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南山大学社会倫理研究所
2004年度第1回定例研究会 ■講師 丸山 雅夫先生■

講演の概要

2004年6月23日(木)、南山大学本部棟2階 第4会議室にて開催された2004年度第1回定例研究会において、南山大学大学院法務研究科教授・丸山雅夫先生による「修復的司法の日本への導入可能性」と題する講演が行われた。丸山先生は、まず、修復的司法(restorative justice)が理論的裏付けに基づく制度ではなく実務から生まれた制度である、という事実の確認から議論を開始し、修復的司法を「ダイヴァージョン(正式の刑事司法手続からの離脱)としての修復的司法」と「被害者(社会)参加型としての修復的司法」という2つの側面に分けて論を進める。そして、修復的司法を日本に導入する場合の前提と検討課題が、「成人刑事裁判システム」と「少年司法システム」という2つのシステムそれぞれについて論じられた。丸山先生の見解によると、成人刑事裁判システムへの導入可能性については、(1)修復的司法のダイヴァージョンとしての側面を重視する場合には、現行の起訴便宜主義の一環(拡張)として導入する可能性はあるが、(2)被害者参加の側面を重視してダイヴァージョンの形態を採らない場合には、現行システムでは量刑事情としての考慮にとどまり、執行猶予判決での決着にしかなりえない、と考えられる。また、少年司法システムへの導入可能性については、(1)ダイヴァージョンとしての側面を重視する場合には、家裁主導の調査官による試験観察の一環として導入し、ダイヴァージョンとしての審判不開始決定での決着を目指す可能性が考えられ、また、(2)被害者参加の側面を重視してダイヴァージョンの形態を採らない場合には、不処分決定で決着することになるが、被害者の関与のための特別な制度設計が必要になるだろう、と考えられる。(文責|奥田)


*以下のコンテンツは、懇話会で録音したものを活字化し、講演者本人の校正をへて作成されたものです。無断の転用・転載はお断りいたします。引用、言及等の際には当サイトを典拠として明示下さるようお願いいたします。

修復的司法の日本への導入可能性

丸山雅夫 (南山大学大学院法務研究科教授)

もくじ

はじめに修復的司法に対する社会の関心の高まり「定義なき」修復的司法?修復的司法の2面性修復的司法の先例日本への導入を想定する場合の前提・検討課題修復的司法は「第3の道」として定着できるか?

はじめに

ただいまご紹介をいただきました、法務研究科の丸山でございます。本日の研究会の話題提供をさせていただくことになりました。与えられた持ち時間は、1時間ということになっております。私は、研究会はできるだけ活発な議論を戦わせる方がいいという信念を持っておりますので、そのために、なるべく挑発的に議論を仕掛けるということを心がけております。ただ、私の人間性そのものに問題があるわけではありませんので、その点は誤解のないようにお願いしたいと思います。

「修復的司法について何か話題提供をしてもらえないだろうか」というお話を所長の小林先生からいただいた時、「なぜ修復的司法などに興味があるのだろう」ということが、私自身の中に素朴な疑問として湧きました。私自身は、刑事法の研究者ですので、修復的司法という考え方が我が国に紹介されてから、これまでの議論の動向を興味深く見守ってまいりました。ただ、一般の方には、それほど興味のある事柄だとは思っていなかったからです。刑事法研究者としての立場から言いますと、正直なところ、修復的司法の我が国への導入は非常に困難なのではないかと考えております。特に、少年事件に導入する可能性があるのではないかという観点から議論されることが多いのですが、我が国の少年司法システムは極めて特異な構造を持っておりますので、この基本的な構造を変えずに修復的司法を導入できるかということになると、越えなければならない高いハードルが多くあり、非常に困難なのではないかという気がしているわけです。では、前置きはこの程度にして、さっそくレジュメに従って、修復的司法の具体的な内容や限界、我が国への導入可能性といった点について、お話をさせていただきたいと存じます。

I 修復的司法に対する社会の関心の高まり

「修復的司法」というのは、Restorative Justiceという英語の日本語訳です。これがにわかに注目され始めたのは、1989年に、ニュージーランドの少年司法システムの中に、いわゆるファミリー・グループ・カンファレンスという制度を中心とした、非裁判(非刑事的)手続による問題解決の方法が正式に導入されたことに端を発しております。このような問題解決方法に着目する人々が増え、我が国においても、それが精力的に紹介されるようになったわけです。修復的司法の内容については後ほど言及させていただきますが、修復的司法と呼び得る制度は、必ずしもニュージーランドではじめて実現したというわけではありません。成人刑事裁判制度との関係で言えば、ドイツの刑事訴訟法には、和解にもとづいて刑事裁判手続の打ち切りを認める条項が存在しております。いわば民事的な和解によって原状回復がなされたときに刑事裁判としての手続を打ち切って、刑事事件そのものを終結させてしまうというものです。1950年代後半から問題となったサリドマイドの薬害をめぐる刑事裁判が、刑事和解によって終結した事件で最も有名なものであります。おそらくは、このような制度の中に、修復的司法の原初的な形態を見ることができるだろうと思っております。ただ、何をもって修復的司法と言うかという定義がないだけに、「いつ」、「どこで」始まったかを確定することは非常に困難でありますし、そもそも、そうしたことを確定する意義もあまり大きくないと言えましょう。

もうひとつ重要なことは、修復的司法が被害者に対する配慮と密接に結びついているという点です。従来の我が国では、特に刑事事件の被害者に対して、制度上の限界はあったにしても、あまりに冷たい仕打ちをしてきた(顧みるということを全くしてこなかった。)のではないかと思われます。刑事事件の被害者に対する事後的なサポート態勢は徐々に整ってきてはいますが、より積極的に、被害者を手続の中に何らかの形で参加させられないだろうかという議論が起こるようになり、そのことが、修復的司法への関心を高めた契機のひとつであったろうと思われます。被害者の刑事手続への参加という点については、成人刑事裁判制度の中に「犯罪被害者等の保護を図るための刑事手続に付随する措置に関する法律」が2000年に制定されるとともに、同年の少年法の一部改正によって、被害者の意見陳述権、あるいは記録の閲覧・謄写権などの導入が実現しております。ただ、これらは、修復的司法の導入のきっかけにはなりうるとしても、修復的司法そのものとは言えないように思われます。

こうした中で、日本弁護士連合会が、修復的司法の積極的導入に向けての具体的な動きを開始いたしました。日弁連は、1989年のニュージーランド法を契機として、ファミリー・グループ・カンファレンスに範をとった少年事件協議制度を提案するに至っております。

II 「定義なき」修復的司法?

(1) 内容の不確定性

修復的司法の定義あるいは輪郭がなぜ不明確なのかと言うと、刑事(裁判)制度が理論に裏づけられたシステムとして発展してきたものであるのに対して、修復的司法は、実務上の経験ないしは有用性・必要性から生まれたものだからです。それは、理論的に「こうあるべきだ」ということではなくて、実務においては「このようなものが役に立つ」という観点から生まれてきたものです。その有用性・必要性は、いろいろあったのだろうと思いますが、ダイヴァージョン(正式手続からの離脱)としての側面と刑事システムへの被害者の参加という側面が、特に重要であるように思われます。

ダイヴァージョンとしての側面は、我が国への導入を考える際には若干水を差すような言い方になりますが、正式な刑事裁判手続あるいは正式な少年司法手続に係属するケース数を減少させようという目的にもとづいております。正式なシステムに係属するケースがあまりに多過ぎるということから、それを減少させようという意味でのダイヴァージョンの側面があったことは否定できません。また、ある種の少年事件などにおける対処方法として、非形式的対応ないしは非公式で柔軟な扱いの方が正式裁判手続による以上に適切な場合があると考えられたことも事実です。そして、おそらくは、実務上、そのような対応が成功を収める場合が多くあったのだろうと思われます。このような対応も、ダイヴァージョンのひとつの側面であります。そして、これらのいずれについても、被害者をそれに積極的に参加させることで、より実効的な運用が可能になると考えられたわけです。修復的司法がこのようなものである以上、その議論や検討に際しては、実務で生まれた制度をどうやって理論的に説明し、根拠づけるかということにならざるをえません。このように、修復的司法は、ダイヴァージョンとしての側面と被害者参加というふたつの側面を持っていますので、どちらを強調するかに応じて、論者によって想定する内容がさまざまに異なってきうるわけです。

すでに言及したように、修復的司法の発生時期や場所は、確実に特定することができません。いくつかの論文を読みますと、1970年代にカナダの少年司法システムの中で生まれたものだと言われています。しかし、どうもその根拠は、カナダの少年司法システムの改編を目的として招集された委員会のレポートがそのように指摘している点に求められているようです。しかし、そのレポートでの記述も、修復的司法の一例として指摘されているだけであって、必ずしもはっきりと確認されているわけではありません。この点に、実務上の要請によって生まれた制度としての特徴がよく現れております。ちなみに、1991年に公刊された『英米法辞典』を見てみましたが、Restorative Justiceという言葉は載っていませんでした。このことは、1990年の段階では、少なくとも英米法辞典に採録されるような言葉としては、いまだ認知されていなかったことを示しております。

(2) 名称の不統一

修復的司法はRestorative Justiceの日本語訳ですので、RestorativeとJusticeのそれぞれをどのように訳すかということに応じて、それぞれの人によって名称が異なってまいります。Restorativeを修復的、関係修復的、あるいは回復的と訳すか、Justiceを司法、あるいは正義と訳すかというような形で、いろいろな組み合わせがありうるわけです。ただ、現在の我が国においては、一般に「修復的司法」という名称を用いることが多いと言ってよいでしょう。

(3) 「<1>犯罪が起こる以前の社会(に近い)状態に修復されたことを根拠として、<2>当該事件の処理を終結させる」方法としての総称

明確ないしは厳密な定義はないにしても、多くの人々がどのような状態に対してRestorative Justiceという言葉を使っているのかということについては、一定の共通性が見られます。その共通性をごく概略的に言うならば、犯罪が起こる以前の社会状態への復帰、すなわち原状が回復されたこと、あるいは完全な原状回復までは不可能であるにしても、それに近い状態に社会が修復されたことを根拠として、当該事件の手続を終結させてしまうということです。その意味では、「関係修復的司法」という名称が最も的確に内容を表しているように思われます。とは言っても、これは非常に概略的なまとめ方であって、たとえば損害賠償をしたら当然に手続が終結してしまうのかと言えば、必ずしもそうではありません。特に、少年司法の関係においては、単に損害賠償をしたというだけではなくて、少年が自分のやったことについての自覚、あるいは反省をしたうえで原状回復をする必要があると考えられております。したがって、客観的に元の状態に戻ったということだけが重視されているわけではないということになります。「何を」「どの程度」重視して関係修復を認めるかは、実際の運用においても、さまざまに異なりうると言わなければなりません。

III 修復的司法の2面性

(1) ダイヴァージョンとしての修復的司法

すでに述べたところからも明らかなように、修復的司法と呼ばれるものについては、明らかに2面性が認められます。

ひとつは、当該事件に対する正式な処理手続をそこで終わらせてしまうという点から、修復的司法にはダイヴァージョンとしての意味があることになります。ダイヴァージョンとは何かと言いますと、正式な刑事司法手続からの離脱を認めるということです。成人の刑事事件の場合、通常の正式裁判手続は、起訴に始まって、事実認定手続を経て判決に至るという一連の流れをたどるわけですが、どの段階で離脱させるかは別にしても、最終的な判決に至る以前のどこかの段階で離脱させてしまう(divertする)というところから、ダイヴァージョンと呼ばれています。ダイヴァージョンという言葉自体は、我が国の刑事司法の中では、すでに定着したものであると言っていいだろうと思います。ダイヴァージョンとしての修復的司法の利点は何かと言うと、正式な手続から離脱させてしまうので、非形式的で柔軟な運用が可能になるという点に見られます。ご存じのように、事件が正式な刑事裁判手続に係属しますと、適正手続条項の保障をはじめとして、きちんとしたルールに従ってやらなければなりません。もちろんルールに従ってやることは重要ですが、ある種の事件については、形式化されたルールに従わないほうが適切だと思われるものがあり、柔軟な運用を可能にするダイヴァージョンの側面が注目されるということになるわけです。

こうしたダイヴァージョンの側面を重視する場合には、さらにふたつの点を明らかにする必要が出てきます。ひとつは、どの段階で離脱を認めるかということです。もうひとつは、非形式的で柔軟な運用は望ましいのですが、それをどのようにして構成していくのか、具体的には誰が関与してどのような形で実施すべきなのか、ということがまさに問題になってくるわけです。

(2) 被害者(社会)参加型としての修復的司法

修復的司法のもうひとつの側面、そしてこれが本来の内容であったと思われますが、犯罪が起こる以前の(それに近い)状態への復帰という側面です。この側面との関係では、修復的司法の基本的な構造は、相当程度に共通したものが考えられます。すなわち、犯罪が起こる以前の社会状態に修復することを重視する修復的司法は、被害者、さらには社会を参加させるという形で構成されるのが一般的です。行為者(加害者)と被害者という対面構造を超えて、社会をも含めた3者が、当事者として想定されているわけです。元の社会状態に復帰したというのは、この3者との関係で考えられなければなりません。したがって、直接的な被害者だけでなく、間接的な被害者である社会が同意ないしは納得して参加していくことが、必要条件にならざるを得ないように思われます。もちろん、その前提として、加害者自身が修復的な運用を望む、あるいは同意していることが、最低限の要件となっております。

加害者と被害者の参加ということは論理必然的に導かれる帰結ですが、それを超えて、社会をどの範囲でどのように参加させていくのか、あるいは社会資源をどのように利用していくのかということが、今後の具体的な問題点として検討され、明らかにされなければなりません。

(3) 修復的司法の利点

修復的司法の利点については、お手元に配付されております拙稿(丸山雅夫「カナダ少年法制におけるダイヴァージョンと修復的司法」人間関係研究第3号(2004年)148頁以下)に書かれておりますので、詳細はそちらに譲らせていただき、ここでは3点だけを簡単に述べさせていただきます。

まず、行為者との関係で最も大きな利点だと言われているのは、いわゆるラベリングの回避ということです。つまり、正式な裁判手続にのっとって事件が処理され、終結いたしますと、行為者は「おまえは犯罪者である」という烙印を押され、犯罪者として公式に社会に認知されることになりますが、途中の段階で正式裁判から離脱することによって、そのようなラベリングが回避されると言われております。もちろん、犯罪を行った以上、犯罪者であることは何らかの形で社会に察知されますから、ラベリング効果が完全になくなってしまうというわけではありませんが、正式な裁判手続で終結するよりは軽減されたラベリングにとどまるということです。

次に、被害者との関係における利点として、被害回復が期待できるという点が指摘されております。すなわち、修復的司法は加害者と被害者の和解プログラムという形で構成されることが多いので、その結果として、ほとんどの場合に加害者は被害者に対して謝罪、あるいは被害弁償をすることになるわけです。もっとも、我が国の裁判制度においては、刑事事件と民事事件は基本的に切り離されておりますので、刑事事件で有罪判決を受けたからといって、それと直結して当然に損害賠償をしなければならないことにはなりません。裁判手続としては、両者は別個独立のものになっています。したがって、被害回復に関わる利点は、これまで載然と分断されていた刑事制度と民事制度の間を架橋するものとして、そのような制度設計の可能性をもたらすというものにとどまるように思います。

第3に、社会との関係では、段階を問わない非形式的介入を軸とする修復的司法は、正式裁判手続に係属する以前の段階での早期介入ができることから、行為者の犯罪性が必ずしも深化しない段階で、犯罪性を除去することができると言われております。こうした早期介入によって、社会が刑事事件や少年事件に対する関心を深めることになり、そのことが最終的には犯罪予防につながっていくことになります。さらに、社会の中には犯罪予防に役立ちうるさまざまな有用な資源がありますが、そうした資源を有効に活用することも可能になります。すなわち、非形式的で柔軟な運用ということから、多くの人々が参加しやすくなると同時に、さまざまな方策を有効に利用する可能性が大きくなるということです。このように、犯罪予防との関係でも、非常にいい面が強調されているわけです。

以上のように、修復的司法は、ダイヴァージョンとしての側面と被害者参加型の側面を持つとともに、いくつかの利点が認められることから、どの側面や利点をどのように強調するか、それぞれをどのように組み合わせるかによって、具体的に想定されるやり方は大きく異なってくる可能性があります。現在までのところは、実際にそれほど大きく異なったものが構想されているわけではありませんが、今後は、さまざまに異なった内容の修復的司法が想定される可能性を否定できないように思われます。

IV 修復的司法の先例

(1) 成人刑事裁判システムにおける修復的司法

修復的司法の日本への導入を考える前に、その先例をどこに求めることができるかという点について、若干のコメントをしておきたいと思います。

成人刑事裁判システムにおける修復的司法の先例としては、ドイツの刑事手続法(刑事訴訟法)における「和解にもとづく」刑事裁判の打ち切り制度を指摘することができます。これにもとづいて決着した裁判として最も有名なものは、日本ではサリドマイド事件と呼ばれていますが、ドイツではサリドマイドの商品名から「コンテルガン訴訟」と呼ばれた事件です。コンテルガン訴訟は、刑事法の観点からは、多くの重要な論点を含むものであり、非常に興味のある事件でした。たとえば、因果関係の場面だけをとってみても、サリドマイドの催奇性が肯定できるかどうか、その因果経過をどのような方法によって、どの程度に証明すればよいのか、などの問題点が大きな争点となっておりました。しかし、事件そのものが刑事和解にもとづいて打ち切られたために、こうした論点への回答を留保したままで中途半端に決着してしまったわけです。個々の事件の扱いとしての是非は別にして、コンテルガン訴訟の打ち切りこそは、成人刑事裁判システムにおける修復的司法の先例と言いうるものだと思われます。

それから、この点については異論がありうるとは思いますが、我が国の刑事訴訟法における起訴便宜主義(刑訴248条)も、修復的司法の一場面と考えることができるように思われます。248条は、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる」という形で、起訴するかどうかは検察官の裁量権の範囲内にあることを認めております。特に、被害額が軽微である窃盗のような場合だけでなく、犯罪後に被害弁償をしたことを根拠として、起訴をしないという扱いも認められます。248条の実質的な内容からすれば、社会的な非難がもう必要でない、あるいは極めて低くなった場合には起訴裁量処分(不起訴または起訴猶予)にもとづいて事件を決着させてしまうことができますので、その限りでは、一種の修復的司法的な発想を取り込んでいると言ってよいと思われます。

(2) 少年司法システムにおける修復的司法

1 一方、少年司法に目を転じてみますと、特に英語圏の国々において、少年司法システムの中で修復的司法を積極的に活用する場面が多く見受けられるようです。

レジュメの中にその例としてカナダを挙げたのは、私がカナダ少年法を特に対象として研究しているという事情もありますが、修復的司法の先駆的な動きがカナダ少年司法システムにあったように思われるからです。ファミリー・グループ・カンファレンスを正面から認めたことに着目して、ニュージーランドでの取り組みが非常に有名ですが、実は先駆的な動きはカナダの中にあったように思われます。1984年に施行されたカナダ少年犯罪者法4条は、「(正式の少年裁判に代わる)代替措置プログラムを認めることができる」と規定しておりました。その詳細は拙稿の154頁に書いてありますが、検察官および少年の同意を条件として、少年犯罪者を裁判外の非形式的手続において扱うことを認めるという制度が存在していたわけです。この制度のもとに付託された少年犯罪者は、少年裁判には係属せず、修復的司法を念頭に置いたプログラムの中で扱われておりました。具体的にどのような形であったかと言いますと、被害者に対する謝罪や被害弁償という方法で原状回復がなされたと判断されたときに少年手続を終結するというものでした。もっとも、少年犯罪者法における代替措置は、ある意味で非常に極端な方法であり、カナダに特有のものであったと言えます。カナダ少年犯罪者法は、身柄を収容したうえで自由を拘束するという形の拘禁処分を非常に多用し、アメリカなどに比べても拘禁率が極めて高いという事情がありました。しかし、その一方では、なんとかしてダイヴァージョンという形で正式裁判手続から離脱させようという動きが見られたのです。ダイヴァージョンとしての修復的司法の積極的活用と拘禁処分の多用という状況は、両極端な動きとして、カナダ少年犯罪者法を特徴づけるものであったのです。

2 その後、1989年には、先ほど述べたような形で、ニュージーランドの少年司法システムの中に修復的司法が正式に導入されることになりました。一方、カナダでは、2002年に少年犯罪者法を廃止したうえで、少年刑事裁判法が制定され、成人の刑事裁判制度にさらに近づいた形で少年法制が大きく変わりました。修復的司法に限って言えば、少年犯罪者法においては4条というたった1カ条の根拠規定であったものが、少年刑事裁判法では、少年事件の扱いが大きく2系列のものに分けられることになっております。すなわち、少年事件の扱いは、裁判外の手続によるものと正式裁判手続によるものの2系列に分けて規定されております。その限りでは、修復的司法を中心としたダイヴァージョンをカナダとしても正式に導入し、しかもそれを2つの系統の一方に位置づけるという形で、非常に特異な発達をみせているように思われます。

裁判外の手続として具体的に何が規定されているかと言うと、警察官による注意や警告、あるいはさまざまな形態の加害者・被害者和解プログラムです。警察官の注意や警告を含めて、加害者と被害者との間でどうやったら和解ができるかということが重視されているわけです。ただ、前者との関係で若干注意していただきたいのは、英語圏の国々においては、少年事件のすべてが必ずしも検察官によって訴追されているわけではないということです。場所によって、いわゆる警察訴追が認められているところがあります。カナダは10州と3准州から構成されていますが、具体的な少年事件の扱いは州の管轄に置かれており、検察官の訴追にもとづくところもありますし、警察の訴追にもとづくところもあります。したがって、警察段階でのダイヴァージョンは、我が国でイメージするのではあれば、検察の訴追段階でのダイヴァージョンと考えていただいていいかと思います。

具体的な措置やプログラムで充足すべき必要条件は、加害者の側では、自分の行ったことの社会的意味、つまり自分が悪いことをやったのだということの自覚が要求されます。それから、謝罪あるいは被害弁償、社会奉仕などを通じて、加害者との間の原状回復を行ったうえで、社会との関係を修復するということです。社会奉仕などは加害者自身に対する奉仕ではないので、加害者との関係がこれによって必ずしも修復されているわけではありませんが、社会との関係修復を図るという意味で必要とされております。責任の自覚と被害者に対する関係修復、そして社会に対する関係修復の3点は、最低限必要な条件だと言われています。

3 修復的司法の対象となりうる犯罪類型については、純粋に理論的な観点においては、責任の自覚と被害者・社会との関係修復が認められる限りでは、対象犯罪には何らの制限あるいは制約はないということになります。現実的には軽微な財産犯などに多用されていますが、理論的には、加害者の自覚があり、被害者および社会との関係が修復されるのであれば、重大犯罪においても導入する可能性は否定されていないということです。実際、我が国においては、たとえば殺人罪のような重大犯罪にも導入ができるのではないかと言われることがあります。ただ、通常は、軽微な財産犯を対象とする場合がほとんどであると言えます。その理由は、要するに、原状回復が一番簡単なのが財産犯であるからです。また、軽微な財産犯であれば、被害者の納得が得られやすいという面もあります。たとえば、傷害を負わされ一生にわたって傷が残るような事案においては、原状回復ができるかと言われると、やはり難しいものがあります。ですから、どうしても現実的には、軽微な財産犯が多いということになってくるわけです。

4 なお、我が国の少年司法システムとの関係で議論する場合には、少年法の特異性に特別な注意を払う必要があると思われます。成人の刑事裁判制度の特徴についてはすでに述べましたが、少年法において、我が国は、いわゆる全件送致主義という考え方を採っています。すなわち、少年事件は、すべてのものを必ず家庭裁判所に送致しなければならないという原則です。この点からすると、我が国の現行少年法は、他の多くの少年法制と異なり、少なくとも送致以前のダイヴァージョンを認めない趣旨だと言わざるを得ません。詳細は後ほど述べますが、我が国の少年司法の中にダイヴァージョンを取り入れようとする場合には、ふたつの方向性があり得ると思われます。ひとつは、全件送致主義をやめてしまうか、あるいはその例外を認めるということです。もうひとつは、ダイヴァージョンは手続のどの段階においても可能ですから、全件送致主義を前提としたうえで、家裁の少年手続に係属した後のダイヴァージョンだけを認めるという可能性があるように思われます。

V 日本への導入を想定する場合の前提・検討課題

現実的に予想される困難を一応度外視したうえで、修復的司法を我が国に導入することを想定した場合、その前提条件と検討課題を明らかにしておく必要があろうかと思います。大方の興味は少年司法の方にあろうかとは思いますが、一応、成人刑事裁判システムと少年司法システムのふたつに分けて考えるのが有益でありましょう。

(1) 成人刑事裁判システムへの導入可能性

1 修復的司法を成人刑事裁判システムに導入する場合には、成人刑事司法の目的・機能に少なくとも抵触しないものでなければなりませんから、この点をまず考えてみることにします。我が国だけでなく、成人に対する刑事司法は、犯罪に対して刑罰という手段をもって社会的な非難をするという形で、回顧的な構成を採っております。Retrospectiveに考えられているわけです。すなわち、行為者が何をやったかを明らかにしたうえで、やったことに応じて社会的に非難するということです。もちろん、犯罪者の立ち直りを考えていないわけではありませんから、その点は誤解しないで下さい。実際の行刑の場面においては立ち直りを考えて一生懸命にやっているのですが、少なくとも刑法理論としては、やはり回顧的に考えているということです。したがって、何よりもまず、罪刑の均衡ということが要求されます。どのような犯罪に対して、その法的効果としてどの程度の刑罰を規定するか、という問題です。具体的には、刑法の条文を規定する段階で、一般的に犯罪と刑罰とが均衡していなければならないということと、実際の量刑、すなわち宣告刑を決定するに当たって、それが行為者の責任と釣り合っていなければならないということです。ただ、罪刑の均衡とは言っても、必ずしも厳密な均衡を要求しているわけではありません。たとえば、殺人罪ですと、死刑または無期もしくは3年以上の懲役という、非常に幅広い刑が法定されています。これは何故かと言うと、殺人という共通の犯罪類型においても、具体的な事案にはさまざまな事情があるからです。そうしたさまざまな事情に柔軟に対応するためには、幅広い法定刑を規定する方が実際的であり、我が国の法定刑は、他の諸国に比べてその幅が非常に大きいという特異な状況になっています。こうした法定刑を前提として、具体的な刑罰を決定していくに際して、行為者の責任との相関が強調されることになるわけです。

成人刑事司法の目的・機能がこのようなものだとすると、そこに修復的司法を導入しようとすれば、何よりも、社会的非難の必要性が解消ないしは大きく(社会的非難の必要性が認められない程度に)低減したことが確認される必要があります。特に、ダイヴァージョンの側面を強調すれば、このような形になるはずです。つまり、社会的非難の必要性が高い場合には、正式な裁判手続によってどの程度の当罰性の高さがあるかということを確認したうえで、それに見合った刑罰を科すということにならざるを得ないと思います。この意味で、社会的非難の必要性の解消ないし低減がダイヴァージョンの前提になるわけです。そうであれば、刑訴法248条に規定されているように、犯罪の程度、被害額、事件後の行為者の態度といったようなものが考慮要因になるだろうと思います。また、行為の時点では社会的非難の必要性の程度が高いにしても、その後に非難の必要性がなく(低く)なったということはあってもいいわけですから、訴追される以前の段階でさえあれば、行為後の事情も当然にダイヴァージョンを左右する要因として考慮されてよいことになります。

2 次に、ダイヴァージョンとしての修復的司法を取り入れる場合、どういう形でそれが可能かと言うと、現在の成人刑事制度を前提とする限りは、やはり起訴便宜主義の一環として導入する以外にはないように思われます。正式な裁判手続が開始してから後は、非難可能性が解消ないしは大きく低減したということを認めるわけにはいかないように思われます。正式裁判手続は非難の程度の確認という側面を持ちますから、検察官が高い非難に値するから確認してくれとして訴追している以上、裁判手続の途中で離脱させることは、論理的には不可能でないにしても、実際問題として極めて困難であろうと思われます。したがって、起訴便宜主義の一環として導入する可能性だけが残るということになります。

また、被害者参加型という側面を考慮するとしたら、ダイヴァージョンの形態に被害者をどのように関与させるべきかが問題となります。現在、不起訴処分や起訴猶予処分の決定に際して被害者が全く関与していないというわけではないと思いますが、少なくとも加害者と対面するような形の和解は採られておりませんので、どのように関与させるのが適切かという点が明らかにされる必要があるわけです。もっとも、被害者参加という側面を重視するのであれば、ダイヴァージョンという形を採らない修復的司法の導入を考えることも不可能ではありません。しかし、現行システムを前提としてダイヴァージョンの形態を採らないとすれば、結局のところ、被害者が許している、あるいは満足しているということを裁判の中で確認する以外にはありませんので、おそらくは量刑事情として考慮する以外にはないだろうと思われます。したがって、せいぜいのところ、執行猶予付きの判決という形で決着せざるを得ないことになりましょう。

(2) 少年司法システムへの導入可能性

1 少年司法システムに修復的司法を導入する可能性を検討する場合にも、何よりもまず、少年司法の目的・機能との関係で考える必要があります。かなり大雑把な言い方にはなりますが、少年司法の場合には、少年がやったこと、すなわち非行(我が国の非行概念は広いですから犯罪には限られません)を「きっかけ」として、当該非行を行った少年の問題は何なのか、どのような点を改善すべきなのかということ(一般に「要保護性」と呼ばれています)を解明したうえで、どのようにしたら少年が最もよく社会復帰ないしは再社会化ができるかという観点から、その少年にとって最善の処遇を選択してやるということを目的としています。要保護性に対応した最善の処遇によって再社会化を図るという、いわゆるベスト・インタレストの実現が重視されております。非行というのは回顧的なわけですが、この回顧的な行為を「きっかけ」として将来的な再社会化を目指す点で、展望的な構成が採られているわけです。少年司法の重点は、Prospectiveな見方にあると言ってよいでしょう。

このような目的・機能を実現するために、我が国の少年法は、非常に特徴的な構造を持っています。ひとつは、責任を追及するという意味での検察官の関与を全面的に拒否していることです。2000年の少年法改正によって一部の事件に検察官の関与が認められるようになりましたけれども、そこでの関与の仕方も、責任追及者としての関与ではないということは明確にされています。事実認定が困難な事案に限って、事実認定のプロとしての役割が期待されているだけで、成人刑事裁判におけるような責任追及者としての検察官の関与は依然として明確に拒否されているわけです。それとともに、すべての少年事件について、専門裁判所である家庭裁判所の判断のもとに置くことが必要とされています。これを全件送致主義にもとづく家庭裁判所先議主義と呼びます。少年司法システムが成人刑事裁判システムから独立してきたという歴史を見ますと、当初は、多くの国々において、我が国の現行少年法と同様の構造が採られていたわけです。ところが、残念なことに、現在は、こうした構造を持つ少年法制はかなり特異な存在になってしまっているように思われます。特に、1970年以降のアメリカやカナダを中心として、少年司法の刑事システム化が急速に進んでいて、従来のような保護を中心とした、あるいは保護による再社会化を強調する手続は、孤立したとまでは言えないにしても、大きく取り残された感があります。ただ、刑事司法化の流れに乗ることが少年司法システムにとってよいことかどうかは慎重に検討されなければなりませんし、私自身は、保護中心のシステムを今後も維持すべきだと考えておりますので、誤解のないようにお願いしておきたいと存じます。要保護性に対応した最善の処遇にもとづく再社会化(ベスト・インタレストの実現)は、刑事司法化が進むことがあったとしても、少年司法システムの大前提として維持する必要があると考えているわけです。

2 このような少年司法システムの目的・機能からすると、特にダイヴァージョンを念頭に置いた修復的司法を導入するためには、要保護性が解消ないしは大きく低減したことの確認が前提になると思われます。現在でも、少年事件の場合には全件が家庭裁判所に送致されますが、そのすべてが少年審判に係属するというわけではありません。どこか途中の段階で、要保護性が解消されたり、大きく低減されたことが確認される場合もありますし、家庭裁判所に送致されたことを契機として立ち直れる少年もたくさんいます。現在でも、少年事件の75%程度が審判不開始(審判手続に移行しない)という形で終結しております。こうした運用は、広い意味でのダイヴァージョンとも考えられますので、ダイヴァージョンの導入そのものが困難ということにはならないように思われます。ただ、少年の場合には要保護性こそが重要視されますので、理論的には、非行の程度や被害額は必ずしも考慮要因にならない、少なくとも考慮要因にしなくてもよいということにならざるをえません。誤解を恐れずに解り易く言いますと、殺人を犯した少年と窃盗を犯した少年の要保護性が逆転していることもありうるということです。こうした事態は、もちろん極めて稀なことであって、通常のものではありません。しかし、止むにやまれぬ事情のもとで突発的に殺人を犯した少年と、常習的かつ計画的に窃盗を累犯で重ねている少年を比べた場合、前者の要保護性の方が低いということは理論的にはありうるということです。したがって、社会的非難ではなしに要保護性を重視する少年事件においては、非行の程度や被害額は必ずしも決定的な考慮要因にはならないということになります。ただ、そうなりますと、他方で、別の困難が生じてまいります。修復的司法を導入する場合に、どのような事件、どのような少年を、修復的司法の対象として選別するかということが問題にならざるをえないということです。理論的には、社会的に見て重大な被害が発生している事件であっても、要保護性の解消が容易だと予測される事件は、その対象としてよいということなのだろうと思います。

3 では、次に、少年司法システムの中にダイヴァージョンとしての修復的司法を取り込む場合、どのような形のものが想定されるかということを少し具体的に考えてみます。まず、全件送致主義と家庭裁判所先議主義を現在のままで維持する場合、そして私は維持すべきだと考えていますが、送致前のダイヴァージョンという形態は採用できないということになります。送致前のダイヴァージョンを認めるためには、一定程度のシステムの変更が必要となります。そして、変更を考えるとしたら、ふたつの形がありうると思われます。ひとつは、全件送致を完全にやめるという形での徹底的な変更であり、もうひとつは、全件送致を大原則としながらも、ダイヴァージョンに値するものの離脱を例外的に認めていくというものになるでしょう。

また、ダイヴァージョンを認めるにしても、それはどの手続段階においても可能であるので、どの段階で、どのようなものとして構成するか、ということも考えなければなりません。全件送致主義を前提とする場合には、家庭裁判所に送致された後の段階でやらなければなりませんから、家庭裁判所が主導するものにならざるをえないでしょう。少なくとも、家庭裁判所の決定にもとづいて認められるということにならざるをえないように思われます。この意味では、調査官が現に行っている試験観察制度(少年法25条)を利用する形態での導入可能性が検討に値するように思われます。試験観察というのは、もともとは少年の要保護性を確認したうえで最善の処遇を見極めるための制度として導入されたものですが、実際には、試験観察それ自体が少年の再社会化に役立つとことがわかってきて、中間処遇として試験観察に付した後には保護処分を差し控えるという形で利用されている現実があります。こうした現実からすれば、試験観察をダイヴァージョンの方法として利用するという方策は検討に値すると言えましょう。ただ、そうなると、それは、調査官を中心として構成されるものということになります。そのようなダイヴァージョンが導入できるのであれば、当該事件は、審判不開始あるいは不処分決定という形で決着を見ることになるでしょう。

4 次に、ダイヴァージョンの形態を採らないで、被害者の参加という側面を重視する修復的司法の導入を考える場合、つまり正式な審判手続に係属しながら被害者の参加ということを考える場合には、最終(処分の言渡し)段階に至った時点で、処分の必要性がないという不処分決定で決着する形になるように思われます。ただ、この場合には、現行少年法の解釈論としても深刻な議論のあるところですが、行為者(少年)本人の立ち直り(特別予防)だけを重視すれば足りるのか、社会に対する一般予防的な効果を考慮すべきかが、争われることになるでしょう。一般予防というのは、たとえば成人の事件の場合に、ある犯罪をやったらこのような刑罰が科されるということが明らかにされると、犯罪予備軍(潜在的犯罪者)としての一般人は、犯罪を行うと不利益があるということが解って思い止まるという、予防的な効果があると言われている考え方です。こうした一般予防は、罪刑の均衡を前提とする社会的非難とは馴染みやすいのですが、個々の少年に対する要保護性と最善の処遇を前提とするシステムとは親近性が希薄であり、その考慮の是非が争われてきたわけです。

被害者の参加の形態について言いますと、正式手続への係属以前であれば比較的柔軟な運用が可能でありますから、被害者を関与させることにそれほどの困難はないように思われます。しかし、正式な手続が開始された以降は、被害者の参加は必ずしも容易というわけではなく、どのような段階でどのように関与させるべきかが問題になってまいります。中央大学の椎橋教授は、2001年の少年法改正(2000年改正、2001年施行)で被害者に意見を陳述する権利(意見陳述権)が認められたことが一応の突破口になりうるのではないかとの見解を表明しております。しかし、私自身は、必ずしも大きな突破口にはなりえないのではないかという気がしています。これを突破口にしても、重要なのは、「どうしてほしいのか」ということを家庭裁判所が被害者から真剣に聞いたうえで、それを尊重してやる制度、あるいは運用の確立であると思われます。単に意見陳述権が認められたということだけでは、現実的な突破口にはならないように思っています。

我が国の司法システムにおける修復的司法の導入可能性については、後の議論の時間に、特に皆さんと具体的に議論させていただきたいと思っていますので、一応まとめの部分へと進ませていただきます。

VI 修復的司法は「第3の道」として定着できるか?

1 修復的司法は、少年司法システムとの関係で、「司法における第3の道」として大きな期待が寄せられているように思います。特に、修復的司法を誕生させた英語圏の国々を中心に、そのような期待が大きいと言ってよいでしょう。英語圏を中心とした少年司法システムの流れをごく概略的に言うと、それは、1899年のアメリカ・イリノイ州シカゴでの少年裁判所の創設に始まって、1950年代までは、福祉モデルとしての運用、つまり少年の再社会化に重点を置いた形で安定的に運用がなされていました。ところが、1960年代の半ば頃から、このような福祉モデルに対する批判が始まることになりました。

批判はいろいろな点に向けられておりましたが、非形式的手続にもとづいた過度の裁量性に対する批判が、大きなもののひとつでありました。福祉モデルを前提にすると、最も有効な再社会化を目指すことから、要保護性の徹底的解明と最善の処遇の選択を実現するためには、手続はなるべくルール化されてない、柔軟な運用を可能にする形の方が好都合だということになります。また、柔軟な運用をよりよく実現するためには、関与者の裁量権に制限のない方が望ましいということにもなります。しかし、逆に、こうした運用は少年の人権を制限することにつながりますので、かえって少年のためにならないのだという批判が起こってきたわけです。このような観点は、少年司法システムにおける適正手続の保障という要求に至ることになります。また、その一方では、理論的な批判ではなく、かなり情緒的な主張ではありましたが、福祉モデルを基礎とする少年司法システムは「少年に甘い」、「少年を甘やかせ、増長させている」という批判が起こってまいりました。こうした批判(あるいは印象)が本当に正しいものであるかは慎重に検証されなければなりませんが、福祉モデルにも反省すべき点があったことは否定できません。それは何かと言うと、犯罪あるいは非行に対する少年の責任をどのように考えるかということについて、議論を必ずしも行ってこなかったという点にあります。そうしたことから、1970年のアメリカ・ワシントン州の少年法を嚆矢として、少年システムの司法モデル化、いわゆるJustice Modelと呼ばれるものがだんだん強くなっていくこととなりました。それでもまだ、我が国の少年法に典型的に見られるように、福祉モデルを前提とする少年司法システムも衰退してしまったわけではなく、現在は、司法モデルと福祉モデルが混在しているという状況があります。このような現状を背景として、福祉モデルと司法モデルに代わるモデルとしての期待が修復的司法に寄せられており、「第3の道」と言われているわけです。

2 福祉モデルと司法モデルのいずれを前提にするとしても、従来の司法の構造は、国家と行為者との関係、つまり国が行為者に対してどのように対応するかという2面構造のものとして成立しておりました。これに対して、修復的司法は、行為者、被害者、社会という3者を当事者として構想されております。

このような形の修復的司法は、当事者すべての納得を前提として成り立つ制度ですから、対象事件をどのように選別していくかということ、つまり当事者の納得が得られるような事件をあらかじめ選ばなければいけないわけです。一応はやってみたけれども失敗した、というわけにはいきませんから、対象事件をどのように選別していくかということが重要になります。

それから、ニュージーランドのファミリー・グループ・カンファレンスはコーディネーターが主催する形になっていますが、コーディネーターの能力や資質によって結論に大きなばらつきが出てきはしないかという点が問題になります。ニュージーランドについては成功例だけが報告されていますが、オーストラリアなどにおいては、当初はうまくいくと思って実施したところが失敗に終わったという事例も報告されております。こうした点からは、最終的には、やり方次第ということになってしまいそうな気がします。そうなりますと、専門の裁判官が関与する正式な裁判手続や審判手続の安定的な扱いとの間の乖離が大きくならないだろうかという懸念が生じてくることになります。このこととの関係で言いますと、我が国においては、正式な裁判制度あるいは審判制度は裁判官が行っているということから、結論に不満はあったとしても、裁判官がやっているのだから、国家がやっているのだからといった点から、最終的には納得させられるという面があります。しかし、修復的司法では、結論に納得できなかった場合、ただちに不満が噴出するのではないかという心配があるわけです。

3 もうひとつの問題は、実際に付託された措置やプログラムにおいて行為者が適切に対応しなかった(できなかった)場合の扱いをどうするかということです。たとえば、謝罪をしなさいと言われたが、謝罪に行って加害者とより険悪な関係になってしまったというような場合、そのような行為者についても離脱を認めてしまってもいいのかという問題は、現実的にはかなり多く発生するように思われます。このような場合に対応するために、ニュージーランドなどでは、択一的な関係のもとでの運用がなされています。完全に別個の2本立てにしているわけではなく、修復的司法がうまく機能しなかった場合には正式の裁判制度に戻る可能性を残しているわけです。現実的にはそれが最適な運用方法と言えるでしょうが、一事不再理という理論的な観点からすれば、ひとつの事実について行為者に二重の処分(危険)を与えているのではないかという重大な疑いを払拭できません。

最後に、特に我が国との関係で言いますと、一般に、修復的司法はニュージーランドのマオリ族のいわゆる家族的あるいは家長が中心となっている問題解決システムに範をとっていると言われ、そのようなところではかなり成功率が高いと言われています。カナダなどでもそうで、いわゆるアボリジニの人々の間でこれがうまく機能していると言われています。そうした地域や国には、長老のような立場の者、あるいは一定の立場にある者がきちんと差配することに対して、構成員のすべてが納得したうえで従うという文化的風土が認められます。しかし、そのような役割をコーディネーターなどが代替できるかということは、やはり問題として残るように思われます。修復的司法がそもそも我が国の文化的風土に馴染むかという点については、私の能力の範囲を超えているので一般論としてしか言えないわけですが、その成功の大きな要因が特殊な文化的風土にあるのだとすると、ただちに日本に導入することは困難な面があるように思われるわけです。

では、ちょうど1時間がまいりましたので、私の報告・問題提起はこれで終わらせていただき、皆さんの活発な議論をお願いしたいと存じます。ご清聴を感謝いたします。

――丸山氏 講演 終了

南山大学社会倫理研究所