んでいて、私たちを生かしているのだ。

きれいで澄んだ空気はおいしい。山に登ったり、美しい自然の中にいる時など、とてもきれいなおいしい空気を吸って、体が癒される思いがする。でも残念なことに、時々空気は汚染されて汚れてしまう。ちりやほこり、公害などによって、あるいは心無い人のわがままによって。空気が汚れると息苦しくなって、気分も悪くなる。はやくきれいな空気が吸いたいと思う。だから、換気をしたり、植木を置いたり、空気清浄機を使ったりして、空気をできるだけきれいにしようと努力するのだ。誰もが本当はきれいな空気を吸いたいから。

愛の空気も汚染されると思う。愛の空気を汚すのは、憎しみやねたみ、悪意、差別、傲慢、利己主義、意地悪などである。愛の空気が汚れていると、心が晴れない。なにか息苦しい嫌な気分になる。たとえば意地悪な人といると気分が悪いし、利己主義な人と一緒に仕事をするのは疲れる。人が憎み合い、傷つけ合う姿なんか、見たくもない。最近は、戦争やテロ、悲惨な傷害・殺人事件が多発しているので、愛の空気はずいぶん汚れてしまっているんじゃないだろうか。

空気が清浄機などによって浄化されるのと同様に、愛の空気も浄化されることができると思う。私たちの愛の心と行いによって。私たちひとりひとりの小さな愛の心が、小さな思いやりが、小さな親切が、愛の空気を少しずつきれいにすると思う。ひとりひとりの力は小さいけれど、世界を包む愛の空気はきっと少しずつ浄化されてゆくんだと思う。愛のはたらきをする人が少しでも多くなれば、愛の空気はその分きれいになってゆくだろう。どんどんきれいになっていったら良いなあと思う。誰もがきっと本当はきれいな愛の空気に包まれていたいはずだから。そして誰もがきっと優しく温かく嬉しい心でいたいはずだから。

(2004年7月10日)






<3> 神さまのお風呂


私は温泉が大好きだ。特に露天風呂が好き。広い海が見える温泉、小川のせせらぎが聞こえる温泉、木立の中にひっそりある温泉、あるいは雪景色の中の温泉、いろいろな温泉があるが、温泉に入るといつも私は、自分が自然の恵みに生かされていることを感じる。地中深くから湧き出るお湯にありがたく身を浸せば、身体はシンから温まり、疲れが癒され、元気になる。温泉はまるで不思議な命の水のようである。

時々思うのだが、キリスト教で言う「神さまの愛」というのは、この温泉のようなものなのではないだろうか。キリスト教では、この世界は神さまの愛によって造られ、その無償の愛によって支えられているとされている。神さまの愛は、温泉のお湯のように、この世界の中に、目には見えないが実はとうとうと流れていて、いろいろなところから湧き出ては、人を温め、癒し、命を与えているのではないかと思うのだ。

神さまの温泉が湧き出てくる出口は、それぞれの人の心の中にあるのではないかと思う。愛は心のなすわざであるし、人にはみな愛する能力が心に与えられているからだ。人は神さまの愛によって存在を受け、愛に生かされ、愛に育てられて成長する。愛を心に持ち、愛の行いに生きることこそが人間にとって一番大事なことだと、キリスト教では教えられている。

心に神さまの愛の温泉が沸いているなら、その人の心はぽかぽかと温かいだろう。そしてその温かさは、その人を温めるだけでなく、その人が接する他の人をも温めて、その人の心の温泉も湧き出させるのではないかと思う。そのお湯は自分の力で生み出したのではなく、神さまからいわばタダで与えられたものだ。だから見返りを得ることなしに他の人と分かちあう方がいい。これが無償の愛ということなのではないだろうか。みんなの心に神さまの温泉が沸いて、みんなが温かさにつつまれたなら、どんなにこの世界は明るく平和になることだろう。








さて、神さまの愛が温泉だとしたら、教会は、すなわち町の銭湯のようなものだと言えるのではないだろうか。銭湯が身体を洗い清める所であるのに対し、教会は心を洗い清める所である。それだけではなく、銭湯も教会も、どちらも疲れを癒し、元気になるための場所だ。そしてそのために一番大事なことは、銭湯では身体がしっかりと温められなくてはならず、教会では心がしっかりと温められなければならないということではないかと思う。

また、お風呂に入るときには、誰もが服を脱ぐ。服を着たままでは身体はきれいに洗えない。なにもかも脱ぎ去り、みんなが裸になってお湯につかってこそ、お風呂は気持ちがよいのだ。世間では立派な服をきている人も、逆に粗末な格好をしている人も、裸になれば人間ほとんど同じである。お風呂を楽しむことにおいては、みんな平等だ。

教会も同じだと思う。心をきれいに洗うためには、世間での肩書きや身分、慢心を脱いで、神さまの前でいわば裸にならなければならない。神さまの前では誰もが平等なのだから。いらぬ飾りを取り去ってこそ、私たちは神さまのお湯にどっぷりと浸かることができ、そのお湯の熱にしっかりと温められて、清められることが出来るのではないだろうか。

また、教会という建物が、神さまのお風呂なのではないと思う。一人一人の心から神さまのお湯が沸き出て、みんながお湯にどっぷりと浸かれる所がお風呂なのである。だから、どんなところだって神さまのお風呂になり得るのである。

温泉にみんなで入って、一緒に気持ちよく身体が癒されるように、みんなが神さまのお風呂で、一緒に気持ちよく心が癒されたら良いなあと思う。


(2004年12月24日)





<4> 天使たち


今度はちょっと天使たちの世界についてお話ししたい。

天使とひとくちに言っても、みんな同じなのではない。さまざまな種類の天使がいるとされている。聖書のあちこちに、いろいろな天使たちが登場する。カトリックでは、聖書の記述と、偽ディオニュシオスという6世紀初め頃の人が書いた『天使位階論』に基づいて、次の9つの階級が天使の世界にはあるとするのが一般的である。

階級   名前
上級天使たち 第一階級 熾天使(セラフィム)
第二階級 智天使(ケルビム)
第三階級 座天使(トロウンズ)
中級天使たち 第四階級 主天使(ドミニオンズ)
第五階級 力天使(ヴァーチューズ)
第六階級 能天使(パワーズ)
下級天使たち 第七階級 権天使(プリンシパリティーズ)
第八階級 大天使(アークエンジェルズ)
第九階級 天使(エンジェルズ)

一番上なのが、セラフィム。常に神を讃えながら神のまわりを飛んでいるらしい。二番目はケルビム。深く広い知識と智恵を持ち、他の天使たちを指導するのだそうだ。そのほか、たとえばヴァーチューズは地上に奇跡をもたらし、パワーズは悪魔の軍勢に立ち向かい、プリンシパリティーズは地上の統治者を正義へと導く。このように、それぞれの天使たちには、それぞれの仕事があるとされている。

最下位の階級の天使たちは、一般大衆的なそのへんにいる天使(エンジェル)たちである。平(ひら)天使とでもいうべきか。一番人間にとって身近な天使たちでもある。ひとりひとりの人間には守護(しゅご)の天使がついて見守ってくれているとされているが、その天使たちも、この階級に属する。

上級の天使たちは、めったなことでは人間と直接には関わりを持たないようだ。特別な場合に特別な人にだけ上のクラスの天使は現れる。

聖母マリアにイエスの誕生を告知したのは、大天使ガブリエルだった。神の意志を特別な人間に伝えるのが大天使の仕事である。よく知られている大天使は、ガブリエルの他に、ミカエル、ラファエル、ウリエルらである。


これは、エル・グレコの「受胎告知」。聖マリアにイエスの誕生を知らせる大天使ガブリエルが描かれている(右側の羽がはえている方)。

大天使たちは、悪魔との戦いにおいても大活躍しているそうである。しかし、意外なことに、天使の階級の中では、大天使たちは下から2番目の下級天使に過ぎないのだ。名前に「大」なんてついているし、華々しく登場するから、かなり偉い天使なのかと思ったら、実はそうではない。

人間やこの物体的世界と直接関わりがある天使たちほど、天使たちの階級においては下なのである。人間が住むこの物体的世界は下級の世界だからである。テレビの時代劇でも、町人たちに助けが必要な時に直接関わって力になってくれるのは、幕府のお偉い様方ではなくて、もっと階級が下の同心や与力たちではないか。それと似たようなものだと思う(暴れん坊将軍や水戸黄門はまた話が別である・・・)。


これは、シャルル・ル・ブラン(Charles LE BRUN)の「羊飼いたちの礼拝」という作品である。イエス・キリストの誕生の場面(中央の青い服の女性が聖マリア、その手に抱かれているのがイエス・キリスト)。この絵にはたくさんの天使たちが描かれている。


天使たちがたくさんいる部分を、ちょっとアップにしてみた。青年の姿の天使、美女の姿の天使、赤ちゃん姿の天使、さまざまの姿があるが、羽がはえているので天使だと分かる(空中に浮いてるしね)。

この絵は、なんと言っても救い主イエス・キリストの誕生の場面の絵なのだから、とびきり偉い天使も姿を見せている。さて、どれが偉い天使なのか分かりますか?



そう、この方々です。

うそではありません。この方々こそ、ケルビム、あるいはセラフィムなんです(セラフィムとケルビムは時々判別するのが難しい)。

なんと顔だけ。

しかも顔から直接羽がはえてるなんて・・・(本当に偉いのですか?)。

ぜ〜んぜん強そうにも恐そうにも見えないし、ヘンな姿だけど、実は偉い方々なんです(人間の姿に近い下級天使たちの方が、美形でずっとかっこよいなあ。出で立ちも派手だし)。

もう少し強そうな姿のセラフィムを描いた絵もある。たとえば次のもの。


10世紀末ごろ描かれたライヒェナウ派(Reichenau)による「イザヤの幻視」。『旧約聖書』の「イザヤ書」第6章に登場する、6枚の羽を持ったセラフィムたちを描いたもの。6枚も羽があるのは、「2つをもって顔をおおい、2つをもって足をおおい、2つをもって飛び交わす」ためなのだそうだ。

セラフィムたちは、次のような言葉を唱えていたと言う。

  《聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ》

カトリックのミサの中で、この言葉は「感謝の賛歌」(サンクトゥス)として、全会衆で唱えられている。ミサの中で信徒が全員でこの賛歌を唱える時、それは、絶えず神を賛美し続けているセラフィムたちと共に神を賛美することになるのである。(ちなみにサンクトゥスでは、「全地に満つ」が「天地に満つ」と言いかえられている。神の栄光は地のみならず天にも満ちているはずだからであろう。)


天使たちの仕事は、神の英知と意志に従って、この世界を守ることである。それぞれの階級の天使たちは、その能力に応じてさまざまな役割を受け持って、この世界を守っている。

知性的な能力は、しかし、天使だけでなく、私たち人間にも与えられているではないか。人間は天使ではないし、天使にはとても及ばないが、知性的能力を持つかぎりにおいて、天使たちと同じ類のものとして、この世に生を受けている。だから、実は、人間もまた、天使たちと同様、この世界を守る役目を持っているのである。

この物体的な世界において、人間は支配的な立場にある。しかし、それは決して、この世界をわがまま勝手に荒してよいということではない。人間は、自然の恩恵にありがたく生かされながら、この与えられた知性を用いて、天使たちと共に、この世界を守って行かなければならないのだ。自然破壊など、もっての外なのである。

(2005年5月30日)




 つづく(たぶん)