高丘塔の探偵的日常

高丘塔(ペンネーム)が,現代青少年や「こころ」をテーマにした最近の小説(主としてミステリ)を取り上げて紹介します。(タイトルはある文学作品名をもじったものです。)取り上げた作品は,心理人間学科合同研究室で貸し出しています。

第2回
 高見広春『バトル・ロワイアル』
太田出版,1999年

 中学生が高校生が,あるいは快楽を求めあるいは思弁的な動機により,猟奇的な悪魔的な狂気に満ちた殺人に走る。加害者も被害者も,「心のケア」と「心の闇」を両極とする言説空間に回収されていき,近代という時代が作り上げてきた「子ども」は,権力の手だけでなく,「子ども」自らの手によっても葬り去られていく。そうしたなか,この小説は書かれ,読まれた。新人賞選考委員から拒絶され落選させられ,大手出版社から出版を拒否され,弱小出版社から出されることになったものの,空前のベストセラーとなった。1999年に出版されたこの「中学生42人皆殺しゲーム小説」について,今や余計な説明は不要だろう。私自身の体験の中では,某大手書店にこの本が平積みになっている前で,ひとりの女子高校生が熱弁をふるってその友人にこの本を薦めているのを見た記憶から,本書「前口上」での「一人のプロレスファン」の熱弁へとつながっている。
 舞台は管理主義国家と化したパラレルワールドの日本。国家的実験と称して,毎年全国の中学校から3年生のクラスを任意に50学級選んで,戦闘シミュレーションが行われる。各学級で互いに戦わせ,生き残った一名を勝利者とする「プログラム」である。主人公たちは,それに選ばれた中学生であり,このゲームに参加しなければ即座に死がもたらされるために,いやおうなしにクラスメートの殺戮ゲームへと巻き込まれていく。考えるだけでも冷酷で無惨な設定だ。仲良く修学旅行に来ていた級友たちが,数時間のうちに武器を持たされ孤島の戦場に立たされる。敵は,さっきまでいっしょにバスに乗っていたクラスメートたちである。読者の拒否反応があってもおかしくはないし,もし嫌悪感を覚えたならば無理をして読むべき小説ではない。
 ただし,そうした設定から想像されるような小説ではないのも確かだ。多くの評者により「青春小説」という形容がなされたが,確かにこれは窮地に立たされた主人公たちの恋と友情と冒険の物語なのである。中学生とはいえ,殺人機械のような人物もいる。憎悪に満ちた不良少女もいる。敵役には事欠かない。気の弱い者,思慮の足りない者,猜疑心の強い者,パニックから立ち直れない者,欲望に負ける者,自ら死を選ぶ者,純愛に死ぬ者,多くの人間類型が描き分けられていて,ストーリー展開も申し分ない。もしも設定がゼロサム的ゲームでなければ,この小説は陰惨ではあるが,古典的な構成をもった冒険物語になっていただろう。
 しかし,他方で中学生がクラスメートを殺すという凄絶な設定は,読者を苦しめ物語世界への完全な没入を拒むのである。ナタで毒薬で鎌でボウガンで銃でマシンガンで中学生がクラスメートを殺す。物語の中に築かれる死体の山。クラスメートとの闘いと並行して,権力との闘いも描かれるが,結末もまた陰惨であり,悲観的である。面白いが,決して好きだとはいえない小説,これが読んだときの私の感想であった。
 小説を,ストーリーによってではなく,何かを反映するものとして読むという方法論がある。たとえば,(陳腐な読みだが)この小説は現在の青少年のおかれた閉塞状況を表現しているのだ,というように。あるいは,メディア(ファミコンゲーム)からの影響力を読み取る,同じくらい陳腐な読み方もある(ただし,陳腐だから間違いだというのも間違いだ)。また,無意識のうちに課されているタブーを取り除こうとする意図において,現代の猟奇的少年犯罪と同じ構造を見て取ることもできるだろう。さらに,これは一種の「学校妄想」小説なのであり,学級という閉鎖されたシステムが醸成する欲求不満を,暴力的ファンタジーの形で描いたものとも取れる(コミック版『富江』(映画は未見)で,クラスメートが不慮の事故で死んだ富江を協力してバラバラ死体にするシーンにおいても同様のものが見られる)。『バトル・ロワイアル』よりも20年ほど前に書かれたスティーヴン・キング『死のロングウォーク』(扶桑社文庫)との類似も指摘されている。このキングの小説は,彼が有名になる前に別の筆名で書かれたもので,好評をもって迎えられたとはいい難いものだったようだ。やはり管理主義国家において,百人の少年が参加する終わりのない徒歩競争が描かれている。最後まで歩き続けたものが勝者だが,脱落した者はその場で射殺されていく。一人称で書かれているため,結末はすぐによめるのだが,少年たちの友情と絶望が丹念に書き込まれていて,読ませる小説になっている。このゼロ・サム的設定を受け継ぎつつ,三人称にすることではるかに立体的でサスペンスフルにヴァージョンアップした小説が『バトル・ロワイアル』であるともいえる。両者に共通し,さらにはマラソンダンス(一番長くダンスを踊り続けたペアに賞金が出る)を扱ったホレス・マッコイ『彼らは廃馬を撃つ』(王国社)にも共通しているのは,主人公が青年であること,勝者は一人(一組)だけという設定,そして人生という長いレースに対する予感から生まれる無力感と挫折感のメタファーである。こうして『バトル・ロワイアル』に,現代における青年期特有の感情を見て取ることも可能かも知れない。
 しかし,端的に言って『バトル・ロワイアル』は,そもそもは「アングラ系鬼畜小説」だったのだ,と思う。ただし,いろいろな点でカルト的なものを越える一般性を備えていた。それが,(ある意味では)不幸にして大ヒット作品となったのだ,と見るのが最も実情に近いのではないか。実際,映画『バトル・ロワイアル』がR指定となったときに,「それくらいがちょうどいい」と著者は述べていた。
 深作欣ニ監督が『バトル・ロワイアル』を撮り,そうした指定に反発する会見をおこなったときに,何とバカなことを,と思ったのは私だけではないはずだ。しかし,実際に映画を見て不明を恥じた。小説と映画は全く違うものになっていたのである。表面的なストーリーはほとんど同じである。小説と同様,煽情的な殺戮シーンも盛り込まれていて,殺戮が始まってからしばらくは見るに堪えず映画館を出たくなったのも事実である。しかし,この映画は「戦争映画」の文法に基づいて作られていることが次第に明らかになる。従来の戦争映画と違うのは,味方と敵との戦争ではなく,ホッブズ的「万人の万人に対する」戦争であるという点である。登場人物は個人を越える大きな力に翻弄されながら,それぞれのドラマを紡ぎ出して死んでいく。これが戦争映画でなくて何だろうか。これによって深作監督の非常に強いメッセージもまた明らかになるのだ。
 現在の中学生が置かれた状況が戦争的な状況だ,人生は戦争だ,という言い古された決まり文句があるが,この映画はそれとは全く逆なのだ。つまり,本当の戦争というのは,受験戦争だとかなんとかそんな甘っちょろいもんじゃない,といっているのだ。何を甘いことを言っているのだ,本当の戦争というのはこういうものだ,ということを深作監督は見せようとしている。さっきまでお菓子を食べながら笑っていた友人が,次の瞬間には口から血を吹き,脳漿や臓物をまき散らしながら,苦悶して痙攣してのたうち回り,聞いたこともないような声をあげ,見たこともないような表情をする,しかもそういう状態にしたのがほかならぬ自らであるような状況,これがここに描かれる戦争なのだ。
 映画はいくつかの細かい点で原作と設定を異にしている。その最たるものが,戦闘シミュレーションの位置づけにある。原作では国家防衛のための訓練実験であるが,映画では青少年の管理の手段になっている。つまり,青少年の犯罪の増加が治安を悪化させたために,国家が取った非常手段がこの殺人ゲームだということになっているのだ。
 私は「三代目が店をつぶす」という格言を思い出す。現在,犯罪に走っているとみなされる世代とは,いわば戦後民主主義の「三代目」だからだ。平和のなかで危機感覚を麻痺させてしまい,カタストロフに対する想像力をメディア的・ゲーム的な枠組のうちに溺れさせてしまった社会で育った青少年世代。暴力や狂気への憧憬。おぞましいもの恐るべきものをも「かわいい」という形で取り込もうとする感性。「子ども」に与えられていた特権を,その精神を無視して濫用した挙句,管理的権力によって根こそぎ奪われてしまうことに気づかない無知。そうしたものへの警鐘がはっきりと読み取れる。主人公の父親は,トイレットペーパーに「がんばれがんばれがんばれがんばれ…」と息子に向けたメッセージを書き残して首吊り自殺をする。別の登場人物は,革命闘士を叔父に持っている。他にもいくつかの点で,原作よりもはるかに「体制に対する抵抗」という面が強調されているのに気づくはずだ。こうした「第一世代」のメッセージをうざったいと感じる「第三世代」の観客もいるはずだが,映像はそれを拒むことを許さない迫力をもっていることも確かだ。深作監督が中学生にこそ見せたいといったのは,そういうわけなのだ。
 私が見た『特別編』には,この映画を支える名演をしている教師(北野武)とヒロイン(前田亜季)の二人による,詩情にあふれた回想シーンがついていた。しかしここでは同時に,両者の世代の間に越え難い溝が存在していることも示唆されている。架橋の責務は,我々のような「第二世代」にこそ課されているのだろうか。

第1回
 北村薫『スキップ』『ターン』『リセット』

 三部作といって『三四郎』『それから』『門』の次に思い浮かぶのが,『リング』『らせん』『ループ』になってしまうのが我ながら情けないけれど,北村薫『スキップ』(1995年)『ターン』(1997年)〈いずれも新潮社→新潮文庫〉に続く『リセット』(2001年新潮社)が出た。「時と人の謎」をめぐる三部作であるが,主人公も設定も別々なので『リセット』ですべての謎が解き明かされる,とかいうことではない。SF的というと陳腐になるが,まあ普通の主人公が変な時間進行の犠牲になるというのが『スキップ』と『ターン』の共通したモチーフだった。『スキップ』では,17歳の女子高校生が,昼寝をして起きたら42歳一児の母,というか昼寝前の自分と同じ年頃の娘の親になっていた,という設定。『ターン』は交通事故にあった30歳独身女性版画家が,24時間経つと同じ日に戻ってしまい限りなくその日を繰り返す話だ。ほとんど漫画的な設定なのだが,ユーモラスながらもシリアスな話なので,主人公だけでなく読者も「そんなバカな」と困惑してしまい,困惑体験を共有した結果,感情移入が可能になるという構造をもっている。
 『スキップ』の主人公は,身体が42歳の母で精神は女子高校生だ。25年後の夫(主人公にとっては知らない腹の出たおじさんだ)と自分の娘が主人公のおかれた不可解な状況を信じて,あれこれ手助けをしてくれるが,その他いろいろなこと,例えば25年後の彼女は高校教師なのだが,定期試験の問題を作らなければならないとか,自分がまだ高校生なのに高校生相手の授業をしなくてはならないとか,そうした無理難題を切り抜けて行かなくてはならない。読者は,彼女の機知に感心しながらも,主人公と同じことを考えている。果たして彼女はもとの普通の時間に戻れるのだろうか?その答えは,作者がタイトルに込めた意味とともに最後に示される。
 『スキップ』が一人称の小説だったのに対して『ターン』は,何と二人称で書かれる(これには意味があることが読み進んで行くうちにわかってくる)。主人公は7月のある日午後3時過ぎに交通事故に遭い,その時刻が来るたびに同じ場所に戻って来て,またその一日を始めねばならない。「前日」の記憶は残るのだが,世界の方は同じ日の3時からスタートするのだ。おまけにその世界には人間が存在していない。しかし,やがてあるきっかけとともに,主人公のおかれた状況が解明され始め,その世界にもう一人の人間が存在するということがわかると同時に,ストーリーは俄然スリラーの様相を帯びる。
 ともに時間の気まぐれにまき込まれる話なのだが,要するに『スキップ』も『ターン』も,実は,からだをともなわないこころの話なのだった。つまり,「時間」という現象は,心身関係と深いつながりをもつ,という何だかベルグソンの哲学みたいな,そういうモチーフを読み取ることができる。そういえば,時間をテーマにしたホラー小説で,個人的には衝撃的だったスティーヴン・キングの「ジョウント」(『神々のワード・プロセッサ』(扶桑社ミステリー文庫)所収)も,小林泰三の「酔歩する男」(『玩具修理者』(角川文庫)所収)も,奇怪な時間体験は身体と意識の分離によって引き起こされたものだった。
 ということで,「時と人」というテーマが意味するところは,本質的にはこころとからだの分離の問題だと思って『リセット』を読んでみたのだが…夏目漱石は別として,三部作は三作目にコケるという(三代目が店をつぶすみたいな)法則でもあるのだろうか?『スキップ』『ターン』とラヴストーリー度が高くなっているのも気になっていはいたが,残念ながら『リセット』の読み終えたばかりの印象は,凡庸なラヴストーリーである。
 第一部の主人公は,太平洋戦時下の軍国少女とすらいえるような(芦屋のお嬢様学校の)女学生。ほのかな初恋が,その日常生活のかなり緻密な描写の中で綴られていく。やがて,米軍機の空爆。第二部の主人公は,肝臓の病気で緊急入院した50歳くらいのお父さん。自分の子どもの頃の不思議な経験を息子に残そうと病室でテープレコーダーに向かって話ながらその経験を録音している。第一部にはもちろん,第二部になっても不思議なことはなかなか起きないし,そもそもどういうつながりなのかがわからない。第二部では1960年前後の少年の(おそらく作者が経験した時代の)日常生活が,楽しそうに語られるが,やがて,少年の生活で大きな意味をもつ女性が十数年後の第一部の主人公であったこともわかってくる。全編360ページ中300ページを過ぎようとするあたりで,少年の「不思議な経験」が明らかになり,そこからは一気にクライマックスだ。しかし,『スキップ』『ターン』と読みすすめてきた読者ならば,何が起こるのだろうと期待しながら読んでいくことができるだろうが,最初にこの『リセット』から入った人はどんなふうにこの小説を読むのだろう?「時と人の謎」は,文中の一文(集合意識の概念を思わせる)に象徴的に示されてはいるものの,かなり古典的というか手垢がついたものでしかない。タイトルもむしろ『デジャ・ヴュ』とでもすべきではなかったか?
 一つ気になることがある。確か前作の段階では『スキップ』『ターン』『リセット』という「三部作」だったはずだが,この『リセット』の本には,どこにも『リセット』が「三部作の第三作」であると書いていない。挟んである広告には「〈時と人〉のシリーズ」という表現が見える。うーん,してみると『リセット』以外に「三部作完結編」が出るということなのか,あるいは第四作以降も書かれるということなのか?下手な洒落で申し訳ないが,三部作の構想を「リセット」したということなのだろうか?
 ということで期待して読んだものの「おすすめ情報」というよりは「読んではいけない情報」に近くなってしまった。代わりに,というのも失礼な話だが,この著者の衝撃的デビューを知らない人は,是非『空飛ぶ馬』『夜の蝉』(ともに現在は創元推理文庫)の二冊の短編集を読んで欲しい。多くのフォロワーを生み出した「日常の謎」,たとえばなぜ二人の女子高生は自分のコーヒーに砂糖をたくさん入れる競争をしていたのか?とか書店の本の配列が狂っているのは何を意味しているか?といった謎にアクロバティックな解決が与えられるスタイルが面白ければ,泡坂妻夫の「亜愛一郎」シリーズ(創元推理文庫)に進むとよいだろう。ところで,北村薫はもうこういう小説は書いてくれないのだろうか?