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南山大学社会倫理研究所
2009年度第1回研究会 ■講師 丸山雅夫先生■

講演の概要

2009年7月11日(土)、南山大学名古屋キャンパス本部棟3階第三会議室にて開催された社会倫理研究所2009年度第1回研究会において、南山大学大学院法務研究科の丸山雅夫先生による「われわれは裁判員裁判にどのように対処できるか」と題する講演が行われた。丸山先生は、2009年5月21日に「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が施行されて裁判員裁判が本格的に始まるに際して、制度そのものの是非を議論し続けながらも、個人として制度にどう対処していくかを考えるための基本的な論点を提示している。裁判員裁判制度の基本構造、裁判員の選任に関する問題、裁判員に期待される役割、裁判員の守秘義務等に関わる問題点を明解に指摘した後、裁判員裁判制度の定着のためには、法曹三者(裁判所、検察官、弁護士)の間での連携を確実なものとし、市民監視のもと、地道な努力を続けていくしかない、と論を結んでる。(文責|奥田)


*以下のコンテンツは、懇話会で録音したものを活字化し、講演者本人の校正をへて作成されたものです。無断の転用・転載はお断りいたします。引用、言及等の際には当サイトを典拠として明示下さるようお願いいたします。

裁判員裁判への対応 ― 議論の前提として

丸山 雅夫 (南山大学大学院法務研究科 教授)

  

もくじ

I 現実のものとなった裁判員裁判II 裁判員裁判制度の基本構造III 裁判員の選任をめぐる問題IV 裁判員に期待される役割とその実現V 裁判員の守秘義務と保護VI 裁判員裁判制度の将来

本日の話題提供をさせていただく、南山法科大学院で刑事法を担当している丸山でございます。さきほどシーゲル先生からの御紹介にありましたように、研究会でこの問題を扱おうとした本来の趣旨は、宗教関係者が裁判員候補に選ばれた場合にどのように対応したらよいのかを考えることにあり、当初は、カトリック以外の宗教をも広く巻き込んで裁判員裁判を考えてみようと計画しておりました。ただ、人選や調整が必ずしもうまくいかなかったため、差し当たってカトリック関係から始めようということに落ち着きました。私自身は、本年の2月18日に、カトリック司教団の勉強会に呼ばれて、この問題について議論をしてまいりました。その後、司教団としての一定の公式見解が出されており、これはこれで妥当であったと思っています。ただ、一般の信者や他宗教の信者の人々がどのように対応すべきか、といったことは依然として残されております。また、より基本的には、特定の宗教の信者ではない人々が裁判員裁判にどのように関与したらよいのか、といった問題も必ずしも明らかになっているわけではありません。

こうした観点から、宗教関係者の対応を考えるための予備的段階として、裁判員裁判の全体像を説明した後に、忌憚のない意見交換をしたいというのが、本日の研究会の趣旨であります。したがって、本日の研究会は、これで終わってしまうわけではなく、将来につながっていくものです。もっとも、裁判員裁判については、最近の報道等で盛んに扱われていますので、皆さんも大体のところは御存じだろうと思います。ただ、議論の前提として、改めて、ポイントとなるべきところを確認しておく必要があろうかと思っております。

I 現実のものとなった裁判員裁判

1 まず、本年5月21日に「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が施行されましたので、これ以降に起訴された刑事事件だけが裁判員裁判の対象となります。もちろん、すべての刑事事件が対象になるわけではなく、死刑や無期刑が法定されている重大事件、あるいは故意の犯罪にもとづいて被害者が死亡したような重大事件が、裁判員裁判の主たる対象とされております(2条1項)。このように、わが国の裁判員裁判は、犯罪の種類によって対象が決まってくることから、対象事件の被告人にとっては回避できないものとして構成されています。他方、裁判員裁判との類似性を有するアメリカの陪審裁判は、具体的な内容は州によって若干の違いはありますが、陪審裁判を受けるのは被告人の権利として構成されています。それは、憲法上の権利として認められているものです。権利ですから、もちろん放棄することもできます。したがって、陪審裁判を受けるかどうかについて被告人が意思表示をし、その結果、裁判官による裁判を受けるのか、陪審裁判を受けるのかが決まってくるわけです。ところが、わが国の裁判員裁判は、事件の種類によって裁判員の参加が決められているため、被告人側からすると選択の余地がない制度だということになります。

裁判員裁判の対象となる事件は、法の2条1項に明示されているところから簡単に確認できますが、一般的には、殺人罪や強盗殺人罪といったような重大事件を想定していただければ充分です。ただ、裁判員裁判の対象になる事件が具体的にどの程度存在するのかというと、その数は一定していません。当然のことながら、そういう事件がたくさん起こる年度もありますし、必ずしもたくさん起きない年度もあります。また、誤解を恐れずに極端な言い方をすると、被疑者が逮捕されなければ刑事裁判をしようがないので、捜査能力や検挙数が落ちてしまえば、対象となる事件数も当然に減少することになってしまうわけです。ただ、現在の捜査能力と近年の事件発生状況を前提として言えば、多い年度で3,500件程度、平均的には年間3,000件内外だろうと思います。

2 裁判員裁判は、すべての裁判所で行うものではありません。わが国は3審制をとっているため、刑事事件の被告人は、通常、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所を通じて裁判を受けることができます。しかし、裁判員裁判が行われるのは、第1審の裁判所、すなわち地方裁判所に限られています。高等裁判所では裁判員裁判は行われませんし、最高裁でもありえません。審級という観点から言えば、第1審の裁判所に限られるということです。現在、地方裁判所の本庁は、全国50カ所に所在しています。すなわち、各都道府県の県庁所在地に47の本庁が置かれるとともに、面積の広い北海道では函館、旭川、釧路にそれぞれ3つが本庁として置かれています。それ以外に、地方裁判所は比較的大きな市に支部を持っています。裁判員裁判は、これら50の地方裁判所本庁と、八王子、小田原、沼津、浜松、松本、堺、姫路、岡崎、小倉、郡山という10の支部で行われることになっています。これらを合計すると、60カ所の裁判所の管轄内で行われることになります。

裁判員裁判を行う支部がどういう基準で選ばれているのかというのは、必ずしも論理的には明確ではありません。先ほど述べたところから明らかなように、対象となる犯罪の年間発生数は、地方裁判所の本庁が管轄する区域でも大きく異なります。したがって、支部の選定に当たっては、犯罪の発生件数というよりは、裁判所へのアクセス、エリアの広さが重要な基準となっていると思われます。また、後にも触れますが、この60カ所の裁判所で行われるので、裁判員候補者として選ばれる確率は、当該裁判所の管轄内で発生する対象事件の数と、衆議院議員の選挙権を持つ有権者数との相関で決まることになります。したがって、この確率も、管轄区域によって大きく異なりますし、年度によっても大きく異なる可能性があるわけです。

3 本年5月21日以降に起訴された事件が対象になりますので、多くの裁判所において、裁判員裁判の第1号となるべき事件の存在がすでに公表されています。名古屋地裁についても、この研究会の2日ほど前に第1号になる事件が起訴され、公判期日が9月に指定されるというところまでの報道がなされています。その事件については、4日間の集中審理で決着するということです。裁判員裁判の目玉のひとつは、審理期間を短くしようというところにあります。現時点では、約70パーセントの事件が3日間で終了し、約90パーセントの事件が5日間で終了することが見込まれています。平均すれば、4日間程度ということになるでしょうか。この期間は、市民が日常生活をしながら裁判に参加しなければならないことを考えれば、妥当のものだと思われます。ただ、裁判所での公判手続を4日程度で終えなければならないとすると、公判手続をインテンシブにやるためには、公判より前の段階で事前に多くのことを整理しておく必要が出てきます。これを公判前整理手続と言いますが、それについては後ほど触れようと思います。

4 実施直前の現在の状況がどうなっているかと言うと、巷には裁判員裁判の解説本やハウツー本が氾濫しています。研究者がハウツー本を書いている例も見受けられます。それから、報道の対応も一定の傾向を持っているように思われます。特に、「あなたが死刑事件について裁判員になったらどうしますか」といった形で、ある種の不安を煽る報道が目につくところです。レジュメには「報道の無節操」と書きましたが、なぜこの時期にそういう形でいたずらに不安を煽るのかという気がするからです。裁判員裁判は、平成16年(2004年)に制定された法律にもとづいていますから、すでに2000年頃から議論していた話です。これは、私が所属している法科大学院の制度設計と同じく、司法制度改革の目玉のひとつと言われていました。しかし、その当時の報道の関心は、ほとんどが法科大学院の設置に集中していて、裁判員制度については、それほどの関心を示していませんでした。したがって、「何を今さら」という印象が拭えないわけです。もちろん、必要に応じて議論をする必要があることは否定できません。しかし、それにしても、あまりに一定の方向に偏っているのではないかという感じがしています。

もうひとつの傾向は、専門家や弁護士が、この段階に至って遅ればせながらの反対論をかなり声高に叫ぶようになったということです。たとえば、市民に裁判員の義務を課すことは憲法違反だという議論が、実施直前になって、見られるようになっています。また、ある弁護士会では、裁判員裁判に反対する立場の人が会長に選ばれるというような、変な巻き返しが起こっています。もちろん、弁護士会自体は非常に大きく、いろいろな考え方の会員がいますし、ある種の派閥集団とも言えますから、そのような事態も当然に予想されうることではあります。しかし、弁護士会として裁判員制度にどう対応するかということが全くまとまっていない状況です。この点で、法曹界の重要な一角を占める弁護士会の対応として、「何を今さら」といった印象を与えるわけです。また、制度は5月21日からすでに実施に移されていますから、ただちに「後戻り」できる状況にないことも明らかです。したがって、今後、われわれは、反対論の実現(廃止の可能性)も視野に入れながら、どう対応していくかということが問われていることになります。

もっとも、裁判員制度についても、3年後の見直しが明文化されていますから(附則9条)、見直しの機会がないというわけではありません。しかし、たとえば、臓器移植法の制定や2000年の少年法改正が5年後の見直しを明示していたにもかかわらず、実際には何も手つかずに推移したという現実があります。臓器移植法も、ようやく今になって、海外での小児臓器移植が不可能になるという事態に直面して、どうすればよいかという議論になっています。また、2000年の少年法改正についても、5年後の見直しは一切手つかずのまま、部分改正が行われたにとどまっています。こうした現状を見る限り、裁判員制度の見直しについても、そう大きな期待はかけられないだろうという、悲観的な見通しであると言わざるをえません。したがって、現時点では、制度そのものの是非の議論を続けながらも、個人として制度にどう対処していくかということを考える方が有益だろうと思っています。

II 裁判員裁判制度の基本構造

1 裁判員裁判制度の構造は、どのようになっているのでしょうか。その趣旨は、法の1条に明示されているように、「国民が刑事裁判手続に参加することによって、司法に対する国民の理解の増進とその信頼(刑事裁判に対する)の向上に寄与する」ということです。この趣旨が妥当であるとしても、また刑事裁判に対するこれまでの国民の理解が十分でなかったとしても、国民が参加することによって、「何が」「どのように」改善されるのかは必ずしも明らかではありません。

制度導入の最も素朴な理由は、職業裁判官があまりに世間的な眼を持っていなかったために、刑事裁判が「玄人集団」にしか理解できず、その意味で社会から遊離していたため、それを何とかしようということであったと思います。それは、裁判官の問題であると同時に、刑事裁判に対する社会の関与の仕方の問題でもあります。それが司法制度改革の議論として理論的根拠を与えられ、わが国に適切な制度として、市民が裁判員として参加する形が導入されたということです。その意味で、裁判員裁判制度の導入も、法科大学院の設置と同様に、政策決定の結果であることは明らかです。したがって、それは、論理必然的な制度というわけではなく、今後の運用の結果を見て、手直しの可能性と余地を持ったものだと言ってよいわけです。

2 法の明示する趣旨を前提とした場合、制度の構造はどのようなものになるのでしょうか。何よりも、これは市民が刑事「裁判手続」に参加するものですから、公判が開始される前の段階に国民が関与することはありえません。これは当然の前提です。市民は捜査機関ではありませんから、素人が犯罪捜査に関与しないのは当たり前です。また、それとともに、公判手続からの関与ですから、後に述べる公判前整理手続、つまりどのような証拠を使うのかといったようなことを事前に調整する手続においては、裁判員の参加は排除されています。公判前整理手続は、弁護人、検察関、裁判官という、法律専門家としての三者によって行われることになります。

裁判員制度は、3つの場面で国民の関与を予定しています。第1は、アメリカの陪審制度と同じように、起訴事実が被告人によるものであったかどうかを判断する「事実認定」の場面です。これは、有罪か無罪かを判断する場面と言い換えてもいいでしょう。続いて、「法令適用」の場面で、これは認定された事実に対してどの条文が適用されるかを判断するものです。そして、最後に、「量刑」と言われる場面で、行為者の行為に対してどの程度の刑罰を宣告すべきかという判断です。裁判員制度は、これらのすべての場面において市民感覚の発揮を期待したものとなっています。したがって、原則として事実認定手続だけに市民が関与するアメリカ型の陪審制度とは大きく異なります。アメリカの陪審制度も、カリフォルニア州などでは死刑判決については量刑にも陪審員が関与しますが、それ以外は基本的に事実認定に関与するだけです。こうした陪審制度との違いが、裁判員制度の特徴であると同時に、裁判員に大きな心理的負担を強いることにもつながります。

3 それから、市民の参加を広く認め、市民感覚の発揮を期待するものであることから、評議と評決において、裁判員は裁判官と同等の立場で関与することになります。職業裁判官と素人である裁判員との間に優劣関係がないということです。ただ、評決において、例外的に職業裁判官が事実上優越する場合があることに注意しなければなりません。それは、多数決によって結論を導く評決において、裁判官全員が反対した場合には、裁判員だけの多数では決せられない構造になっている点です。通常は裁判員6名と裁判官3名から裁判体が構成されますから、評議が紛糾した場合でも、5対4の多数決で評決に至ることがありえます。したがって、6対3であれば、6で多数決に至るのは当然です。しかし、6対3の場合であっても、裁判官全員(少数)と裁判員全員(多数)との間で意見が分かれた場合は、裁判員6名の多数で評決することはできないということです。その限りで、職業裁判官の専門性が特に重視されているわけです。もっとも、このような事態は、事実認定における「疑わしきは被告人の利益に」の原則と、後に言及する量刑判断の手順からして、必ずしもマイナスの方向に作用するわけではありません。陪審員の全員一致を原則とするアメリカでは、評決不能という事態は相当数にのぼりますが、多数決を前提として裁判官の優越を例外的に認める裁判員裁判では、結論を出せない形の評決不能という事態は心配しなくてもよいと思われます。

他方、法令の解釈と訴訟手続については、裁判官の判断が事実上の拘束力を持つことになります。この点は、法律の素人である裁判員が自由に、ましてや勝手に判断できるものではありえません。たとえば、人を殺害した被告人について、殺害するつもりで殺害したら199条の殺人罪に該当し、不注意で殺害してしまった場合には210条の過失致死罪あるいは211条の業務上過失致死罪に当たりうるということは、裁判官から教えてもらわなければならないわけです。したがって、法令適用の判断においては、裁判員が完全に自由だということではなく、「合理的な判断」についての自由が保障されているにとどまるということです。

4 すでに述べたように、一定の重大事件については裁判員裁判が必要的なものとされているので、被告人の権利として構成される陪審裁判制度とは大きく異なっています。この点に関して、アメリカの陪審裁判においては、陪審裁判を選択するかどうかということが法廷戦略として非常に重要なものになります。被告人の権利である陪審裁判は、上訴(不服申立)の権利の放棄と引き換えに認められるものです。したがって、被告人にとって、上訴の権利を保有して裁判官の裁判を受ける方が有利なのか、上訴の権利を放棄して陪審裁判を受ける方が有利なのか、という見極めが非常に重要なわけです。そして、その判断については、弁護人の力量が大きく発揮されるところです。つまり、アメリカでは、O.J.シンプソン事件に典型的に見られたように、陪審裁判を選ぶことが被告人に有利な場合があり得るわけです。もちろん陪審員に誰が選ばれるかということにも左右されますが、陪審制度は、そういう形で利用される性質を持っています。しかし、裁判員制度においては、そういう法廷戦略が介入する余地は全く存在しえません。この点については、わが国の文化的風土を考えれば、基本的な方向性として妥当なものであると思っています。

III 裁判員の選任をめぐる問題

(1)裁判員の資格

1 これから、少し具体的な話に入っていきたいと思います。ひとつ目は、裁判員の選任の問題です。裁判員の資格については、法の13条に「衆議院議員の選挙権を有する者のすべてが候補者になる」と規定されています。そして、衆議院議員の選挙権を有するのは20歳以上の国民ですから、裁判員は20歳以上の国民にとって等しい義務という形で構成されているわけです。国民の義務とされていることとの関係で、国民に等しく義務を課すときに憲法に規定しなくてもいいのかを問題にし、裁判員制度は憲法違反であるという議論も時々見られます。これは、事実上の強制力のない勤労の義務までが憲法に規定されているのに(憲法27条1項)、理由なしに裁判員を拒否した場合(不出頭)に過料を科す(112条)ほどの義務を憲法に明示しないのはおかしいという議論です。たしかに、理論的にはそのような主張も成り立ちえますが、私自身は、憲法論にはなじまないものだと思っています。

2 このように、裁判員の義務は国民の一律の義務として構成されていますが、裁判員の義務を免除される人物や場合も想定されます。そこで、法は、裁判員として適切でない人物や場合について、明示的に規定しました。その最たるものは「欠格事由」と呼ばれるもので、本人の意思とは無関係に裁判員になれない者が列挙されています(14条)。典型的には、公務員の欠格事由に当たる者で、裁判員は非常勤公務員の扱いですから、当然に排除されることになります。また、義務教育未修了者は、刑事裁判手続における通常の判断が困難だということで排除されています。自由刑経験者は、犯罪者として刑罰を受けた者に被告人を裁かせることが不適切だとの判断から排除されています。著しい心身故障者は、精神的または身体的な故障がある人々ですが、心の方は判断能力の低さに配慮し、身体の方は出廷する能力の低さに配慮して、いずれも除外されています。したがって、心身に故障があってもただちに除外されるというわけではなく、判断能力または出廷能力の有無を具体的に判断したうえでの運用ということになります。

次に重要なのは、「就職禁止事由」と呼ばれるものです。これは、欠格事由ほど強い排除事由ではありませんが、裁判員の職に就くことが禁止される場合の規定です(15条)。たとえば、国会議員や一定の行政機関の職員、広義の法曹関係者、自衛官などです。私は、法科大学院の教授の職にありますので、「広義の法曹関係者」に当たり、退職しない限りは裁判員として裁判に参加することはできません。また、被告人や被疑者が参加できないのは、自由刑を受けた者が欠格事由に当たることと同じ発想によるものです。

次が、「辞退事由」と呼ばれるもので、裁判員になることについて辞退の申し立てができる者を限定的に列挙しています(16条)。これは辞退できる場合ですから、本人が辞退を申し立てなければ裁判員として参加できるということです。これには、70歳以上の者や地方議会の議員、一定の事由により職務遂行や出頭が困難な者が規定されています。ただ、職務遂行や出頭が困難な者というのは、一般的な規定になっていますから、具体的に判断せざるを得ません。こうした事情を受けて、2008年には「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律第16条第8号に規定するやむを得ない事由を定める制令」が制定されましたが(平成20年政令3号)、その第6号にも「前各号に掲げるもののほか……相当の理由があること」という一般条項が置かれています。したがって、実際には、個別的かつ具体的に判断されることになります。辞退事由との関係で引き合いに出されるのが、自分の経営する会社が経営難に陥ったために資金繰りに駆け回っている会社経営者です。このような場合は、出頭が困難であり、連続して平均4日間の職務遂行も困難だと言えるでしょう。また、ナンバーワン・ホステスも引き合いに出されますが、裁判員の職務が5時には終了することを考えれば、一律に判断することはできないように思われます。むしろ、辞退事由との関係で微妙なのは、思想・信条・良心・信仰が辞退事由になりうるかということです。この点については、後に言及します。

3 以上のものは裁判員候補者の一般的な属性に関わるものでしたが、それとは別に、個別的な属性に着目したものが2つあります。ひとつは、特定の「事件に関する不適格事由」と呼ばれるものです(17条)。これは、対象事件の利害関係人など、普通であれば候補者として問題はないが、具体的な事件との関係で裁判員になることが不適切な人物の場合です。対象事件の被害者を考えれば、容易に理解できるでしょう。これへの該当の有無については、候補者に選出された段階で、質問票によって確認されます。次に、これもある種の属性と言ってよいのですが、もう少し込み入った場合があります。それは、「その他の不適格事由」と呼ばれるもので、不公平な裁判をするおそれによる不適格者が規定されています(18条)。もちろん、これは、どういう人物がこれに当たるかを具体的に規定するわけにはいきませんから、その性質上、一般的・抽象的な形でしか規定できません。したがって、その判断は、質問票と裁判官の口頭質問にもとづいて行うことになります。質問票は候補者になったことの通知とともに送られてきますが、裁判官の口頭質問は裁判所に出頭してからの選任手続において行われます。これらによって、不適格事由が個別的かつ具体的に判断されるわけです。

たとえば、量刑として死刑と無期懲役が問題になりうる限界的な事案について、両者は客観的な基準のみで自動的に判断されるわけではないため、裁判官としては、「この事件では死刑判決が出る可能性があります」、あるいは「死刑判決の評議にかかわる可能性があります」ということを告げたうえで、「それを踏まえて裁判員として参加することになりますが大丈夫ですか」というような質問をすることになるでしょう。そこで確信的な死刑廃止論者であると判断されるようなことを述べれば、不選任となるだろうと思われます。しかし、これは本人の内心の問題であって、宣誓のうえで回答をするわけではありませんから、実際には、そこで嘘をついてもわかりません。その意味では、不適格事由への該当の有無が明確に判断できるかは、確実なものとは言えません。

4 最後に、ある種のセイフティーネットとでも言いましょうか、「理由を付さない不選任の請求」というものが認められています。それは、検察官および被告人が、それぞれ4人を限度として、理由を示すことなしに不選任の請求ができるというものです(36条)。これによって、検察官と被告人は、選任手続に出頭してきた候補者のうち4人までは、無条件に裁判員から排除することができます。このような制度は、アメリカの陪審制度にも見られるところです。特に、アメリカにおいては、かなり有効に機能する可能性が高いものとして利用されています。たとえば、O.J.シンプソン事件のように、黒人が被告人になったような場合、陪審員の候補者に人種主義者や白人至上主義者と思われる者が存在していれば、何らの理由を示すことなしに排除することができるからです。もっとも、わが国の場合には、アメリカにおけるほどには利用されないだろうとは思われます。ただ、性犯罪、少年犯罪、在留外国人の事件などにおいては、一定の偏見を持つ人物の存在は否定できませんし、偏見を日常的に公言している人物も存在するでしょう。したがって、実際的な意義は大きくないにしても、一定程度の意味は否定できないように思われます。

(2)裁判員の選任手続

1 すでに若干触れたところですが、裁判員の選任手続の前提となるのは、衆議院議員選挙の際の選挙人名簿です。衆議院議員選挙の投票日が近づくと、有権者に投票場への入場ハガキが送られてきますが、それは選挙人名簿にもとづいて作成されるものです。同様に、裁判員候補者も、選挙人名簿にもとづいて無作為に抽出されます。したがって、論理的には、毎年続けて裁判員候補者に選ばれるという事態もありえます。ただ、2年続けて候補者に選ばれた場合には、辞退事由に該当するため(16条6号)、辞退することが認められます。

2 候補者として選任されると、選任されたという通知とともに調査書が送られてきます。この調査書に記入することによって、欠格事由、就職禁止事由、あるいは辞退事由の一部について、それぞれへの該当の有無が確認されます。そして、いずれかに該当することが確認される人物については、言わば自動的に、その後の選任手続から除外されることになります。

しかし、欠格事由、就職禁止事由、あるいは辞退事由の一部のいずれかに該当することが明らかでない候補者については、裁判所に出頭したうえで、選任手続が行われることになります。通常、裁判員裁判は、午前中に裁判員の選任手続を行い、午後から公判が開始される形で運用されます。午前中の選任手続においては、質問票への記入と裁判官の口頭質問によって、事件に関する不適格事由の有無、さらにはその他の不適格事由の有無が確認されます。これらのいずれにも該当しない候補者の中から、通常は6名の裁判員(例外的に4名[2条2項])と若干名(通常は3名程度)の補充裁判員が選ばれることになります。その後、午後1時とか2時ぐらいからの公判開始に備えて、午前中に裁判員制度について若干の説明が裁判所から行われます。

3 ここで、裁判員の選任に際して、思想・信条・良心・信仰が裁判員を拒否する理由になりうるかを考えてみたいと思います。まず、当然のことながら、免除事由や欠格事由、あるいは就職禁止事由については、思想・信条等はそれらの事由として明示的に規定されていませんから、これらに当たらないのは自明のことです。また、事件に関する不適格事由、その他の不適格事由のいずれにも該当しないことも明らかです。

また、すでに言及した辞退事由に関する制令も、思想・信条・良心・信仰を相当な理由として明示的に認めているわけではありません。ただ、第6号の「裁判員の職務を行うことによって、精神上の不利益が生じると認めるに足りる相当な理由がある」者に該当する場合がありうることは否定できないように思われます。特に、死刑判決が予想される事件では、そのような事態がありうるでしょう。たとえば、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件のような事案では、4人以上殺害しているのは明らかですから、最高裁のいわゆる永山基準に従っても、死刑が求刑され宣告されるのは当然に予想されるところです。したがって、オウム真理教事件のような事案に死刑廃止論者を裁判員として選任することは、事実上ありえないと言ってよいでしょう。また、それが妥当な運用だと思われます。したがって、裁判官に対して自己の思想・信条等を明示的に述べることによって、選任対象から除外される可能性は、一概に否定できないだろうと思われるわけです。ただ、当然に除外されるわけではなく、あくまでも個別的・具体的な判断の結果であることは指摘しておく必要があります。この問題は、制度設計の段階から重要な問題として議論されていましたが、現在のような法規定として決着していますので、見直しを含めた将来的な問題として残されています。

他方、思想や信条等は、理由を付さない不選任の対象にはなりえます。どのような場合が想定されるかと言うと、確信的な死刑廃止論者であることを宣言しているような人物が考えられます。たとえば、評論家や一般人が自己の確信的な意見を新聞や雑誌等に投稿したり発表することは可能ですから、そういう人物の存在をたまたま検察官が探知していれば、当然に、検察官が理由を示さないで不選任とすることができます。また、その逆の場合(極端な厳罰論者)もありうるでしょう。理由を示さない不選任請求は、文字通り理由の開示を必要としませんから、どうも顔付きが変だということを根拠にやってもいいわけです。要するに、「この人はだめです」と言えば済んでしまいます。ただ、実際には、極端な死刑廃止論者や極端な厳罰化論者を探知することは極めて困難ですから、実効性のある形で裁判員の選任から除外することは必ずしも容易ではありません。

もちろん、現実的な問題として言えば、過料さえ覚悟すれば、裁判員の選任を逃れることは可能ですから、「良心にもとづく兵役拒否」のように、「良心的な理由にもとづく裁判員への就職拒否」は現実的には可能であろうと思われます。カトリックの司教団が、司祭に対して、過料を払ってでも裁判員裁判に関与しない方がいいとの助言をしていますが、こうした対応がひとつの回答であるように思われます。ただ、このような対応によってカトリックに対する社会の風当たりがどのようなものになるかは予測の限りではありません。

IV 裁判員に期待される役割とその実現

1 次に、裁判員に期待されている役割と、それがどのように実現されていくかということに移りましょう。すでに述べたように、わが国の裁判員制度は、裁判員が公判廷における刑事裁判手続の全過程、すなわち事実認定、法令適用、量刑のすべての場面にわたって関与する構造になっています。したがって、これらのすべての場面において、国民の一般的な市民感覚が期待されているということです。

まず、事実認定手続への関与ですが、この場面では、2つの原則を遵守することが非常に重要なものになってきます。ひとつは、「無罪推定原則」と呼ばれるもので、有罪が確定するまでは無罪が推定されているという原則で、ここから裁判官・裁判員の予断を排除するような手続の運用が必要とされます。この原則は、英米法などでは全く当たり前のこととして言われていますが、日本では必ずしも当たり前になっていないように思われます。むしろ、一般の市民感覚は、「起訴されているのだから有罪だろう」といった有罪推定的な感覚があるように思われます。したがって、ここでは、裁判所がこの原則を分かりやすく説示することが非常に重要になります。この原則から導かれるのは、検察官が証拠にもとづいて有罪を証明しなければならないということです。被告人が無罪を証明するわけではありません。これが「推定」ということの意味です。無罪が推定されていますから、有罪だと言うためには、有罪を主張する側(検察官)が推定(無罪)を覆すだけの証明(有罪立証)をしなければならないわけです。

ただ、わが国においては、被告人を起訴するかどうかを検察官の裁量に委ねるという、起訴裁量主義が採用されています(刑訴法248条)。また、検察官も公務員ですから、起訴した被告人に無罪判決が出されると、検察官として大きな失点になってしまいます。したがって、検察官としては、有罪判決を確実に獲得できる事件を起訴していくことになります。このことから、現在のわが国の有罪率は、99.8%強という驚くべき高率のものになっています。この点から、逆に、「検察官が起訴した以上は有罪になるはずだ」という事実上の有罪推定的な感覚が社会内に醸成され、それが裁判員裁判の事実認定に影響を与えるのではないかが懸念されるわけです。

2 2つ目は、事実認定における証明の程度について、「疑わしきは被告人の利益に」(一般的には「疑わしきは無罪に」と言われます)という原則をきちんと守らなければならないという点です。つまり、被告人を有罪と認定することについて合理的な疑いが残る場合には、検察官の有罪立証が失敗しているということになり、無罪(あるいは軽い犯罪としての有罪)を言い渡さなければならないということです。この点に対する素直な感覚、つまり自分として合理的な疑いが残っていると考えるかどうかについて、素直(素朴)な市民感覚に大きな期待がかけられているわけです。そして、この判断は、自己の合理的な感覚や印象(心証)にもとづいて自由に行えば足ります。しかし、この自由な心証というものも決して絶対的なものではありませんから、最終的には多数決による評決で結論を出さなければなりません。また、実際には、殺すつもり(殺人の故意)で殺害したのか、傷つけるつもり(傷害の故意)で殴ったら転んで打ち所が悪くて死んでしまったのか、という故意の内容や、故意の内容に応じて殺人罪になるのか傷害致死罪になるのかという認定、あるいは責任能力(自分の行為の社会的な意味を認識する能力)の有無など、判断が困難な場面も決して少なくはありません。

法令の適用は、きわめて専門的な内容であると同時に、テクニカルな側面もありますから、職業裁判官の判断に任せることでよいでしょう。おそらく、この場面では、それほど市民感覚に期待されるものはないように思われます。また、事実認定に当たっては、適正な手続と証拠によって裁判をしますが、裁判員は必ずしもこの点についての知識を持っていなくても、裁判官が適切な訴訟指揮を行いますので、これに期待してよいように思われます。

3 最後に、有罪とされた被告人をどのように処罰すべきか(量刑)を判断する場面が、市民感覚への期待が最も大きいと思われます。そして、裁判員裁判になれば、一般に、従来よりも量刑が重くなることが予測されています。現在の市民感覚は、職業裁判官による量刑に対して、軽すぎはしないかという疑いや一定の不満を持っているように思われるからです。したがって、量刑判断において市民感覚が素直に発揮されることになれば、こうした疑問や不満を是正する方向に機能することになると思われますから、被告人に対して宣告する刑が一定程度重くなることが予測されるわけです。

もっとも、量刑判断も手足を縛られずに、全く自由にできるというわけではなく、一定の枠があります。まず、量刑の前提となる大枠として、刑法には、各犯罪に対して一定の幅を持った刑罰(法定刑)が明示されています。たとえば、刑法199条の殺人罪においては、非常に広い幅ですが、死刑または無期もしくは5年以上の懲役が法定されています。他方、刑法235条の窃盗罪(これは裁判員裁判の対象犯罪ではありませんが)においては、10年以下の懲役または50万円以下の罰金が法定されています。したがって、窃盗しか犯していない被告人については、いかに悪い事情がある場合でも死刑を科すことはありえないと言えば分りやすいでしょう。次に、刑罰を重くしたり軽くしたりする事情(加重減軽事由)も刑法に明示されていますし、その順番とやり方については刑法72条に例示されています。したがって、それらの条文に従って法定刑に修正を加えることによって、どの範囲から量刑をすればよいかが決まってきます。さらに、実際には、公益の代表者としての検察官の求刑が一応の上限の目安になります。なぜなら、検察官は刑罰による社会的な非難を求める立場ですから、個々の事案について、最大限の社会的非難の程度にもとづいて求刑してくると言ってよいからです。従来、求刑に対して7割量刑とか8割量刑といった表現で、一定の量刑相場が存在するかのような言われ方がなされてきましたが、それは、検察官の求刑がこのような性質をもっているからに他なりません。もっとも、求刑を上回る量刑が排除されているわけではありませんから、検察官の求刑が上限でなければならないというわけではありません。実際、連続強姦の事案で、検察官が有期懲役を求刑したのに対して、無期懲役を言渡した判例もあります。ただ、このような事態はごく例外的なものですから、検察官の求刑は、依然として量刑判断の際の一応の目安になることは否定できないように思われます。

それから、刑事裁判実務において重視されていると言われる量刑基準が、改正刑法草案の48条に規定されています。どのようなものが基準とされているかと言うと、責任の程度、犯罪の抑止、当該犯罪者の改善・社会復帰を目的として、被告人の年齢や性格等々が考慮されなければならないとされています。これらの基準からすれば、犯罪と刑罰との釣り合い(罪刑の均衡)を重視する成人の刑事事件においては、事実上、量刑相場と言えるような一定の目安や傾向が出てくるのは仕方がないように思われます。ただ、改正刑法草案は実定法として成立しているわけではありませんから、48条に規定する量刑事情も、目安にとどまっています。

4 おそらく最も困難な問題を生じる場面は、論理的には可能な範囲内で、極端な量刑が予想されるような場合です。これは実際にもあり得る話です。たとえば、大量殺人事件は当然に死刑が想定されますが、ここに確信的な死刑廃止論者が裁判員として選任されたらどうなるでしょうか。また、その逆に、刑罰権の行使は究極の権力の行使ですから、こういう権力を厳罰化の方向で行使したい人もいるわけです。そうなると、抽象的には、厳罰を信条とする者が選任されることによって、他の事件と不釣り合いに量刑が重くなるという事態が生じえます。いずれの場合にも、制度を適切に運用するためには、極端な人物を裁判員に選任しないことが望ましいのですが、すでに述べたように、この不選任は確実ではありません。そこで、わが国では、多数決による評決を採用することによって、このような問題を解消しようとしたわけです。

まず、原則としては、全員一致を目指した評議を行います。アメリカの陪審制度では、通常、事実認定について12人の意見が一致するまで議論を重ね、一致した場合には裁判官が量刑をし、一致しない場合には評決不能ということになります。わが国の裁判員裁判では、事実認定と量刑のいずれの場面にも裁判員が関与するとともに、最終的には多数で決することになっています。非常に重大な判断を迫られる死刑判決も、その例外ではなく、多数決によるということになっています。ただ、すでに述べたように、裁判官の全員が反対した場合には、6対3であっても決せられないことになっているだけです。次に、先ほど述べた一般的な危惧ですが、たとえば極端な厳罰化論者がいるときに量刑が重くなるかという点については、現実的にはそれを排除しうる方法になっています。それは、量刑における評議において意見が分かれた場合には、被告人にとって最も不利な意見から、徐々に有利な意見へと順に多数決で決することになっているからです。具体的には、死刑を相当とする意見があると、被告人にとっては死刑が最も不利益な刑ですから、その是非の判断が出発点になります。死刑相当の意見が裁判官1人を含む多数になれば、その時点で死刑判決が評決となります。しかし、そうならなかった場合には、死刑は選択できないので、次に不利益な無期懲役でよいかを判断することになります。それでも多数にならなかったら、今度は上限が20年の有期懲役でよいかを判断するといったように、最も多数を取るところまで何回か繰り返していきます。したがって、さきほど言ったような極端な事例は、偶然に極端な人物が多数選任された場合(理論的には皆無でないとしても)を除いて、事実上排除されることになっています。

ただ、死刑について多数決でよいかという問題は、立法論上の重大な問題として残っています。アメリカの陪審裁判は、陪審員は事実認定だけに関与するのが一般ですが、カリフォルニア州などでは、死刑については陪審員の評議を前提として、全員一致でないと評決不能になってしまいます。こうした事情もあって、わが国の研究者の中には、裁判員裁判でも死刑判決だけは全員一致によるべきだという立法論を主張する立場が見られます。しかし、おそらく現実的には、このような制度を導入することは困難だろうと思います。なぜならば、全員一致を要求する場合、裁判員の中に死刑廃止論者が1人でもいれば、死刑を廃止することと同じ結果になります。しかも、死刑廃止論者であるということの申告義務はありません。したがって、知らん顔をして裁判員に選任された後に、確信的に死刑は不相当だと主張し続ければ、死刑判決は宣告できないということになってしまいます。これは、裁判によって事実上の立法を実現することと同じになりますし、他の死刑相当事件との間に大きな不公平を生じることにもなります。死刑の回避は重要な論点ではありますが、やはり、死刑制度そのものの問題として議論すべきものだと考えます。

V 裁判員の守秘義務と保護

1 事実認定と評議・評決の全般的な事柄については、これまで述べてきたところで充分であろうかと思います。他方、評議と評決の場面における裁判官の関与の仕方については、国民の市民感覚に期待するという制度の趣旨を尊重するならば、裁判官はできるだけ表面に出ないという姿勢に徹するべきだろうと思っています。ただ、法令の適用が問題になる場面や、責任能力が否定されたらどうなるかといった点については、専門家の立場から分かり易くきちんと説示する必要があるので、裁判員に自分たちの自己責任でやってくれと言って済ますわけにはいかないでしょう。このように、職業裁判官としての役割が要求される場面はあろうかと思いますが、事実認定と量刑の場面は、裁判員の市民感覚を存分に発揮させるためにも、裁判官はあまり表面に出ない方が適切だと思っています。

評議と評決に関して重要なのは、裁判員・補充裁判員の守秘義務です。裁判員と補助裁判員には一定の守秘義務が課されており、その最も重い違反に対しては、法は6月以下の懲役という厳しい刑罰をもって臨んでいます(108条1条)。そこで、処罰の対象になる守秘義務が問題になりますが、法は2つのものを規定しています。そのひとつは、「評議の秘密」で、評議自体に関する事項と評議の内容が守秘義務の対象となっています。すなわち、評決に達するまでどういう議論がなされたかという議論経過、および裁判員や裁判官が述べた意見の内容が対象となります。誰が何を言ったかだけでなく、どういう意見があったかということも含めて漏らしてはならないし、意見を支持した数または反対した意見の数も漏らしてはなりません。さらには、評決における多数決の数、全員一致だったのか、どのような多数で評決に至ったのかも漏らしてはならないことになっています。また、「評議以外で職務上知った秘密」も守秘義務の対象になります。たとえば、被害者などの事件関係者のプライバシーは当然のこととして、裁判員の名前も漏らしてはならないことになっています。裁判員裁判も公開裁判でなければなりませんし(憲法82条1項)、裁判員は裁判所が管轄する地域内の有権者から選ばれていますから、傍聴に行けばどこの誰かということは知りうるのですが、積極的にその名前を漏らすことは禁じられているわけです。

他方、裁判員が見聞した事実であっても、証人尋問の内容や判決の内容などは、守秘義務の対象から除かれています。これらは、傍聴に行けば当然に知り得る内容のものだからです。したがって、公開法廷で傍聴人が見聞できることについては、裁判員についても守秘義務の対象から除外されるのは当然のことです。

2 もちろん、このような守秘義務に対しても、その内容や範囲などとの関係で、一定の批判があります。それは、個々の事件に対する裁判が市民感覚を反映したものであったかどうかは一定の検証をしないと判断できないことに関わっています。しかし、これだけ厳しい守秘義務を課すと、検証の対象として最も重要な評議の内容と評決については、外からは何もわからないことになりかねません。そこから、法の規定するような守秘義務は、市民感覚の反映が本当に実現しているかの検証を妨げることになるとして、弁護士会などは守秘義務の対象を限定すべきことを主張しています。たしかに、現在でも、裁判が結審した後に、裁判員を務めた者の有志が記者会見や報道のインタヴューに応じたりすることによって、検証のための一定の努力がなされていることは否定できません。しかし、それで十分なのかについては、大きな疑問が残ります。この問題は、市民感覚の機能に対する検証という利益と、裁判員の保護や自由心証の保障という利益が衝突する場面であり、論理だけでは解決できない困難なものです。

裁判員裁判の検証との関係では、公判前整理手続にも困難な問題があります。たとえば、裁判(公判廷)でどのような証拠を使うのか、どのような点を争点として裁判を進めるのかといったことは、公判を開始する前の段階で議論されます。しかし、裁判員は公判段階からしか参加しませんから、公判前整理手続は、裁判官、検察官、弁護人の三者で行われることになり、この場面での市民感覚の発揮はありえません。しかも、平均して4日間程度で裁判を終結させようとすると、かなり多くの事柄を公判前整理手続で処理しなければならないことになります。したがって、多くの事柄を処理しなければならない公判前整理手続については、事実上、検証の手がかりが存在しないことになります。裁判員裁判の検証という点では、大きな問題として将来に残されていると言わざるをえません。

3 裁判員の保護に関して、裁判員法は、裁判員に対する請託罪や威迫罪を独自に規定しています(106条、107条)。また、それ以外にも、暴行罪や強要罪(刑法208条、223条)といった刑法上の犯罪も、当然に成立することがありえます。さらには、裁判員に害を及ぼす可能性のある被告人の事件を個別的に対象から外すことによって、実害を防止することも規定しています(3条)。実際、暴力団関連の対象事件が3条にもとづいて裁判員裁判から排除された事例がすでに確認されています。裁判員の保護のためには、おそらく、このような方策で充分であろうと思われます。

VI 裁判員裁判制度の将来

裁判員裁判制度の将来についてですが、正直なところ、現時点では、必ずしも見通しは明らかではありません。しかし、冒頭で述べたように、弁護士などの法曹関係者を巻き込んだ反対論も非常に根強いものがありますし、そのような主張の中には今後の議論や見直しに役立つものもあります。他方、事態はすでに後戻りできない状況にありますから、徐々に定着することを目指して運用していくことこそが前提でなければなりません。当面は、被告人の権利をどのように保護するかを考えながら、上手に運用していくしかないでしょう。

「被告人の権利」を特に問題にするのは、法律家でない被告人が自分自身で自己の権利を守るのは非常に困難で、法律専門家としての弁護人の役割が重要であることに関わります。しかし、裁判員裁判が平均で4日間程度を目指してインテンシブな公判手続で行われることになると、それに十分に対応できるだけの能力と時間が弁護人に保障されるのかという問題が生じてきます。おそらく、裁判員裁判制度の現実的な問題として最大のものは、この点だと思われます。ただでさえ国選弁護人になりたがらないという弁護士界の状況を考えたとき、裁判員制度における国選弁護人の苦労は、収入が少ないということにとどまりません。検察官と弁護人の応酬の場である公判においては、アメリカでは一種のゲームに喩えられるように、ある種のパフォーマンスが必要とされます。ところが、この点で、検察官と弁護人の間で力量に非常に大きな差が出てきてしまうと言わざるをえません。模擬裁判をご覧になった方はお分かりでしょうが、検察官側は、非常にビジュアルで、きわめて効果的なプレゼンテーションを行います。これまでの刑事裁判との大きな違いは、検察官のプレゼンテーション能力の向上にあると言ってもよいくらいです。今までは、検察官による公訴事実の朗読や論告求刑ほどつまらないものはありませんでした。要するに、人が聞いているかどうかに関係なく、声が小さかったり、早口であったり、表情に乏しかったりと、およそ人を説得しようという気が全く感じられないものが多かったと言っても過言ではありません。それは、書面によって裁判官を説得すればよかったからです。しかし、裁判員裁判においては、説得の相手は裁判員という素人です。こうなると、素人を説得するための高いプレゼンテーション能力が必要になってきます。この点で、法務省を中心として検察官のプレゼンテーション能力を高める訓練が行われています。これに対して、弁護士側でも、弁護士会を中心として訓練はしていますが、いまだに十分とは言えない状況です。裁判員経験者が、検察側と弁護側のプレゼンテーションについて検察側を高く評価しているのも、このような事実を裏付けるものでしょう。裁判員裁判制度は高尚な理念のもとに設計されていますが、現実的には、このような形で運用の在り方が決定される可能性を内在させたものだということは注意しなければなりません。  裁判員裁判制度をきちんと定着させていくためには、法曹三者(裁判所、検察官、弁護士)の間での連携を確実なものとしたうえで、きちんとした市民の監視のもとで、地道な努力を続けていくしかないと思います。

――丸山氏 講演 終了

(付記) 本報告の後、各地で裁判員裁判が行われた結果、困難な問題が予想された事案(性犯罪、少年の逆送事件、凶悪事件など)についても、徐々に事例が集積されてきています。しかし、裁判員裁判の対象事件を犯罪の種類で決定している以上、今後もさまざまな困難な問題を内包した事件の出現が予想されるところです。ある程度の事例が集積した時点で、その傾向などについて改めて検証したいと考えております。

南山大学社会倫理研究所