平家物語トリビア2

 

6.「源義仲の親の敵」

  源頼朝、義経達兄弟は父の義朝を平氏に討たれました。彼らにとっては平氏は親の敵、ですが、彼らのいとこである義仲は、平氏に親を討たれたのではありません。義仲の父、義賢を打ったのは、義朝の長男、悪源太こと義平。頼朝や義経の兄に当たります。父を亡くした義仲は、ある武士の親切で木曽に逃れ、そこで育つことになったのです。

7.「曾我兄弟と源頼朝」

  頼朝は正妻となる政子と出会う前に、曾我兄弟の祖父に当たる伊東祐親の娘と恋に落ちたことがありました。けれどもそれを知った祐親は、二人の仲を引き裂いた上、自分には孫に当たる二人の間の子供も殺してしまったのです。

8.「北条氏の血統」

  元々頼朝が伊豆に流されたのは、関東が平氏の多い土地だったからでした。北条書の他にも、梶原氏や土肥氏、畠山氏など関東のご家人には、平氏の血を引く者が多くいます。一方で、同じ源氏でも佐竹氏や志田氏など、鎌倉と敵対する者も居ましたし、甲斐源氏や新田氏のように、鎌倉とは別に旗揚げして途中から従った者も居て、ずいぶんややこしいことになっています。源平合戦の「源平」というのは、あくまで旗印だけを見ての名前だったわけですね。
  後に頼朝の子孫が絶えると、幕府の実権は執権である北条氏が握ることになりました。源氏が作った鎌倉幕府ですが、実際は平氏によって動かされていくようになったのです。そうすると「源平合戦」の最期に笑ったのは、実は平氏だったともいえるでしょう。

9.「紅白源平合戦」

  平家物語に出てくる源平合戦の時代、家紋という物はまだ存在しませんでした。では、旗には何を使ったのか。それは、色だったんです。平氏対源氏の戦いは赤対白の戦いでした。これが紅白合戦の始まりです。現在は運動会を始め、合戦は何でも紅白になっていますが、それはこの大きな戦いが基になっていたのです。
  ちなみに、その後源氏一色=白一色になってしまった武士達は、それぞれに区別をつけるために白い旗に自分たちの印(家紋や家訓など)を描くようになりました。それが旗印の始まりということです。

10.「平清盛の無惨な死に様」

  1181年閏二月四日、清盛は64歳でなくなりました。当時の記録では二月末に発病したと伝えられていますが、それから死までは十日足らず。まさに急死と言うにふさわしい、突然の死だったようです。今日の人々は、前年に奈良の寺々を焼き討ちしたために仏の罰が当たったのだと噂し合いました。
  平家物語でも、清盛の病年についての描写は、仏罰らしくすさまじいものです。病に倒れた清盛は大変な熱を出したといわれ、少しでも熱を下げようと水風呂に入れれば、あまりの高熱で水が湯になるほど。部屋に寝かせれば部屋中が蒸し風呂のように熱くなり、看病に来た人たちもあまりの熱さに近づけないほどだったそうです。また、清盛の妻の時子は、地獄の閻魔庁の使いが夫を連れに来る夢を見たと言います。

 

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