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山田 秀・奥田太郎 (社会倫理研究所第一種研究所員)
去る12月4日土曜日、南山大学本部棟三階会議室にて、南山大学社会倫理研究所「水波学術文庫」開設式が開催された。当日は、水波家からは、水波純子令夫人、水波誠氏(ご次男)、水波康氏(ご四男)が、記念講演者として野尻武敏氏(神戸大学名誉教授)、南山大学からは、ハンス ユーゲン・マルクス学長、小林傳司社会倫理研究所長、研究所員、学部長、名誉教授の面々が参加した。
小林傳司所長による開会が宣言され、ハンス ユーゲン・マルクス学長の挨拶があった。挨拶のなかで、学長は、故水波朗先生の南山大学との繋がり、そして、水波学術文庫がカトリック大学である南山大学の社会倫理研究所にとって重要な資料となる所以を簡潔に説かれた。大学の謝意を表明すべく、マルクス学長から寄贈者である水波純子令夫人へ感謝状が贈呈された。
続いて、水波先生とはもう半世紀近い交友を育んでこられた友人で、ヨハネス・メスナー『自然法』の共訳者でもある野尻武敏先生による記念講演「水波さんと私たち」があった。その概略を少し記しておきたい。講演中の「私たち」とは、社会倫理研究所の初代所長を務められた阿南成一大阪市立大学名誉教授、と水波先生、そして野尻先生ご自身を指していた。阿南先生はカトリック幼児洗礼、水波先生はプロテスタントからの改宗、野尻先生は五百旗頭真治郎先生(当時神戸大学教授)の下でカトリックの洗礼を受けるなど、三名はそれぞれ異なった経歴を有するのではあったが、しかし、戦争という重い経験を「共有して」いる。そうした中で、それぞれ法学、経済学において人間において最も重要なこと、即ち、価値の問題に関心を向けざるを得なかった。
「水波さんは「闘うトマス主義者」」と、野尻先生は講演の中で規定された。誰よりも明確に己の立場を表明し、敢然と競合する他の思想と学問的な論争を展開した。それは法哲学、国法学、憲法学という領域においてであった。じっさい水波先生は、著書に『トマス主義の法哲学』、『トマス主義の憲法学』というふうに「トマス主義」を顕名しているのである。
水波先生はベルギー・ルーヴァン大学のダバンの影響も受けてそこから多くを学んでいるが、野尻先生の目にはそれ以上にやはりヴィーン大学のメスナー先生の方が深いところで水波先生に影響しているのではないか、と語られた。そのメスナー先生を、野尻先生は何度か訪問したが、そのときのエピソードの紹介がなされた。
小柄であまり丈夫ではなかったメスナー先生は、寸暇を惜しんで、それもナチスの迫害を逃れて英国バーミンガムで亡命生活を送るようになってからは特に、そして晩年には益々、研究に打ち込まれた。ヴィーンの質素な住まいを訪れてみると、天上まで届く壁の書籍、机の上にもびっしりと書籍類がうずたかく置かれており、物を書くためのスペースのみが残されている。そこに坐って迎えて下さったメスナー先生の姿が水波先生と二重写しになった、という。
野尻先生による記念講演を終えて、水波令夫人がお礼の挨拶を述べられた。先生の遺志を語り、それが遅滞なく実現したこと、既に図書室に配架されている水波学術文庫をご自身の目で確かめられたこと、などを語られ、心からなる謝意を表明された。また、水波学術文庫が、多くの人々によって利用されることへの要望と期待も表明された。こうして式典は幕を閉じた。
なお、社会倫理研究所の図書室は、N棟1階にある。手動式集密図書室の形式である。その中に7500冊に及ぶ水波学術文庫が収められている。水波学術文庫として寄贈された著書は、和書約3200冊、洋書約4300冊(ドイツ語本・約2000冊、フランス語本・約1300冊、その他、英語本、スペイン語本、イタリア語本など)という内訳で、その収蔵分野は、トマス主義の文献を中心として、哲学、倫理学、法学、政治学、社会学など、人文科学と社会科学の諸領域にわたっている。収蔵著書の例を幾つか挙げてみると、哲学者ジャック・マリタン全集、エチエンヌ・ジルソンの著書、法哲学者フランソワ・ジェニー、公法学者ジョルジュ・ビュルドーの『政治科学綱要』やマルセル・プレローの諸著作、ベルギーの民法学及び法哲学者ジャン・ダバンの諸著作、ベルギー・ルーヴァン大学のラーマーケルやステーンベルヘンといった哲学者の著作、社会倫理学者で法哲学者のヨハネス・メスナーの著作、社会倫理学者アルトゥル・ウッツの諸著作、メキシコ大学の憲法学者イグナシア・ブルゴアの著作などがある。最近の出版物から異色のものとしては、これまで埋もれていた19世紀のミラノ司教ロスミーニのフランス 語訳関連でも10冊ほどを数える。これらはトマス主義陣営に属する代表的文献である。また、トマス主義とは異なる系列に属する論理実証主義や批判的合理主義、マルクス主義やフランクフルト学派の文献なども収蔵されている。
去る2004年12月6日から同文庫書籍の一般貸出が開始された。多くの人々によって水波学術文庫が利用され、人々の知的源泉としての役割を果たすことを願う次第である。
『社会と倫理』最新号(第17号)は、まもなく完成する予定です。今号は、生命倫理特集となっております。
また、故・水波朗先生よりご寄贈いただいた水波学術文庫が12月6日より開設となりました。社倫研図書室利用案内をご覧の上、ご利用下さい。
今回は、 南山大学大学院法務研究科教授の丸山雅夫先生のご講演「修復的司法の日本への導入可能性」をお届けいたします。
去る10月30日(土)、南山大学J棟1階特別合同研究室にて、本年度第3回懇話会が開催されました。講師に明治学院大学国際学部教授の竹中千春先生をお招きして、「対テロ戦争とアジアの市民社会―暴力の連鎖を解くのは誰か?」というタイトルでご講演いただきました。
竹中先生は、まず、「豊かな世界」と「貧しい世界」の分化を指摘しました。「豊かな世界」とは、政府、軍隊、警察、司法制度などによって安全が保障された世界(「戸締まりされている世界」)であり、「貧しい世界」とは、治安が悪く無秩序で危険な世界、そこに暮らす人々の「命の値段」は安く、マフィア集団が根を張りやすい世界(「戸締まりされていない世界」)です。この2つの世界の分化は、どこの国、どの地域にもその内に存在する分断線である、と竹中先生は指摘し、「対テロ戦争」の思想は、この2つを「われわれ」と「やつら」の二分法に基づいて分断させる考え方である、と指摘します。この思想には、「行ってはいけないところをつくらない」、「行ってはいけないところに行った人たちも助けなければならない」といった発想はありません。
続いて、こうした世界の2分化における暴力の構図へと話は進められます。「安全で豊かな世界」のもつ正当的で制度的な暴力(軍隊、警察、治安部隊)も、「危険で貧しい世界」にある非制度的でインフォーマルな暴力(武装勢力、テロ組織、マフィア組織)も、ともに暴力を組織した「プロの暴力集団」である、と竹中先生は述べ、紛争や内戦は彼らによって企画し実演されることが多い、と指摘します。したがって、暴力の連鎖を解くためには、そうしたプロの暴力集団が動きにくい世界を構築することが必要だということになります。
竹中先生は、信念、人、武器、資金、情報、ネットワークを暴力の6つの要素として挙げ、さらに、紛争地域、暴力的な過疎地、暴力的な大都市の三つ巴の連鎖が、現代における2つの「世界」を結ぶ「暴力の空間」を形成している、と分析します。また、「危険で貧しい世界」から「安全で豊かな世界」への移民、留学者が、自国ではエリートなのにそこではマイノリティである、という形で「安全で豊かな世界」の疎外の構造に直面し、そこから自己正当化のイデオロギーが生み出され、そのイデオロギーが自国に逆輸入されることで、ファンダメンタリズム的なイデオロギーが再生産されてゆく、という「人間的な連鎖」の解き難さも指摘されました。
さらに、アフガニスタン、パキスタンの事情を中心に、世界中で起きている紛争に言及しながら、米国が国益のために利用した暴力の構図が、反米に向かう暴力の構図へと反転する様子について説明がなされ、また、民主化と暴動・内戦はセットで起こることが多いことも指摘されました。そして、複雑にリンクした暴力の連鎖は、特定の国への爆撃では到底断ち切れず、むしろ暴力のネットワークを拡大・拡散させてしまう、とも述べられました。
最後に、「暴力の連鎖を解くのは誰か」という問いに対して、プロの暴力集団ではなく、武器をもたず暴力を使わないことをまず第一の発想として生きている人たちである、と竹中先生自身の回答が提示され、「民主主義の非暴力化」、および、暴力地域になる可能性のある「貧しい世界」における市民のエンパワーメント、コミュニティ復活、そうした地域の人々とのネットワーキングの必要性が主張されました。
講演の後、質疑応答が行なわれ、市民社会を成立させる暴力自体への問いが必要であろうといった指摘や、政治のどの部分を変えれば政治の非暴力化が可能となるのかという質問が出されました。後者の質問に対して竹中先生は、民主主義には暴力の対象が票田になるという側面があることを指摘し、その部分を法やメディアとの連動でうまく機能させることが必要である、と回答なさいました。また、暴力に対抗するコミュニティを率いるリーダーの育成に関しても質問が出され、それについては、ハイブリッドの重要性を指摘する形で回答が出されました。(文責|奥田)
この欄を担当するにあたって、どんな本を取り上げたらよいものか悩んでしまった。有名な古典や今話題の本を取り上げても、新鮮味はないだろう。そこで敢えて直球勝負で、自分が授業の「ネタ」として活用している本を、ここにご紹介することにしよう。私の講義やゼミを聞いている諸君には周知のことかもしれないが、同僚の先生方などはご存知ないだろうし。
本書の著者である後藤道夫氏(都留文化大学教授)は、現在もっとも舌鋒鋭い、小泉「構造改革」の批判者である。いや、いまや巷の大新聞は「改革の遅れ」を糾弾するばかりであるから、これほど真っ向から改革そのものを批判する論者は、もはや皆無と言ってよいかもしれない。
いまだに小泉改革は、80年代のサッチャー改革やレーガン改革になぞらえて語られることが多いが、そこには大きな落とし穴がある。当時のイギリスやアメリカは、彼らがやっきになって解体しなければならないほどの、高福祉(=高負担)国家であり、それが労働者の意欲を減退させ産業競争力を落としていたことが、改革断行のなによりの理由であった。しかし実は日本においては、ついぞこれほどの高福祉政策が実現されたためしはないのである。いや、われわれは欧米と同じ豊かな生活を享受しているではないか、と思われるかもしれない。たしかに福祉は存在する。しかし後藤氏によれば、日本の場合、それは大部分、国家ではなく企業によって担われていたのである。
後藤氏がまず槍玉にあげるのは、国民の「企業主義的統合」とそれを支える「開発主義」的国家政策である。終身雇用を保証されている日本人は、その全生活と全観念を企業に依存し、そのことが大企業から中小・零細企業にいたるまでの明確な序列を完成する。そして大企業中心の加工貿易国家として発展するため、政府はインフラ整備=公共事業に巨額の投資をおこなってきたのである。
こうした日本型のシステムは、過剰な企業主義的統合による過労死などの問題を生み出しながらも、それなりに成功を収めてきた。しかし、それが曲がり角に立っているのが現在である。グローバル化=産業の空洞化によって地方の企業城下町は衰退し、終身雇用制が崩壊してパートや派遣社員などの非正規雇用が増大している。それに追い討ちをかけるのが、構造改革だというわけである。企業まる抱えの「豊かさ」を前提にした社会において、リストラという改革に伴う「痛み」がいかに過酷であり、その「痛み」が特定の階層や特定の地域を狙い撃ちにしていることは、言をまたない。こうして、かつて「一億総中流」であった国民は、いまや「分裂」しはじめているのである。
本書を読んだ読者がすべて反構造改革派に名を連ねるようになるはずはないし、連ねなくともよい。しかし大新聞が報道しつつ報道していないこうした問題が、じつは戦後社会の大きな転換にかかわっていることが、本書を読むとよく分かる。それだけではない。本書は徹底して「雇用」という観点から現状を批判している。後藤氏の最近の研究によると、2002年における新規の入職者のうち、正規雇用の比率は、わずか男性で50.8%、女性で25.8%であったという。この低水準を教育の世界で働くわれわれがどう捉えるかが、問われているのだと思う。若者は今、自分の未来を描けない状態に立たされている。
同氏の著作には、より簡便なテキストとして書かれた『反構造改革』(青木書店、2002年)もあり、こちらは寝転がってでも読める。あるいは、これで飽き足らない方には、同氏が編集を勤める雑誌『ポリティーク』(旬報社)の講読をお勧めしたい。
(第8回担当|鈴木宗徳、社会倫理研究所第二種研究員。専門:理論社会学・ドイツ社会学史。)