センター員の活動

【フィリピン・タイ調査旅行記】                                吉川洋子


 去る3月上旬、アジア・太平洋研究センターの旅費支援をえて、フィリピン、タイで「無党派層の研究」調査をさせていただいた。10日ほどのハードスケジュールであったが、目的の資料収集と両国政治学者との交流は予想以上の成果があり、充実した旅であった。それ以上に幸いだったのは、民主化の中のガバナンス危機にあったフィリピン、タイに接する機会をえたことである。一見、政治現象面では対照的にみえることも、なにが問題なのかという点では共通するものがあった。それでも両国の民主化の方向、つまりポリーアーキーの向かう経路、政治的妥協の着地点には大きな違いがある。フィリピンは若手兵士の「アロヨ追放」“クーデター”計画の封じ込めに発令された非常事態宣言が解除された直後、タイは事実上、タクシン信任を問う選挙運動の最中であった。とりわけ今回は、より精通しているフィリピン政治という比較の鏡に映して、タイ政治を観ることができ、さらにフィリピン政治への視点へフィールドバックさせることができた。

 共通するのは両国のトップ指導者のアロヨ大統領、タクシン首相が揃って、民主化志向の都市中産・中間層から辞任を迫られていたことである。アロヨの電話「ハロー ガルシー」の内容公開が大統領自らによる票の水増工作、政治プロジェクトによる不正パトロネッジ供与の疑惑が、タクシンはシンガポール国有企業への自社株の売却と巨額の税金逃れはじめ、グローバル化の推進により経営上の利益をあげたこと、独裁的手法、貧富の格差の増大が、いずれもトップ国政指導者のガバナンスと政治規範の問題が問われた。選挙の歴史が長いフィリピン選挙では大票田の農村大衆層に向けて各種政治プロジェクトをばら撒くパトロネッジ(恩恵)戦略は選挙目立ての定石であるが、タイではタクシンがはじめて「導入」したという。タイ政治のエリート性の一面を語っていておもしろい。しかしそこから先の、両国の市民ピープルパワーぶり、軍の動向、解決への経路の違いは大きい。

 フィリピンは手詰まり感と無力感、安堵感が蔓延していた。54%が「アロヨの辞任」を求め、アロヨ支持率は約29%までさげているにもかからわず、議会の弾劾裁判は下院委員長の豪腕で阻止され、憲法上の大統領追放手段は絶たれた。共産党系左派とコーリーアキノ派以外は、中産階級はマルコス打倒の86年以後、繰り返された劇場型ピ―プルパワー動員に飽きており、ピープルパワーはもはや神通力を失った。アロヨは辞任すれば「ただの人」、前大統領と同じ逮捕軟禁の運命が待っているから辞任はしない。憲法改正・議院内閣制移行後のフランス型大統領として任期満了の2010年まで居座るつもりである。

 フィリピンが危険なのはこの八方塞がりの機会を狙って、世直し役を任じる若手中堅エリート将校が大統領と上官への“クーデター”未遂を繰り返していることである。かつてのタイのヤングタークスのように、国民の支持をうけて軍が最後に問題解決に乗り出すという構図である。そこで知識人の話題はもっぱら、計画はクーデターといえるかどうかである。反アロヨ派は親エストラーダ前大統領派、進歩派・左派、クーデターの張本人の兵士らは、あれはクーデターではない、2001年の再現、つまり軍上層が「現大統領への指示撤回」を表明し、これを契機にアロヨが大統領に昇格できたように、平和的政権移行の民意を軍が代表するのだから、非常事態宣言は過剰反応であり、アロヨの自己保身のためにほかならないという。しかしこの“クーデター”計画にはピープルパワーの大衆支持はない。非常事態宣言支持派は「アロヨ大統領転覆」計画は真正クーデターであり、これら若手将校らを逮捕し教訓を与え、厳しく芽を摘んでおかねば、今後、アロヨの最も重視する「経済成長」が阻害されるという。中産・中間層は政変や変動は2度とごめんだという思い、上層は票の水増工作がなければ、俳優のフェルナンド・ポーが大統領に選ばれるという悪夢が実現した、だから不正がこれを未然に防いだと相対化する。所詮どのフィリピン大統領選挙でも多少なりとも票の不正は行なわれているというパーセプションに落ち着き、政治指導者に何を求めるのか、経済発展、雇用、生活向上の指導力か、それとも市民的価値観や政治規範かをめぐって国民は分かれている。

 タイ(バンコック)は73年、92年以来の市民ピープルパワーの結集で燃えていた。都市中間層、専門職や話した若手政治学者は「タクシン辞任」と怒り、胸に「タクシン止めろ」のバッジをつけて連日、週末は王宮前広場や首相府の建物前に数万人が集まった。低所得者住宅政策の恩恵をうけたタクシン支持派のタクシー運転手らと車で論争がおき「降ろされた」人も多いという。タクシンは小泉流に、首相の解散権を行使して選挙による信任を問い、国民の民主的承認を確率しようとした。野党と反タクシン派はこの筋書きに乗るまいとボイコット戦術を打ち、得票率不足の選挙区を続出させた。街の選挙運動はいたく静かなもので、タクシンはもっぱら北タイへ行って支持派農民を前に演説した。その農民らは北タイから農耕用トラクターを連ねて都入りし、タクシン支援へ結集した。この対立の中で、タイ軍部はまったく介入しなかったし、その気配すらなかったのである。

 しかし滞在中の日曜日の夜、突如テレビから92年流血事件の際の王の前に跪く二人の映像が流された。国王側近のアイディアだという。すると、国王の仲裁調停による解決へ期待が変わった。野党民主党総裁までもが国王のお出ましの希望を表明したのには唖然とした。タイ民主主義の限界か、それとも安定した政治をうむよい社会共通資本か、議論が分かれるところである。果たして後日「与党議席だけの議会は民主主義とはいえない」という国王のご意向が公表された。こうして王政のタイの政変は最後には水戸黄門が登場する。共和制のフィリピンがつらいのは自分らの撒いた火種を関係者全員で消さねばならない。もはやアメリカの後見も、枢機卿の「モラル指導」発言も、タイ国王のような憲法上の権限も国民に対する権威もない。タクシンは選挙の与党単独勝利を受けて政権継続を公表した翌日、国王拝謁の直後に「首相には就かない」と表明した。愛国党の党首として次の機会を狙うという。やっぱりLinzとValenzuelaの言うように、大統領制民主主義は失敗例が多く、議院内閣制のほうが「今はだめでも次がある」と柔軟になれていいのかしら。



 
                                    ▲アサンプション大学ABC-KSC世論調査センター
 
     ▲タマサート大学のスピナイ先生とともに           ▲選挙キャンペーン用看板



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