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【史料調査報告−『蒋介石日記』について-】                                     中村 元哉


 私は、2009年8月20日から約10日間、アジア・太平洋研究センターの研究支援を一部にうけて、スタンフォード大学を訪問した。その主たる目的は、フーバー研究所が公開している『蒋介石日記』の閲覧であった。

 周知のように、フーバー研究所は、中国国民党の宋子文文書や改造委員会档案ならびに中国共産党の建党にかかわる文書など、数多くの貴重な中国近現代史史料を所蔵している。そのなかでも、近年とりわけ世界の中国研究者に注目されてきたのが『蒋介石日記』(1917年〜1972年)と『蒋経国日記』(1937年〜1979年)である。後者はいまだに公開されていないが、前者は『朝日新聞』の連載にもあったように数年前から順次公開されている。

 この『蒋介石日記』は、台湾での民主党政権の誕生によって日記の保全を心配した蒋家(蒋方智怡Elizabeth Chiang女史)が2004年に同研究所に管理と公開を委託したものである。閲覧にあたっては、複写はもちろんのこと、デジカメ撮影もパソコン入力も一切認められていない。そのため、現地に赴いて日記を1ヵ月単位で申請し、地道に筆写するほかない。聞くところによれば、日記は戦後台湾期から公刊されるそうだが、いずれにせよ、その全貌がフーバー研究所の外部にさらされるまでには、なお一定の時間を要する。したがって、日本・中国・台湾などから中国近現代史研究者がスタンフォード大学に押し寄せる状況には、当分の間変化がないだろう。

 この日記の史料的な価値と学術上の意義については、台湾の中央研究院近代史研究所を中心とする国際的な研究プロジェクト(日本の研究者も参加している)が、現在解明中である。蒋介石に関する主要な文献と史料のうち、現在までに公刊・公開されているものは以下のとおりであるが、とりわけ日記とD・Eとの対比は俟たれるところである。

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@秦孝儀主編『中華民国重要史料初編――対日抗戦時期』全7編(中国国民党中央委員会党史委員会、1981年)

A秦孝儀主編『先総統蒋公思想言論総集』全40冊(中国国民党中央委員会党史委員会・中央文物供応社、1984年)

B張其ホ主編『先総統蒋公全集』全3冊・附録(中国文化大学出版部、1984年)

C秦孝儀主編『総統蒋公大事長編初稿』(中国国民党中央委員会党史委員会/中正文教基金会、1978年/2002年〜継続刊行中)

D国史館で公開中の「蒋中正総統文物」(「大渓档案」)

E王正華ほか編注『蒋中正総統档案 事略稿本』(国史館、2003年〜継続刊行中)

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 私は、自身の研究テーマである「中華民国憲法制定史」という視角に絞って日記を“摘み食い”した程度であるが、それでも日記の有する学術上の意義と魅力について知ることができた。

 川島真氏(東京大学)や段瑞総氏(慶應大学)らがすでに指摘しているとおり、毛思誠編『民国十五年以前之蒋介石先生』(龍門書店、1936年)と同書をもとにした中国第二歴史档案館編『蒋介石年譜初稿』(档案出版社、1992年)には一部に不正確な記述があり、李勇・張仲田編『蒋介石年譜』(中共党史出版社、1995年)の内容にも政治的なバイアスがかかっているとされているが、そうした類似の感想が私の頭の中にもよぎった。

 また、台湾の国史館での史料調査の成果と照らし合わせた場合、この日記が上記D・Eの曖昧な内容を補強し、ときにはD・Eの記述を裏付ける蒋介石の政治的・心理的背景を描写していることも窺い知れた。

 たとえば、1946年1月の政治協商会議は「建国大綱」に依拠した「五五憲草」の理念を放棄して新たな憲法原則(責任内閣制に近似した行政院と立法院の体制、地方分権化の傾向など)を取りまとめたが、こうした憲法制定の動きに対して蒋介石は「最大之苦痛」と表現している。通常は軍事・外交問題に心血を注いでいた彼が、政治協商会議を総括した時点においては憲法問題に大きな関心を示していたこと、あわせて「五五憲草」を明確に支持していたことを読み取れる。さらには、新たな憲法原則を容認した孫科に対して憤慨していた様子もよく分かる。私の記憶では、これらの事実は、Dにも記載はされているものの(楊松『国民党的聯共与反共』社会科学文献出版社、2008年、597頁も併せて参照)、これほどまでには鮮明に読み取れなかったように思う。

 しかし同時に浮上してくる疑問は、それならば蒋介石はなぜ、D(Eにも?)に記されているように、「五五憲草」作成時に責任内閣制の検討報告を陳布雷から受け取っていたのか、そして、なぜ彼が新たな憲法原則を部分的に反映させた「中華民国憲法」草案を国民大会で審議することに同意したのか、ということである。前者に対する答えは、私の調べた限りでは日記に掲載されていなかったが、後者に対する答えは、この日記に明確に記されている。蒋介石と「中華民国憲法」制定史に関する通説の一部は、修正を要するだろう。

 この他にも、孫科に関する記述も興味深い。郭岱君氏(スタンフォード大学)も指摘しているように、アメリカは1944年の段階で蒋介石の後継者として孫科を想定していたが、「中華民国憲法」の制定に尽力したリベラル派孫科への警戒心は、こうした国際情勢とも不可分だったようである(とくに1944年4-6月および1945年12月の記述)。だからこそ、蒋介石は、自らの権力基盤のあり方にも直結する憲法・憲政問題に対して、一定の関心を示したのだろう。

 ただし、「中華民国憲法」を支持したとはいえ、一部の国民党員や当時の世論のようには、自由と憲政の関係について真正面から論じていない。蒋介石は、痛恨の極みと評した李・聞の暗殺事件後に言論・出版の自由と非武装党派の合法化に言及したが、やはり最大の関心事は国家統合、とりわけ国内の民族問題の解決であり、個人の自由ではなかった。このような姿勢は、日中戦争以前とほぼ同質である。したがって、1946年の日記には、少なくとも現状下では「民族自治区」の言葉を憲法に記載できない、と記している。

 日記に記されている軍事・外交の記述は、私が調査した期間(1935.7-36.6,43.8-48.5)に限ったとしても、相当な比重を占めている。しかし、それにもかかわらず、以上のような事実を読み取ることができた。この成果をもとに、今後は台湾を中心にして史料調査を実施し、二冊目の専著の公刊を目ざしたい。

 なお、林孝庭氏(スタンフォード大学)ら同世代の研究者とも交流の機会を持つことができた。アメリカと日本の中国近現代史研究の動向について意見交換できたことは、得難い機会となった。

【補足】戦時期の蒋介石が宣伝部に対して厳しい批判を随所に展開していたことも併せて指摘し、私の以前の観点を補強しておく(「戦後の文化政策機関の変遷――憲政実施と党・国家体制」『戦後中国の憲政実施と言論の自由1945-49』東京大学出版会、2004年、「国民党政権と南京・重慶『中央日報』」中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005年3月)。

 


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