南山大学社会倫理研究所研究所の詳細Topデータベース懇話会・研究会オンラインINDEX>講演

南山大学社会倫理研究所
2005年度第3回懇話会 ■講師 中西 久枝先生■

講演の概要

2005年6月4日(土)、南山大学名古屋キャンパスJ棟1階Pルームにて開催された社会倫理研究所2005年度第3回懇話会において、名古屋大学教授・中西久枝先生による「9.11事件と中東イスラーム世界」と題する講演が行われた。中西先生はまず、9.11事件以後の米国単独行動主義の進展の中で、欧米文化との摩擦という形で政治化されて語られがちな中東イスラーム世界をわれわれはどう理解すればよいのか、という問題意識を掲げ、さらに、G8の「拡大中東構想」=「中東の民主化」構想に言及し、人権やジェンダーという観点からこの構想の問題点を捉え直す必要があると指摘する。そして、9.11事件後の中東の民主化に関する言説は常に欧米方式に傾いている、という認識のもと、欧米とは一線を画する中東イスラーム世界の文化価値、人権思想、ジェンダー観を丁寧に見ていく。まず最初にイスラーム世界の人間の権利について説明され、それが欧米や日本の発想とは根本的に異なることが指摘される。また、マフラム/非マフラムの二分法に基づくヴェールのしきたりに言及しながら、中東イスラーム世界のジェンダーがやはり独特のものであることが指摘される。そして最後に、中東イスラーム世界の文化と欧米の文化の相違がアナログ/デジタルの相違に喩えられ、そのグレーゾーンの豊かさについて説明される。中東イスラーム世界特有の発想における曖昧さと時間の重要性が指摘され、現在の中東地域での民主化の不可避的な流れを認めつつも、じっくりと時間をかけるべきだと述べられている。(文責|奥田)


*以下のコンテンツは、懇話会で録音したものを活字化し、講演者本人の校正をへて作成されたものです。無断の転用・転載はお断りいたします。引用、言及等の際には当サイトを典拠として明示下さるようお願いいたします。

9.11事件と中東イスラーム世界:人権とジェンダーの視点から

中西 久枝 (名古屋大学大学院国際開発研究科教授)

もくじ

1. 9.11事件後の米国の対中東政策2. イスラーム的人権における人間の権利(と義務)【|1) イスラーム的人権論における平等2) 人間の平等、尊厳、自由3) 社会貢献とは何か→社会の幸福|】3. 中東イスラーム世界のジェンダー:ヴェール4. 中東イスラーム世界と欧米の文化試論【|1) アナログ文化とデジタル文化2) イスラーム世界と欧米の個人主義|】おわりに【|1) 曖昧さと時間の重要性2) 今が重要なのか(デジタル時計)3) 普遍主義と文化相対主義のあいだ |】

ただいま御紹介にあずかりました名古屋大学の中西でございます。きょうは天気が悪いなか、お越しいただきありがとうございます。さきほど御紹介いただきましたように、シーゲル神父とは昨年お会いし、神父のキリスト教に関する理解に非常に感銘を受けました。名古屋大学は非常に近いのですが、南山大学の先生方と共同で何かをしていく機会が今まで少なかったように思います。その意味で今回お招きいただいたことをたいへん光栄に思っております。1時間ちょっとお話をさせていただき、その後、御質問を受ける時間にしたいと思っております。

このプロジェクトへの参加依頼をされた後、私は何をお話しすべきか最後の最後まで非常に悩んでおりました。9.11事件後の日本の国際関係、あるいは日本の社会倫理的な観点から考えたオーストラリア諸国とのあり方とか、アジア諸国との関係がプロジェクトのテーマであるとお聞きしたので、このようなテーマをつけたのですが、あまりに大風呂敷を広げすぎて、これでは焦点が定まらないのではと思い、『人権とジェンダーの視点から』という副題をつけさせていただきました。

まず、きょうの報告の趣旨ですが、9.11事件後のアメリカの単独行動主義が日に日に進展していくなかで、中東イスラーム世界のもつ文化的な価値とか社会規範が、欧米の文化との摩擦という形で政治化され語られているという傾向がよく見られます。そうした政治文脈のなかで、私のお話が「中東イスラーム世界をどのように理解すべきか」ということを考える一端になれば幸いです。それがきょうの報告の1つ目の趣旨です。

2つ目に、もう少し副題に合わせて申し上げますと、中東イスラーム世界の人権とかジェンダーに対する考え方は、欧米や日本の考え方とは一線を画するものがあると思います。その特徴を少し分析したいと思います。2004年6月に開催されたG8サミットで「拡大中東構想」というものが提案され、日本の小泉首相もG8の1国としてはそれを推進するように努力していくと声明しています。拡大中東構想とは、言い換えれば「中東の民主化」構想と言われているものですが、人権やジェンダーという観点から考えた場合「中東の民主化」構想はどのような問題点をはらんでいるのかというところを少し捉え直してみたいというのが2番目の趣旨です。

1. 9.11事件後の米国の対中東政策

最初に、9.11事件後のアメリカの対中東政策について、その背景をお話ししたいと思います。アメリカの「予防攻撃」というドクトリンは、結局はイラク戦争という形で具体化されました。また、予防攻撃の論理は、イラク戦争の正当化の過程で、イラクへの攻撃は中東を民主化するためでありイラクがその先陣を切るという論理に変わりました。その後、テロリストをかくまっている、あるいはイラクには大量化学兵器があるというようにイラク攻撃の必然性は二転三転しました。攻撃当時のディック・チェイニー副大統領は「自由の推進をするためには、拡大中東地域において改革に専心する人々を支持するのが我々の戦略である」と発言し、イラクを民主化させることが中東における民主化拡大につながっていくと主張しました。つまり、アメリカの「予防攻撃」のドクトリンは軍事的というよりは政治的な展開をしていったと思います。

拡大中東構想は、2004年6月のG8サミットで重要課題の1つと捉えられました。その構想の概要を簡単に説明すると、(1)中東域内における民主主義、人権、メディア、女性NGO、あるいは一般的なNGOに対して資金提供を行っていくこと、(2)それによって、市民社会を活性化し、強化していくこと、(3)開発援助のターゲットとしては、女性の社会進出を目標にし、ジェンダー平等、識字率の向上を目指すこと、などが主要課題になっています。

レジュメに新聞記事を2枚つけました。そのうちの1つ『大中東圏構想 民主化への試練』という新聞記事はサミットの直前に出たものですが、この記事には、中東の民主化への道がいかに厳しいものであるかが書かれています。記事の写真の下を見ていただくと、民主化の動きが選挙とか女性の閣僚の数がどれだけ出たかということで位置づけられています。こうした観点そのものが、アメリカが考えている民主化とは何かということを映し出していると思います。女性の社会進出が米国の民主化指標の1つとして捉えられているがゆえに、それに合わせて日本の記事も、女性の閣僚の数があたかも民主化の一大指標であるかのように取り上げられるわけです。

2002年に『アラブ人間開発報告書』というのが出版されています。これは国連開発計画が出したものですが、この報告書を読むと、アラブの22カ国においていかに民主化が後れているか、あるいは人間開発指数が低いかなどがさまざまな形で出ています。例えば、アラブの22カ国のGDPはスペインよりも低い、人口の3分の2が1日2ドル以下の生活をしている、インターネットへのアクセスが全人口の1.6%しかない、女性国会議員の比率は3.5%であると。そうした指標のもとにいかに人間開発が後れているかということをさかんに説いているわけです。中東拡大構想を展開していくためには、まさに都合のよい報告書となっているように思います。

この開発報告書の指標は、当該諸国の現実からは少し遠いものがあるのではないかと思います。例えば、女性の国会議員の比率は3.5%という数字が上がっていますが、さきほどの新聞記事のサウディアラビアやクエートのところにも書いてあるように、中東にはまだ女性の参政権が認められていない国があります。ですから、参政権が認められていないから当然国会議員も出ないという現実が実際にあるわけです。それは、ある意味では非常に民主化が後れている地域だと、欧米的な発想から言ってしまうことは可能です。しかし、サウディアラビアとかクエートには女性専用の銀行があって、その銀行の起業家には女性がかなり多くいます。そういう意味で経済開発にかなり貢献をしているという面が一方ではあるわけです。しかしそうした指標は報告書にはありません。

また、国会議員がいる、いないという数字になると当然低いわけですが、それをもってのみ女性の社会進出が後れていると言ってしまうと、やはりそれは問題ではないかと思います。つまり、こうした報告書には、中東においては民主化がいかに後れているかということを裏づけられるような指標が選択的に使われているのです。

そこで、中東の民主化は欧米方式の民主化をたどるのか、あるいは中東イスラーム世界の文化価値、人権の考え方、ジェンダー観は欧米方式とどのように違うのかという点を、少し具体的な例を挙げながらお話ししたいと思います。

中東イスラーム世界のジェンダー関係について言えば、中東に欧米流の民主化を移植することになった場合、もっとも摩擦がおこりやすい部分はジェンダー関係にかかわる部分ではないかと考えています。ヨーロッパのイスラーム教徒の人口は1,600万人いますので、実際にこの問題はフランスにおけるヴェール問題という形でも表れていると思います。

そうした問題関心から、きょうは最終的にはジェンダーの話へもっていきたいと思います。その前提として人権という概念がどのように捉えられているのかということを考えてみたいと思います。そうでないと、ジェンダー云々の問題を論じるわけにはいかないのではないかと思います。それでは次にイスラーム的人権についてお話します。

2. イスラーム的人権における人間の権利(と義務)

1998年の11月に亡くなったアラメ・ジャアファリ師という、イランのイスラーム僧の『イスラーム的見地及び西洋的見地からの人権』というペルシャ語の本があります。ここでは、それを中心にしながらイスラーム的な人権論の特徴をお話ししたいと思います。

最初にお断りしておきますが、この方の考え方がすべてイスラーム的であると言うことはできないと思います。イスラーム的な人権論にもさまざまな潮流があって、きょうはその一端をお話しするに過ぎないと思っています。しかしながら、具体的なことをお話ししなければ前にも進めませんので、普遍化できないということを1つの限界として意識しつつも、彼の思想を通じてイスラーム的な人権とはどのようなものかということを少しお話したいと思います。

1) イスラーム的人権論における平等

まず、イスラーム的人権論における平等という概念ですが、「神の前で万人は平等である。もし差異があるとすれば敬虔さにおいてのみである」ということがコーランに謳われていると、ジャアファリ師は主張します。敬虔さとは何かということですが、敬虔の念というのは、タクワの精神の違いだと言うわけです。タクワとは、人間は神と契約を結んでおり、その契約をいかに実践できるかということです。別の言葉では「慈悲」という言葉がかろうじて日本語では翻訳されている場合もありますが、仏教で言う慈悲とはかなり違っています。どちらかと言うと、神との契約をいかに守れる人間であるのかということによって、その人間の宗教心の高さが測れるというように考えてもよいのではないかと思います。

タクワの精神の違い、つまり神との契約を実践できるという、その実践のレベルによって人間はかなり段階があると、師は考えています。その段階に応じて、つまりタクワの精神のレベル、どれだけ到達できたのかということに応じてその人間の「報い」がある。それが本当の平等であるという捉え方をしています。

2) 人間の平等、尊厳、自由

人間の平等とか尊厳、自由というものは彼の思想のなかで2つに分けられています。1つ目が絶対的(自然的)平等です。つまり、人間が生来もっている尊厳というものが存在する。「神から与えられた崇高な属性や美徳をもつ」という意味では、どのような人間も平等である。人間は生まれつき神から美徳を与えられているのであり、人間の属性としての平等というものが存在する。これは、罪を犯して権利を剥奪されない限り、誰もがもっている尊厳であると規定しています。

もう1つの平等は、価値の尊厳というように捉えるわけですが、従属的平等です。精神面での完全性とか敬虔さをどの程度達成しうるかというのは、その人間の働きかけや努力によるものであって、教育とか美徳、英知、敬虔さを通じての社会貢献のレベルによって「報い」がある。ですから、本当の人間の平等とは人それぞれの資質に見合った報いが与えられることであるというように捉えています。この辺りは儒教的な発想に近いものがあると思いますが、それがジャアファリ師の平等論のなかの1つの特質です。

そうした平等論を支える考え方として「自由意志」というものがあります。自由意志というのは、「自分の立場を規定したり制約したりするのは、その人のもつ人間性、あるいは人格であって、それが前提となる自由である」。つまり人間性、あるいは人格は、その人間がどのような行動をとるかという人間の身の処し方を決定するものであって、人格、あるいは自分の身の処し方を自分の力でどれだけコントロールできるかというのは、逆に自分でコントロールしうる能力が高ければ高いほど、物事に対する自由度は高くなるという捉え方をしています。つまり、自分の人格に対するコントロールがあればあるほど、いかなる行動をとろうとも、その行動は神から与えられた美徳から外れることにはならない。外れないということは、つまり自分の行動への自由度は高まっていくという捉え方をしています。

言い換えれば、これは神に対する義務を伴う自由であると。自由と言うと、国家権力からの自由とか、西洋思想のなかの人権論で言えば、権利を剥奪されないように自由権を主張するという捉え方があると思います。しかし、ここではあくまで神と人間のあいだに契約があって、その契約を果たさなくてはならないという義務が必ず存在し、その義務を伴う自由であるという捉え方です。個人がタクワに達するということは、私秘的な幸福に当たる。個人が神との契約を果たすことができれば、それは個人の幸福になる。そして、そういうものを獲得しえた者は、自分の人格に対してのコントロールを得るということです。そうしてその人間は私欲を捨てて公に奉仕できるような人間になることができ、個人の幸福が最終的には社会の幸福に通じていくという捉え方をしています。

3) 社会貢献とは何か→社会の幸福

社会貢献とは何か。それは社会の幸福とは何かということになるわけですが、個人の社会的な義務と責任は、それぞれの資質に見合った貢献をすることである。さきほどの真の平等というのがタクワをどれだけ獲得できたのかによって見合った報いがあるべきだということにつながってくるわけです。お金のある人は施しをし、寄附をするのが、その人の資質に見合った貢献である。中東にはカナートという伝統的な地下水路がありますが、どうすれば水が出てくるかという井戸の堀り方を知っている人間はカナートを掘ることによって社会に奉仕する。ですから、役に立ち、実用性のあるものでなくては知識とは言えない。知識をもった者が教育活動などを通じて社会に広めたり、応用したり、還元しないのであれば、それは悪ですらあると考えます。

そして、思想や言論の自由は、人を中傷したり、人の名誉や尊厳を奪ったりするようなものであってはならない。そういうところで、思想や言論の自由を認めることが必ずしも社会の幸福にはならないという発想が裏側にあると考えられます。

社会貢献とは何かの2つ目の柱ですが、個人が自分の能力に応じて能力を発揮することが社会貢献である。肉体的な違いは神の創造物としての人間の存在から来るというように捉えられているので、肉体的な違いによる能力も含んだうえでの能力の発揮が前提となります。ここからジェンダー論に入ってくるわけですが、肉体的な違いを考慮した男女の役割をそれぞれが担える社会が理想的なイスラーム社会であるということになります。そうすると、女性は男性ほど力がないので重たいものはもたない。子供は母親の体内から生まれるがゆえに、子育ては女性の方が向いている。神から与えられた属性から考えると、男性は闘争的であるけれども女性の方が平安を与える存在である。したがって、家庭での女性の役割が重視されていくということになります。

ところが、家庭での女性の役割が重視されるということが女性を家庭に閉じ込めるというような発想にはなっていかないというのが、ここからのポイントになります。女性の役割は子供を育てることで、それは個人の幸福なのですが、個人を幸せにすることではなく、それはひとつの社会貢献であると考えています。

預言者ムハンマドがメッカからメディナというところに都を遷しました。それを聖遷と呼びますが、都を遷した後メディナでイスラーム共同体というものをつくります。それはウンマと呼ばれていますが、現在おこっているイスラーム復興はすべてそのウンマをいかに再生するかという運動です。イスラームでは宗派に関係なく、女性が子供を育てて次の世代を育てるということはウンマに対する貢献だという捉え方をしています。ですから、子育ては単に家庭での女性の役割ということではなく、社会に対する役割だという発想が根底にあります。女性が家事を行ったり、子育てをしたりすることは、「ドメスティック」な仕事にはならないわけです。そこに欧米や日本で考えられている女性の役割としての家事とか子育てとは根本的に違う発想があると私は感じています。

他方、男性は、女性が家族生活を運営し、子供を平穏に育てる役割に身を委ねられるようにするために、女性や子供が必要な生活の糧を保障する責任を負うと、イスラーム的人権論では捉えられています。

この役割分担の違いは、イスラーム法の「報復法」、血の報いというものに反映されています。一般的に、イスラーム法では男性が殺された場合と女性が殺された場合では、補償する金額が男性は女性の2倍であると解釈されています。これは西欧的な観点から考えると不平等になるわけですが、イスラーム社会では男性は自分の子供、女性、あるいは家族を養わなくてはならないという社会的な義務を負っているので、そういう義務を負った人間が殺されることは社会的な効果としても違うという捉え方をしているわけです。ですから、男性が殺された場合の方がやはり重いと考えます。つまり、経済的に男性に依存する人たちーそれは妻や子供たちが代表的ですがー多いからです。そのような男女の社会的役割分担の発想が「報復法」にも表れているわけです。

結婚における女性の経済的な保障は、イスラーム法の考え方からすると3つあるとコーランに書かれています。家庭においては男性が家族生活を保障しなくてはいけないわけですから、婚姻契約書でメヘリエと呼ばれている婚資金の金額を決めます。結婚は契約と捉えられていますから、万が一、夫が亡くなったり、離婚したりするようなことがあった場合、夫は妻に幾らお金を払うのかという金額を結婚するときに決めておきます。前払いと後払いがあって、前払いは結納金みたいなものですが、後払いは結婚してからいつ払ってもよい。だいたい金額の1:9の割合で、1を前払いとして払い、9をその後払うということになっています。もう1つ、男性が払わなくてはならないのは、乳代と呼ばれている、現代的な言葉で言えば養育費です。これはコーランに規定されています。3番目に、最低限の生活費。これもナファカという言葉でコーランに規定されていて、そうしたものは払わなくてはいけない。

ですから、ムスリム女性にとっての就労は、生活費を稼ぐのではなく、個人の能力を高めることにある。あるいは、能力を高めることによって達成感を得る。それが女性のとっての就労であるということをよくムスリムの女性活動家は主張しています。女性の働く場所は看護婦、医者、秘書、教員、芸術家などさまざまな職業が実際には存在するわけですが、それはむしろ生活の糧ではなく、個人の能力を高めるために行うのが理想的であるというように捉えられています。

3. 中東イスラーム世界のジェンダー:ヴェール

ヴェールというのはアラビア語で「パルダー」といい、カーテンという意味です。「見知らぬ男性から女性を守るためのしきり」であると考えられています。そのしきりとは何かということですが、マフラムという関係にある男性とそれ以外を区切るということで、父親、夫、夫の父親、自分の兄弟、自分の子供や夫の子供などがマフラムという関係にあるわけです。そういう関係にある男性、あるいは男の子の前ではヴェールはしなくてもよい。しかし、それ以外の関係の男性とはヴェールをしなくてはならないというのがこのカーテンという女性と男性の空間をしきるものです。マフラムとは言ってみれば結婚する可能性がない人間関係のことを指し、マフラムでないというのは結婚する可能性がある男性、あるいは男の子のことを指すと言われます。

そこが1つの境界になるということはどういうことかと言うと、ムハンマドが宗教を始めたときも部族社会でしたし、現在でもアフガニスタンやイラクではいまだに部族主義が残っているように、イスラーム社会は基本的に部族社会です。ですから、誰が次の部族の長になるかということがその社会の維持には非常に重要です。そうすると、生まれた子供がどの父親から生まれているのかということを確定しておかなければならないわけです。

そこから男女関係にある程度規制をかけることによって生まれた子供の父親が誰であるのかということをはっきりさせるという知恵が生まれます。結婚する可能性のある男性とはなるべく会わない。会うときには、女性の美しい部分だと思われている部分は隠す。これがヴェールの根底にある発想です。

美しい部分とは何かというのは、髪の毛、体の線、胸とかさまざまな解釈があって、どこまで隠すべきなのかというのも宗派によって解釈が分かれています。サウディアラビアでよく見られるように、目の部分だけ開いていてあとは全部見えないようなヴェールのあり方から、体の線のあまり出ない洋服を着てそれにスカーフをかぶればいいというようなものまで中東にはいろいろなヴェールがあり、マレーシア、インドネシアに行くとまた違ったヴェールのスタイルがあります。ヴェールはどこまですべきか、女性の美しいものとは何か、それを隠すにはどこまで体を覆うべきかというのは、イスラーム法のなかでは1,000年にわたって議論されていて、いまだに続いています。

話を戻すと、生まれた子供の父親が誰であるかということをはっきりさせるためには、婚姻関係によらない男女の性交渉はなるべくおこさせないという発想があります。そのためには結婚していない男女はなるべく空間を分けた方がよい。女性がヴェールをかぶる年齢は初潮になったときです。初潮がいつ出るかと言うと、一番低い年齢で9歳ぐらいだろうということで、9歳ぐらいになると女の子たちはヴェールをかぶってくるという慣習になります。

このように話すと、女性は家のなかにずっと閉じこもっていると思われてしまうのですが、実際にはそうではなくて、ヴェールにはさまざまな意味があります。例えば、ヴェールをかぶると見知らぬ男性の視線から女性を解放することができる。これは女性たちが言っていることです。

私はイランとかパキスタン、アフガニスタンではだいたいヴェールをかぶって調査をしています。日本に帰って、当然かぶらずに地下鉄などに乗っていると、やはりすごく気になるのが視線です。イスラーム世界では男性が女性を見るときには「視線は落としなさい。じっと見据えてはいけない」。これはコーランにも書いてあります。ところが、日本でも欧米でもそうですが、皆さんにお話しするときには相手の目を見て話せという文化ですから、まったく違うわけです。イスラーム世界で生活して日本に帰ってくると、ジロジロ見られるような気がしてならないわけです。それは自意識過剰だと時々言われるのですが、実際にイスラーム社会にいてヴェールをかぶっていると、男性はあまりじろじろと私を見ることもないのです。敬虔なイスラーム教徒の男性は、例えば私が誰かにインタビューをしたとき、私の顔を見ないでずっと横を向いて話しています。ですから、この人は私の話を聞いているのだろうかと最初は思ったのですが、敬虔なイスラーム教徒であればあるほど、相手が女性であればヴェールをかぶっていてもジロジロ見ないというのが敬虔さを示すことだとだんだんわかって来ました。その意味で、ヴェールは男性の視線から女性を解放するものなのです。

それから、ヴェールは「女」ではなく「人間」としての存在を強調している。ここがすごく逆説的で理解しにくい部分だと思います。イスラーム的な発想からすると、ヴェールをかぶっていないと女性は美しいものを常にさらけ出しているわけです。髪の毛であれ、体の線であれ、胸であれ、足の美しさであれ、さらけ出しているわけです。ところが、それを隠すことによって、「女性性」というものを軽減するわけです。ヴェールをかぶった状態で外に出て自分をさらすと、それは女性としての存在として見られずに、中性的になると考えるわけです。ですから、一個の人間として認めてもらうためにはヴェールをかぶらなくてはいけないと、ヴェールを信じている女性たちはいるわけです。

ヴェールをかぶることでムスリム女性の美徳を自分自身が認識し、それは自己啓発になり、自分を高めることができる。ヴェールの起源はイスラーム以前からあるという議論もありますが、イスラーム教徒の女性でかぶっている人たちはイスラーム教徒の証しだと思ってかぶっています。もちろん、強制されている国でかぶりたくないのにかぶっている人たちもいますが、強制されなくてもかぶっているイスラーム教徒の方が実際には多いです。そういう場合には、イスラーム教徒の女性としての美徳を自分自身がかぶることで認識し、例えばコーランには「人のものは盗んではいけない」というような道徳律が書いてありますが、かぶることによって自分がイスラーム教徒であるという実感をもち、それが道徳心を支えているというように捉える女性たちも多くいます。

それから、女性の社会空間を拡大する。ヴェールは男性の空間と女性の空間をしきるものだというように捉えると、非常にスタティック(静止的)なイメージを抱きます。レジュメには私秘的存在と書きましたが、つまりプライベートとパブリックの考え方が欧米の世界とはまったく違うと思います。イスラーム世界においてはマフラムと非マフラムに分かれて、相手がマフラムであればヴェールをかぶらない、相手がマフラムでなければヴェールをかぶるという一線が画されるわけです。ある意味では、マフラムの方が私秘、プライベートと言っていいかどうか、英語の意味にはならないと思いますが、それに対して非マフラムの方は、これも公と言っていいかどうかわかりませんが、限りなく公に近い方向になります。

(板書しながら)私が考えているパブリックとプライベート(公私)はこのように分かれると思います。しかし、イスラーム的な観点からするとこのように分かれるものですから、マフラムの関係のなかにはプライベートもパブリックもあるし、非マフラムの関係のなかにはプライベートもパブリックもあるということになって、どこが私の領域でどこが公の領域になるのかという軸が全然違うということになると思います。非常にわかりにくい話だと思いますが、後で質問を受けたいと思います。

ですから、女性がヴェールをかぶって移動することはどういうことかと言うと、かぶった私がいたら、私の隠しているものは私秘的な空間です。その私秘的な空間をなかに保持したまま、かぶることによって「公」の空間を可変的に拡大していくということになります。かぶっている限りにおいては、どこにでも出ていける。ここがすごく逆説なのだと思います。

例えば、黒いカーテンで仕切って、こちら側は女子学生が勉強する空間、こちら側は男子学生が勉強する空間と分かれてしまえばいいわけです。実際にそういう学校もあります。しかし、現実の生活はそういうわけにはいかない。常に仕切られてはいないわけです。バスに乗れば、もちろん前側が男性、後側が女性というバスもありますが、そうでない場合もあるし、バザールに買い物に行けば、男性も買い物をしていますし、接触せざるを得ません。

イスラームの世界では男性が買い物をして、女性は言うだけです。女性がジャガイモを買ってこいと言うと、男性が買いに行くという社会です。バザールに行けば、男性も女性もいるわけです。女性がバザールに行くためにはどうするかと言うと、かぶっていけば誰と接触してもよいということになりますから、かぶることは限りなく女性の公的な空間を拡大していく。女性の空間は可変的に拡大していく。私がかぶってここからそこまで行けば、私が入っていける世界はここからそこまで拡大できる。さらに行けば、さらに私の公的な空間は広がっていくわけです。ですから、ヴェールをかぶることの意味は、女性が公的な空間に出ていくことを可変的に拡大するということになります。

ヴェールの外側は公的な空間として、自分とマフラム以外の男性に対してその空間を許容していくということになり、それが社会秩序の維持になるという捉え方をしますので、それが社会の幸福につながるということになります。そういうことによって私秘的な幸福と公共的な幸福を両立することが、イスラーム的な観点からすると、幸福にある状況だということになります。

4. 中東イスラーム世界と欧米の文化試論

最後に中東イスラーム世界と欧米の文化試論ということでものすごく大ざっぱな話をします。きょうは懇話会ということで、研究会みたいなものだとは思いますが、あまり実証性のないことを言っても許していただけるのではないかと思います。私は今まで中東世界を歩き、またアメリカで6年間勉強した経験があります。そこで、アメリカの文化にも中東世界の文化にも触れながら、大ざっぱにその世界の違いを見たらどう見えるかということを思い切って話すことにしました。

1) アナログ文化とデジタル文化

(1)アナログ文化のイスラーム世界(境界線のグレイゾーン)

境界線のグレイゾーンは常にたくさんあって、ヴェールも男性と女性を基本的には隔離するものではあるのですが、さきほどお話したように、状況に応じていくらでも柔軟に変わるわけです。かぶって移動する限りにおいては、それはどんどん拡大するという柔軟さがあるのと同じように、非常に柔軟に変わってきます。

それから、イスラームと言うと、ものすごく厳格な宗教だと皆さん思っているようですが、ラマダンという断食月の規定には、妊婦、病人、旅人は断食しなくてよいとか、いくらでも例外条項があります。イスラームの規定をよくよく読むと、人間に対して優しい部分が含まれているわけです。私は今日ちょっと頭が痛いので、病人だから断食しないと言って、自分で自分を病気にしてしまい断食をやらなくてよいようにしてしまう人もいます。でも、それはその人が病気だと自分が自覚していればいいということになるわけです。これもコーランに書いてあります。でも本当にその人が病気かどうかというのは誰もわからないわけです。病気であるのか、健康であるのかというグレイゾーンが常にあるのと同じように、そういうことも例外事項に入っています。

それから、公私の区別もはっきりしていません。例えば、私がイスラーム教徒だとして、私がシーゲル神父と知り合うとすると、シーゲル神父と知り合うことによってシーゲル神父のもっている社会的なネットワークやコネを私がいかに使い、私の家族がその恩恵を受けるかということにものすごく熱心になるといった具合です。この人間関係が公のもの、例えば大学の同僚という関係であっても、他人との関わり方は常に自分の家族や親族をいかに社会的な立場で高めるかということに置かれます。ですから、公私混同は当然です。でも、それはあちらの考え方では公私混同ではなくて、最初から公私と区別がないのです。マフラムか、非マフラムかです。非マフラムの関係も、マフラムの関係に利益が及ぼされるようにいかに導くかということが社会関係の非常に重要な要因となっていると言えます。

社会的な正義、イスラミックジャスティスという言葉をイスラーム社会の政治家はよく言いますし、人々のあいだでもよく聞くことばです。ジャスティスとは何か、何が正義なのかということもそのときの状況によって変わり、これもはっきりと言えないわけです。

非連続性と断続ということですが、「神のおぼしめしがあれば(インシャッラー)」と、何か約束をするとよく言います。「明日の3時に会いましょう」と言っても、「インシャッラー」と言います。神のおぼしめしがあれば会えるかもしれないけれども、おぼしめしがなかったら会えないと言うわけですから、明日の3時に本当にこの人と会えるのかどうか、こちらにとってはいつもわからないのです。インシャッラーという言葉を言われたら、それは5割を言うのか、8割なのか、3割なのかと私は常に思うのですが、3割でも5割でも8割でもなくて、常にインシャッラーなのです。つまり確実性とか可能性が1か0かというはっきりしたものではないということです。

(2)デジタル発想の西洋(1か0か、白か黒か)

西洋というのは一枚岩ではなくてさまざまな西洋文化があると思いますから、西洋という用語で十羽一絡げにして話をするのは無理があるとは思いますが、それをあえてお話すると、アメリカは現在、「アメリカの味方かテロリストか」という、ものすごく乱暴な世界観で世界政治に対応しています。これもデジタル的な発想で、1か0か、白か黒かという感覚です。

定期的な選挙があるかどうかということが公平かつ民主的な選挙であると考えていますから、選挙が行われたかどうかということ、つまり行われれば1、行われなければ0という指標が民主化を決めると言い、米軍が駐留したままイラク選挙が行われても、それをもって民主主義が確立したとアメリカは主張します。他国の軍の占領下にあって選挙が行われたとしても、選挙があったか、ないかだけが重要なわけですから、中身は問わないことになります。それでも民主化が定着しつつあるというわけです。

ひとつひとつの権利を個別に全部平等にしていくことが、欧米や日本の考え方でいく男女平等です。ですから、男性に参政権があれば、女性も参政権がある。遺産相続権が男性にあれば、同じ遺産相続権を女性ももつ。しかし、イスラーム的な発想でいくと男性の役割と女性の役割は違うわけですから、当然権利も義務も違います。男性は常に女性を養う義務があるので、その義務を考えれば考えるほど遺産相続権も男性の方が多く取れるようにしておかなくてはいけないというのがイスラーム的な発想です。そのような不平等があっても、婚姻契約書で万が一何かおこったときには保障するという金額を決めておきますし、男性の側に養育料を払わなくてはならないということがあります。離婚した場合には最低限の生活費を払わなくてはなりません。そういうもので得られる女性側の経済的な権利を全部積み上げていくと、女性と男性の遺産相続が1:2の関係であっても、全体として考えると同じぐらいになるという発想で考えているのがイスラーム世界です。私は欧米の男女平等とこの積分式の女性の権利とを、権利についての個別論対総合論と考えています。こうなると、西洋とイスラーム世界では何をもってジェンダー平等と考えるのかいう意味合いが違うように思います。

アメリカの論理が正義だと言っているわけですが、正戦かそうでないのかというような白黒をつけるというのはデジタル的な発想であって、そのあいだというものがないわけです。常にアメリカのやることが正しく、それ以外は間違っているということになるわけです。

2) イスラーム世界と欧米の個人主義

西洋の個人の人権という考え方は、絶対王制からの解放であるということで、国家権力との契約関係としての人権が想定されてきたわけです。しかし、イスラーム世界では、人権は神がもっていて人間は神から与えられた権力を行使するだけであるという考え方をとります。したがって、人間には人権はなくて、あるのは権利の行使権だけであるという立場をとります。ですから、国家権力との契約というものが非常に薄いわけです。国家権力は特に植民地主義に根差した傀儡政権であると人々は思っている場合も多く、卑近な例を出すと、所得税を全然払わない人がいっぱいいるわけです。つまり、国家権力に対する考え方が権利義務関係という形の契約関係で存在しないわけです。日本人は、所得税を払ったらそれなりの行政上のサービスを受けるとか、ごみを出せばそれを取りに来てもらえるのも税金を払っているからだと考えるわけですが、そういう関係がイスラーム世界には希薄なことが多いように思います。このように国家との関わり合いという点でも、人権論の違いが色濃く出ると思います。ちなみに、中東22カ国のうち8カ国はいまだに王制をとっています。

2番目に、西欧は秩序のなかに主義主張がありますが、中東イスラーム世界は無秩序のなかで主義主張をするという傾向があります。ただ、私がこれは無秩序だと思っているものも当該諸国の人にとっては別の観点から秩序だとたぶん思っているでしょうから、このように書くこと自身が私は欧米の発想から書いているわけですが、その辺りの前提が全然違います。

秩序化というものを追求するのが欧米的な発想で、例えばWTOに加盟したいのであれば、これこれこういう条件を満たせというわけです。IMFが構造調整政策をとったりするとコンディショナリティーをつける。「次の2年間に民営化をこれだけ実現させなければお金を貸さないぞ」という、ある秩序を形成するための条件づけを常にしてきます。ところが、社会全体はそのようには動いていかないわけですから、そういうものがなかなか浸透もしないし、欧米のような指標をもっていってもなかなかそれは果たせないということになります。

3番目、きょうの話の焦点はここにあると思っていますが、イスラーム的な発想というのは「まず生きよ」「まずムスリムであれ」というのが根本的にあります。イスラームの戒律を守ることは重要ですが、厳格に守ることよりは、むしろイスラーム的な環境をいかに実現するかということが彼らの重大関心であると思います。厳格に守るということと環境を重視するということのあいだにはかなりギャップがあります。例えば、「餓死するぐらいなら断食月でも食べよ」とコーランでは言っています。だから逆に、餓死するまで断食をしてはいけないということになるわけです。ですから、イスラーム教徒であれと言いながら、しかし、まず生きよというのが前提にあります。

5回のお祈りは、戒律主義を完全に守るということで重要なのですが、それよりは1回でも礼拝できるような場所が欲しい。つまり、イスラーム教徒は自分の環境をいかにイスラーム的な環境にしていくのかということに関心があります。私が教鞭をとっている国際開発研究科でもイスラーム教徒はたくさんいますから、お祈りする場所が欲しいと必ず言ってきます。ですから、ある空間をお祈りする場所にしましたが、そういう場所で彼らは5回のお祈りのかわりに2回ぐらいお祈りしています。まとめてお祈りしておよいいわけです。5回のお祈りをしなさいとコーランに書いてあっても、状況によっては2回しかできないなら、別に5回しなくてもいいわけです。

今、利子なしの銀行が東南アジアでもかなり拡大しています。インドネシアなどにもシャリーア金融機関というものがあり、徐々に成長しています。その根本にあるのは何かということですが、欧米的、日本的な発想からいくと、イスラーム銀行はまやかしのようなもので、配当という形で配分をしているから、利子はないと言いながらも実際には配当ということでごまかしているようなものだと言います。しかし、イスラーム教徒の人々にとっては利子なのか配当なのかということは、意識のうえで格段の差があるわけです。利子はいけないとコーランに書いてあるから、やはり利子ではないものを基盤にしたイスラーム銀行の方が自分たちの生活信条や価値観には合うと考えています。イスラーム銀行もやはり既存の欧米型の金融システムと折衷がありますから完全なイスラーム金融だとは言えない部分がありますが、よりイスラーム的な環境に近い金融制度ですから、イスラーム的な環境に近ければ近いほど、やはり信者はそれの方が望ましいという形をとります。

女子校がないからヴェールを着用するという話ですが、これはフランス、ドイツでおこっているイスラーム教徒の女子学生のヴェール問題に当たります。フランスには公的な空間には宗教色を一切もち出さないという、ライシテという政教分離の原則があります。その憲法を堅持すればするほど、公立の学校で女子学生がヴェールをかぶっていることは政教分離にならないということで、ヴェールをかぶって登校することを禁止する法律ができたわけです。

私は、個人的にはフランスの考え方もわかる気がしますから、そういう法律をつくることは信教の自由を認めない法律だから間違っているというところまでは言えないという立場をとっています。それはそれとして、なぜヴェールをかぶって登校する女性が出るのかと言うと、さきほど言ったように、かぶればかぶるほどより公的な空間に進みやすいわけです。本来であれば、彼女たちの環境にとっては女子校があった方がいいわけですが、「女子高がないから私はイスラーム的な環境にするためにヴェールをかぶっているのだ」と言ってかぶっていくわけです。

そういう欧米や日本の価値観ではなかなか理解されない部分が、現在さまざまな形で摩擦をおこしていると思います。

おわりに

1) 曖昧さと時間の重要性

これも非常に大ざっぱな話になりますが、デジタル的な1か0かという発想ではなくて、実際の生活では境界線がグレイの部分は多いわけですし、日本人の文化はその辺りをある程度許容するようなものがあると私は思っています。そうした日本文化があればあるほど、欧米的な発想の人々よりも、日本はイスラーム世界をより理解しうる地域であると考えています。

私は現在、開発援助の問題にかかわる研究科で教鞭をとっています。途上国の開発問題の枠組みは、世界銀行であれ、国連開発計画であれ、それから日本のJICA(国際協力機構)であr、国連機関や開発援助機関が進めようとしている政策の枠組みは、やはり基本的には「民主化」であると思います。民主化することがが正しいという開発理念が、開発支援国の側にも開発支援の受益国の側にも支配的な原理として働いています、では民主化とは何かと言ったときに、女性の参政権があるかどうかとか、結局は男女平等的な発想で捉え、目標設定を課していくわけです。これだけ世界がグローバル化している以上、私はある程度そうした民主化の波は避けられないと考えています。

皆さんにお配りした『広がる中東民主化ドミノ』という記事がありますが、ある一定の側面では中東の民主化も次々とおこっています。そのおこし方がいいかどうかは別として事実おこっています。そして、若い世代はやはりアメリカのような自由な生活がしたいと希求しています。そこには、世代ギャップも見られます。

イランは私がよくフィールド調査に出かける国ですが、人口の60%が25歳以下です。選挙権は16歳からあります。ですから、高校生が自分の政治表明をする場所が選挙であるわけです。大統領選挙が今月ありますが、高校生も選挙をします。イランにはそうした制度は昔からあるわけですが、アメリカはイランを民主的な国だと認めたくないので、そうしたことはほとんど報道されません。

イラン以外の国でも、それが欧米の規定する民主化かどうかは別として、それぞれの国がよしと考える改革が進んでいます。グローバル化時代の1つの波として民主化は避けられないものであるという立場をとった場合、やはり中東地域も徐々には民主化が進んでいくのだろうと思うわけですが、時間がかかる地域だと思います。ですからアメリカのように早急に「いついつまでにこれらの条件を満たさなければ攻撃する」というような戦略ばかりを推し進めることは、当該地域のアナログ文化の世界には必ずしもマッチしないのではないか、民主化を達成していくのはやはり時間がかかるのではないかと思います。

2) 今が重要なのか(デジタル時計)

デジタル時計というのは、パッと見たときに今4時8分と出るわけです。次の瞬間、4時9分と出ます。ですから、今が重要という発想です。後でスライドをお見せしますが、きょうの報告をパワーポイントでしなかった理由がここにあります。パワーポイントは画面がパッパッとフラッシュのように変わっていきますから、前の画面が何であったのかとか、5枚前の画面が何であったのかということを私たちは忘れます。忘れるということは、ある意味では歴史を無視した文化ではないかと思えるわけです。

ベトナム戦争でどれだけアメリカが失敗したかという教訓を得ないままに、イラク戦争が続いているわけですから、過去のことはどうでもよくて、デジタル的に今4時9分になりましたと。

アナログ時計を見れば、私が話を始めてから針が1周回って、その1周回るというプロセスが私たちの頭のなかに認識されるわけです。ですから、パワーポイント文化をもっているアメリカのように、瞬時に画面が変わって、過去も未来もあまり見ないで、今が重要だと考えるのか、それとも、過去と未来の両方を見ながら今を考えるアナログ時計の発想をしていくのかというところが問われているのではないかと思います。

3) 普遍主義と文化相対主義のあいだ

普遍主義というのは、普遍的な価値だと考えられている人権、男女平等、フェミニズムとか、今は民主主義も1つの普遍的な価値とされていると思います。文化相対主義というのは、その社会ではその社会特有の文化があるので、その社会のことはその文化のあるままに任せておけという考え方だと、簡単に言えば言えると思います。今はどちらかと言うと普遍主義をいかに各地域にも普遍的に広めていくのかということがおこりつつ、一方で地域社会のもっている文化の見直しが同時平行的に行われていると思います。

しかしながら、きょうの話の前提に戻りますが、拡大中東構想という発想は中東民主化論ということになるわけですから、中東の民主化をどうするのかという発想は、G8をアメリカが主導しながら普遍的な価値としての民主化をいかに中東で実現するのかという戦略としても出ていて、日本もアメリカの支持をするという形で開発援助を行っているわけです。そのあいだに普遍主義をその地域にどう展開させていくのかということになるわけですが、やはりそこで必要なのは文化相対主義的な立場も視点に入れなくてはならないということだと思います。

ところが、文化相対主義の立場だけを尊重していくと、今度はどういうことがおこるかと言うと、例えば、アフガニスタンでタリバン政権が倒れて、各国の開発援助を行う機関の外的な圧力があったからこそ女性の参政権が確立できたわけです。もしアフガニスタンの宗教指導者だけに任せておいたら、おそらくそれは実現できなかっただろうと思います。アフガニスタンの宗教指導者やタリバンなどの勢力の「アフガニスタンの文化はアフガニスタンの文化であって、おまえたちは口を出すな」ということだけを尊重すれば、やはり女性の抑圧が続くわけです。ですから、どちらをとるのかというのは結局バランスの問題でしかないという、ものすごく大ざっぱな結論で申しわけありませんが、そうなってしまうと思います。

実際には各地で普遍主義が押しつけられていますから、それが拡大していくことは間違いないと思いますが、そのなかでいかに地域的なものを尊重しながらいくのか。地域的なものを尊重するのみでいくと、今度は不平等とか人々の不満は解消されていかない。その辺りをどのようにバランスをとるのかということが問題になるだろうと思います。

ここでスライドをお見せして、私の報告を終わらせていただきます。

中東と言われる地域の地図です。真ん中がサウディアラビアで、イラクがここにあります。イラクとイランの大きさを比べていただくと、どれだけイランが大きい国かということがわかると思います。アフガニスタンの戦争が終わり、イラクが終わり、次はイランかと言われていますが、アフガニスタンの4倍の大きさをもっているイランですから、アメリカがイランを相手に戦争できるかといったら、やはり難しいだろうと思います。ただ、核施設をピンポイント的に攻撃する可能性はあるのではないかとも言われています。

これがイランの地図です。これで見るとわかるように、カスピ海に面し、アフガニスタンと500キロの国境線をもち、イラクとの国境線も400キロぐらいあり、トルコと接し、この辺りはアゼルバイジャン、アルメニアといったコーカサス地方、こちら側は中央アジアを控え、ペルシャ湾が南にあるという非常に戦略的に重要な場所になっています。ですから、ある意味ではイランが今後どのようになっていくのかというのも大きな問題ではないかと思います。

ちなみに、拡大中東構想のなかにはトルコとイランは外されています。これは意図的だと思いますが、アラブ諸国しか入っていません。

これはモスクに入っていくところです。この女性のようにスカーフをかぶって体の線が出ない格好をしていれば、イランなどでは基本的には外に出ても構わないのです。ところが、モスクに入っていくときにはこういう一枚布で体を覆うことが必要になりますので、こういう簡単な服装で来ている人はここでチャドル(必ずしも黒でなく柄物も多い)を借りて、なかに入ることになっています。普通はこういう格好をしているのですが、モスクなどに入るときには一枚布のチャドルに着がえられるようになっています。なかに入ると、女性と男性のお祈りの場所が分かれています。

これはイランの首都テヘランから数十キロ離れたキャラジという都市近郊の山です。中東と言うと皆さんは砂漠しかないと思っていると思いますが、かなり雪が降ります。今年の1月にイランで調査をしてきましたが、そのときにも雪がいっぱいで車では行けなかった地域がありました。

これは通訳をやってくださった女性ですが、今、髪の毛をいかに出すかというのがイランでは流行になっています。思いっきり出すのがかっこよく、出さないのはダサいというふうになっています。逆に、それだけ髪が出ていればヴェールの意味がないのでないかというところまで来ていますが、ヴェールはなくならない。そこが重要だと思っています。形骸化しているのですが、現体制のもとではヴェールはなくならないのです。

イランにはアフガニスタンの難民が多いのですが、これはその地域で露天市をしている風景です。混沌としているというのはこういう場面を言うのですが、どこに何があるか、ゴチャゴチャでわからない。でも、よく見ると非常にいいものがいっぱいあるというシーンです。

岩山をくりぬいてこのなかに住んでいます。ウルーミエというトルコに近い側のイランの村落です。このなかに住んでいる人たちの生活は遊牧的で、テントのかわりに岩山に住むという生活です。

女性がロバに乗って岩山から降りてきて、水くみに行くシーンです。こういう遊牧的な生活も見られます。

これはケルマーンという州、地震があったバムの近くですが、そのなかにある昔大衆浴場だったところがいまは御茶屋さんになっていて、非常に涼しいので、そこにみんなが集まって家族団らんをしている風景です。この女の子たちは9歳ぐらいです。9歳ぐらいになるとヴェールをかぶります。それは一人前の女性になっていく証しだと信じていて、ようやく私もヴェールをかぶることができるような年になったと。それを自分の成長の証しだと思っているわけです。

これは花屋さんです。売っている人はみんな男性です。女性はものを売ったりすることはありません。見知らぬ人と関わる仕事は男性の仕事になっています。

これはイランのテヘランにあるバザールのなかに入っていくところです。ゴチャゴチャで混沌としています。ただ、なかに入ると売り場は整然としています。この一角は全部野菜屋さんとか、この一角は全部宝石屋さんというように業種ごとに分かれています。パッと見てわかるように、男性が買い物をよくします。役割分担で言うと、買い物はどちらかと言うと男性の仕事です。つまり、お財布を握っているのは男性です。でも、家庭では、物事を決めるのは女性です。日本では女性がお財布を握っていて、だんなさんはお小遣いをもらったりするというようになっていますが、女性が家庭で強いのは日本でもイスラーム世界でも同じではないかと思います。

コミュニティーのなかにはモスクもあるし、お坊さんもいるわけですが、これは、イスラームの説教僧が婚姻契約書を結ぶ式に立ち会って、コーランの一節を読んでいるシーンです。イランでは普通このようにネクタイをしていることはないのですが、つまりイランではイスラーム教徒で敬虔な人はネクタイをしないのです。ネクタイをするのは西洋かぶれであると考えられています。イスラーム世界の正装はネクタイなしです。日本人や欧米の人が「あの人は正式な場所にもネクタイをしてこなかった」と言うのは反対で、正式であればあるほどネクタイをしない。この人はどちらかと言うと西洋的な価値観をもっている人ですからネクタイをしています。

ヴェールの下は女性同士なら夏でもタンクトップでいるということで、いったん家に入ってしまえばマフラムの空間に入りますから、女性はどんな格好をしていてもよいということです。私が友達の家を訪ねるとき、私も女性ですから女性同士のあいだではヴェールはいりません。こういう格好で一緒にお昼を食べたりします。

これはロンドンに住んでいるパレスチナ人です。ヨルダン国籍でロンドンに移住したのですが、写真を映しますと言うと、いきなりヴェールをかぶります。なぜかと言うと、この写真を見る皆さんのなかに男性がいるからです。つまり、私が写真を撮ったら、その写真は誰かが見る可能性がある。そのなかには男性もいる。ですから、カメラを向けるまでは、こうした女性たちは私が女性ですからヴェールをかぶっていなかったのですが、写真を映すと言うと、一斉にヴェールを着るわけです。

これはウズベキスタンのモスクです。

場所が変わって、これはイランのアフガン難民が自らNGOをつくって識字教室を開いたところです。その識字教室を開いたのがこの女性です。ハザラ系の女性で、イランにはもう15年ほど住んでいて、アフガニスタンにいたときにも学校で教師をしていたと。今は学校をつくって、テントの下でアフガン難民の女の子たちが勉強しているシーンです。ここは冬がたいへん寒い地域です。

一方で、校舎がある場所もあって、この女の子は非常に若くて15歳ぐらいですが、15歳でも立派な先生です。識字率が低いですから、字が書ければ立派な先生として教えています。女の子たちは元気いっぱいで、男の子の方が後にいて、元気がないという感じです。

これはカブールです。このような車に乗っていると、これは開発援助者であるということになり、ブルカを着た女性が寄ってきて物ごいをしているシーンです。

これがカブールの交通渋滞です。ものすごく無秩序な開発が行われますので、こうした交通渋滞によって援助物資も届かないし、いろいろな開発計画を進めようと思っても、移動だけでもものすごく時間がかかって、逆に障害がおこるということです。

これは露天市です。フリーマーケットですが、どんなものでも売り買いされています。

場所が変わって、これは名古屋モスクです。名古屋にモスクがあるのを皆さん御存じですか。変哲もない家に見えますが、ここに名古屋モスクと書いてあります。

イスラーム教は偶像崇拝が禁止ですから、モスクのなかは基本的に飾りものがまったくありません。ただ1つ、このように目立つ方向があります。イスラーム的な装飾が若干施された壁の一角がありますが、これがメッカの方向を表します。ですから、パッと入った瞬間に一番飾りがしてある場所がメッカの方向です。しかし、偶像崇拝は禁止していますから、こういう飾りも幾何学模様の飾りになっています。

これが名古屋モスクのイマームと呼ばれている説教僧です。この方はモーリシャスから来たイスラーム僧ですが、この人が金曜日に説教をしています。イスラーム教では金曜日の礼拝が一番重要ですが、30分間ぐらいしかしないと言っていました。なぜかと言うと、お昼休みを利用して来ている人が多いので、1時間も2時間も説教をしてしまうと、礼拝に来る皆さんが仕事に差し障るので30分で十分だとわかったと言っていました。それがイスラーム的なのだと彼は得意げに話していました。状況に合わせて変える、それだけ柔軟性があるということを彼は言いたかったのだと思います。

以上です。長時間にわたり、御拝聴ありがとうございました。

――中西氏 講演 終了

南山大学社会倫理研究所