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篤志に基づいて設立された社会倫理研究奨励賞の第一回候補論文募集を開始しました。本賞は、方法論や学問領域に制限を設けず、広く社会倫理に関する研究を審査対象とし、若手研究者の研究論文に対して授与されます。自薦・他薦両面で受け付けておりますので、積極的なご応募をお待ちしております。詳しくは、本賞ウェブページをご覧下さい。
今回は、 桃山学院大学経営学部教授の谷口照三先生のご講演「責任経営の視座と組織倫理学―経営学の可能性を探る」、ならびに、NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局長、便利屋あうん代表の湯浅誠先生のご講演「格差ではなく貧困の議論を」をお届けいたします。
去る2007年5月26日(土)、南山大学名古屋キャンパスJ棟1階Pルームにて、2007年度第2回懇話会が開催されました。講師に海上保安大学校非常勤講師の上村崇先生をお招きして、「教育現場への倫理学的アプローチ−高等学校での取り組みを通じて」というタイトルでご講演をいただきました。
上村先生はまず、自己紹介として、マックス・シェーラー研究と、教育に関する応用倫理学的取り組みとの二足の草鞋を履いた自らの研究の歩みを紹介なさいました。そして、今回の講演の目的は、これまでご自身が関わってきた教育現場での取り組み内容の提示を通じて、倫理学(者)は教育現場で何ができるか、教育現場にどのように関わるかを問い、教育現場への倫理学的アプローチを模索することである、と述べられました。
まず、第一のアプローチは、平成17年度に実施された「長期的エゴイスト育成プログラムの研究」です。ここでは、上村先生がある高等学校に一年間通いインタビュー調査を試みる、という仕方で研究は遂行されました。インタビュー調査から、生徒たちが「自己中」かつ「コミュニケーション能力が高い」という自己評価を抱いていることが判明しました。上村先生はこれらの相矛盾するように見える評価を解釈して、その背景には、自分自身で深く考え物事を判断できず、友達の目を何より気にする、という実態がある、と分析します。そこから、長期的な視点から判断する態度、および、その場の雰囲気ではなく合理的に判断する態度、すなわち合理的思考力の育成の必要性が見える、と結論されます。高校生たちはエゴイストですらないため、まずはエゴの育成から始める必要があるというわけです。
第二のアプローチとしては、「人間としての在り方生き方の自覚を目指した道徳教育の在り方」を課題とする文科省委嘱の「児童・生徒の心に響く道徳教育推進事業」(平成18・19年度)での取り組みが紹介されました。その一環として研究指定校の全生徒を対象に開催された参加型パネルディスカッションでは、「嘘」をテーマとして倫理的ジレンマの発見を目指す討論が行われました。その後の生徒のアンケート結果から、このパネルディスカッションを通じて嘘や嘘に関する理由の存在は認識できたが、論理的思考力を育成するには至っていないことがわかった、と上村先生は分析します。この分析に基づき、合理的思考力の育成を指向した参加型の道徳プログラムの開発へと事業は進展します。道徳プログラムの開発は、「探究の共同体」における教育を主張するマシュー・リップマンの「子どものための哲学(philosophy for children: P4C)」に依拠しながら、自己の意見の表明と他者の意見の尊重を行える「探究の共同体」の中で、他者との対話の中に埋め込まれたものとして自己を育成することを目指したものとなります。具体的には、「他者を尊重すべし」「自分を大切に」といった規範の提示を行うのではなく、自己・他者を尊重する雰囲気を形成していくことが必要なのだ、と上村先生は述べました。
最後に、上村先生は現代の教育現場の課題として、(1)道徳教育プログラムの作成、(2)「規範重視」からの脱却、(3)研究者との効果的な連携の三点をあげました。(1)については、教師の「道徳認識能力」に対する過剰な期待という重圧と向き合える言葉を与え、教師と教育学者と倫理学者の連携によって道徳教育プログラムを作成することが必要である、と主張されます。ここで倫理学者が果たすのは言語化を通じた媒介者としての役割なのです。(2)については、教師たちの間で、保護者とのトラブル回避が過剰に意識され、生活指導が校則遵守に終始する結果、規範の実質的な内実が喪失してしまっている、という現状に対して、倫理学者は、その問題構造を指摘し、語るべき言葉をつくりだすべきである、と主張されます。(3)は、現場の教師たちにとって「使える」かどうかという仕方でのみ理論が消費され浪費されていく状況に対して、よりよい理論需要のあり方に関する課題であり、(1)と(2)と連動しています。最後に上村先生は、これらの課題に取り組むべく教育現場そのものを記述していくことによって、倫理学者は教育学者や社会学者とは異なった仕方で規範や価値に関わる言説を構築できるのではないか、とご自身の考える「倫理学の可能性」を表明して講演を締めくくりました。
その後の質疑応答では、長期的エゴイスト育成に関して、企業経営者が果たす役割をどう考えるか、マックス・シェーラーによる価値と規範の位置づけとの関連性はどうなっているのか、という問いかけ、また、「規範重視」傾向の結果としての役割演技的な生活指導は一種の適応状態として考えられるのではないか、といった指摘、さらに、教師教育の中での長期的な道徳教育プログラムの可能性、他の教育関連研究者と倫理学者との実質的相違点の有無、道徳教育プログラムの評価指標のあり方等、様々な論点について白熱した議論が交わされました。(文責|奥田)
去る2007年6月18日(土)、南山大学名古屋キャンパスJ棟1階Pルームにて、2007年第3回懇話会が開催されました。講師に名古屋工業大学の瀬口昌久先生をお招きして、「ユニバーサルデザインの法と倫理」というタイトルでご講演をいただきました。
瀬口先生はまず肩ならしとして、今回の講演を聴きにきた聴衆のユニバーサルデザイン(以下、UD)理解度チェックを行い、UDの基本的な部分をインタラクティブに解説しました。その上で、2006年1月に起こった東横インの不正改造問題からの教訓、そして、2006年に公布施行された「バリアフリー新法」のメリット・問題点に言及されました。
瀬口先生は、東横イン問題について、事件の経緯、違反事項、制度的不備等の問題点を詳細に説明し、そこから、近年の一連の企業不正(耐震偽装、東電トラブル隠蔽、フェロシルト問題、ジェットコースター事故etc...)に共通する問題点を5つ挙げました。すなわち、(1)監督すべき行政機関に審査する専門能力・人材がない、(2)最終書類審査をパスすれば、その後の長い運用の期間に査察やチェックを行わない、(3)専門知識と技術をもった独立した第三者機関が定期検査をしない、(4)法令違反への罰則が軽い、(5)故意の偽装や不正を見破ることが不可能な安価で無力な社会システムが温存される、という5点であり、これらの結果、公衆への被害が発生したり、不正が告発を通じて発覚したりして、案件処理のために莫大なコストがかかることになるわけです。瀬口先生によれば、こうした問題点は、新興企業のバブル後の「勝ち組」に共通する経営戦略に反映されています。それは例えば、技術革新ではなく規制緩和政策を利用して従来よりも格段に安いサービス・商品を販売する戦略であり、また、コスト削減のためのサービスの特化と安い労働力の利用、安全・環境・福祉のコストのミニマム化、利益追求を最優先した大規模で急速な事業拡大などです。そして、そうした戦略の綻びを処理するために社会が背負うコストが大きい一方で、不正企業自体はそれほど大きなダメージを受けないことも多い、と問題点が指摘されました。
続いて瀬口先生は、法律・条例とUDとの関係について言及し、建築基準法や改正ハートビル法はあくまでも最低限の基準にすぎず、それに対してUDは本来的には継続的改善を求め続ける「運動」である、と述べます。そもそも米国でUDが発展したのが「障害をもつアメリカ人に関する法」(Americans with Disabilities Act: ADA)が成立した1990年以降だったのです。日本では、2005年に策定された「ユニバーサルデザイン政策大綱」に基づいて2006年にバリアフリー新法ができたわけですが、瀬口先生はUDへの取り組み方に日米間で差があると論じます。瀬口先生によれば、米国では、公民権運動の広がりにともなって、障害者差別の禁止と障害者の権利保障を基本に、障害者の平等な社会参加を広く実現する方法としてUDが位置づけられ、連邦政府によるUD関連NPOの支援が行われてきたのに対して、日本ではUDは、超高齢化社会対策としての政府の政策や自治体の条例の中に取り入れられ、多くの企業によって超高齢化社会の市場開拓を目標に取り組まれているのが実態です。確かに、国土交通省が掲げるバリアフリー新法のメリットは、「重点整備地区における移動等に係る円滑化の事業の重点的かつ一体的な実施」と「住民等の計画段階からの参加の促進を図るための措置」であり、そこに一定の意義を認めることはできますが、しかし問題点も多い、と瀬口先生は指摘します。
瀬口先生の考えるバリアフリー新法の問題点は以下の6点です。(1)高齢者や障害者の「利用する権利」「移動する権利」が明記されていない。(2)法令に違反した事業者への罰則規定が軽い[米国のADAでは、初犯に約600万円以下の罰金、再犯には約1200万円以下の罰金。日本の場合は20万円以下から300万円以下の罰金。]。(3)監視員制度がなく、法令違反を市民が訴える専用の窓口や手続きの明記がない[情報のユニバーサルデザイン化の遅れ]。(4)特定建築物の規模(2000平米以上)が大きすぎる。1日の乗降客5千人以上の駅だけをバリアフリー化の対象にしている。(5)基本構想提出や協議会設置は義務ではなく、実際に実行している市町村数も少ない[権利ではなく福祉というUDの位置づけ上、地方財政の窮乏という現状では後回しにされがち]。(6)新法の特例[税制上、低利融資、容積率に関する特例]の悪用が懸念される。これらの問題点は、市民の生活権としてUDを位置づける視点の欠如に集約される、と瀬口先生は考えます。ただし、UDの継続的改善の運動という側面を法制度に取り込んでいる点、行政と市民の継続的パートナーシップ構築の第一歩となりうる点など、改善のスパイラルアップを可能にする制度としてのバリアフリー新法の可能性も積極的に評価しなければならない、と指摘されました。そして、講演を締めくくるに当たって瀬口先生は、そうした地方自治体と市民のパートナーシップ構築のプロセスにおいて、両者をつなぐ言葉の発見と実践が重要であり、そこに哲学者は議論の質を高めるファシリテータとして関わっていくことができるだろう、と哲学者としての自らの果たしうる役割を説明しました。
その後の質疑応答では、UDと市場性の問題、誰もが使えるがゆえの危険性という問題、福祉重視型社会の積極的側面の評価の問題、厳罰化の是非という問題、批判的視座としてのUDを社会に定着させるための仕組みのあり方の問題などについて議論が交わされました。(文責|奥田)